三度目の訪問(5)
さて。
(準備はいーい?)
「おう」
俺は右手を伸ばして向こう側の窓縁をしっかりつかんだ。
(いくよ)
しゅるん。
本当に体が縮んだ。
指先に力を入れていたので、縮んだ分指先に引っ張られる。その勢いを利用して前転。二歳児くらいに縮んだ俺は無事窓を通り抜け、途中でよいしょと身をひねって、窓縁をつかみなおした。同時に体が元に戻った。伸びた足を振って、窓枠を起点に足から着地。
(じょうず!)
モフ美が誉めてくれ、俺はほっとした。悪臭から逃れて、ちょっと涙がでるほど空気がうまかった。大きく息を吸い、そして吐く。
中庭も、それを取り囲む巨大な城も、静まり返っていた。
遙か頭上に見える空は、どんよりとした曇りなので、時間がよくわからない。夕暮れ近くじゃないことを祈りながら、俺はそそくさと中庭を突っ切った。広々とした中庭をつつがなく抜け、石造りの建物に身を寄せる。屋根の下に入って、少しほっとした。
連行されたときも思ったが、あきれるほど広大な城だった。さっきいた塔がにょっきりと立っているのが見える。内部の螺旋階段は果てしなく続いたような気がしたが、ここから見るとだいたい五階建てくらいの高さだろうか。
しかし中庭を取り囲む城は、その塔より遙かに高いのだった。大都会の超高層ビルを隙間なくぐるっと並べたら、こんな感じになるかもしれない。頂上がかすんで見えるほど高く、空がほとんど見えない。昼間だというのに、辺りは薄闇の中に沈んでいた。地面や城の壁がどんよりじめじめしているのは、太陽の光がここまで射し込むことがないと言う証拠なのかもしれない。
そっか、と思う。
ここの人たちは、光じゃなくて闇に住むものなんだもんな。このじめつきは、俺にとってのふかふか布団くらい気持ちのいいものなのかもしれない。
(ふじさわ、行こ)
モフ美がいい、俺の頭の上に乗った。その重みを懐かしく思いながら、俺はモフ美に促されるままに歩き出す。周囲に気を配りながら――頭の中では、これでいいのか俺、と考えていた。
どうしてひとりの見張りさえいなかったのか、不思議だったのだが、実際、この巨大な城に見合うほどの人間が存在していない、ということらしい。
アトレンが兵を出していて、もうすぐ近くまで来ている、とモフ美も言っていたから、そちらに備えるべく防備を固めているようだ。だから城内は必然的に手薄になっているのだろう。モフ美に言われるままにそろそろと進むうち、ようやく、遠くから人のざわめきが聞こえてきた。
俺たちは入り組んだ路地に入り込んでいた。モフ美は道を知っているのか、それともモフオン特有の方向感覚なのか、自信たっぷりに進んでいく。もしモフ美がいなかったらとっくに行き先がわからなくなっていたに違いない。
そこは比較的明るかった。だからその場所の見窄らしさが際だって見えた。不潔で、あの牢ほどではないものの、やはり臭かった。たぶんここは、使用人とか、下働きとか、そういう人たちのいる場所らしい。食べ物のにおいも漂っている。厨房があるのかもしれない。でもこんな場所で調理されたものって、俺はあんまり食いたくないなあ。
黴や腐った野菜くずや、もとは何だったのか知りたくないようなべたべたしたものが至る所にこびりついて悪臭を放っている。人影は全くないが、ここで働いて食事を作っている人たちは、自分の仕事に喜びだの誇りだの、全く感じてないんだろうな、と、料理人姉貴の口癖を思い出しながら考えた。少なくとも包丁やフライパンは自分の手足と同じだ、なんて思っていないだろう。
――ミノリ様が来てくださるようになったから、料理長が張り切ってました……
エレナちゃんの言葉を思い出すまでもなく。
闇だとか光だとか、どっちが正義だとか、悪だとか。そういうの、俺にはよくわからないし、『闇が悪だなんて誰が決めたんだ』という千絵子の言葉にも、一理あるかもなんて思うけど。
でも、どっちが好きかと聞かれたら、俺は断然リオニアの方が好きだし、味方したいな、と思う。
右に曲がる通路が見えてきた頃だ。
(隠れて)
唐突にモフ美が言い、俺は手近な壁に身を寄せた。足の下でぬちゃっとした何かについては深く考えまい。遅ればせながら、かつんこつん、こつんかつん、という足音がふたつ、重なりあって俺の耳にも聞こえてくる。がちゃがちゃと鳴っているのは防具の音だろう。右側の通路から兵士がふたり、並んで歩いてくるらしい。
「――チエコサマ」
「――、――、エノラスサマ」
話し声が聞こえた。どうやら上機嫌だ。たぶん、エノラス様のところにチエコ様が戻ってきて良かったとか、そんな会話をしているに違いない。酔ってるかどうかまではわからないが、辺りを警戒する様子がないのはありがたい。ふたりは上機嫌で話し続けながらも、淀みなくこちらへやってくるので、俺は身を寄せた壁に切られている窓から、厨房の中に入り込んだ。
間一髪。俺がしゃがみ込むのと同時に、そいつらが角を曲がってきた。つんと鼻をつくのは酒の匂いだろうか。否応なく張りつめる聴覚に、どこか遠くでどっと湧いた笑い声が届いた。たぶんこのふたり、宴会を抜けてきたのだろう。見回りのシフトとかあるのかもしれない。
俺はそっと頭をもたげ、窓から外をうかがった。さっき俺を連行した兵士と同じ格好をした男がふたり、楽しそうに談笑しながらゆっくりとそこを通り過ぎる――と。
そのふたりの向こうを、流れ星が飛んだ。
音は聞こえなかったが、輝く大きな星が空を横切っていく。高度は低く、かなり近い――というか、たぶん城内に突き刺さる勢いだ、と思う間に視界を横切って消えた。爆発音も衝突音も聞こえず、あんなでっかい隕石が衝突したというのになんの衝撃も感じなかった。
そして、窓の外を通り過ぎた兵士ふたりも、なんの反応もしなかった。
相変わらず上機嫌で話し続けながら、今までのペースでゆっくりと遠ざかっていく。
思わず、そいつらを呼び止めるところだった。今のを見逃すなんてあり得ない、俺よりずっと見やすい体勢と位置なのだ。なのに彼らは全く気づきもせずに悠々と通り過ぎていく。なんでだ、と思ったとき、俺の頭でモフ美が言った。
(ふじさわ、助けが来たのかも)
思わず声を出しかけて慌てて口を押さえた。(は?)
(あれはリオノスの神聖術だよ。ちょっと見てくる。ここで待ってて)
え、ちょ、待っ。
止める前にモフ美は、ひゅうん、と飛んでいってしまった。通り過ぎた兵士を追い越すように飛んでいったが、当然兵士は気づかない。いいなあ、羨ましいなあ。俺もこっちの人たちに見えない体だったら良かったのに。
兵士が充分通り過ぎるのを待ってから、ふうう、と長いため息をついた。
待ってて、と軽く言われたが、もし厨房担当の人とかが食事の下ごしらえに来たらどうする?
しゃがみ込んだ体勢が長引くと、いざ動くときに足が痺れて逃げ遅れたりするかも知れない。かといってこのべったべたの汚い床に直接尻をつけるのは嫌だし、さりとて立ち上がってうろうろするのも憚られるし、いったいどうしたものか。俺は少しの間だけどういう体勢を取るかについて悩み、
「ぐるるるるる……」
低いうなり声を聞いて、もう悩む必要はないことに気づいた。
背後、少し離れた調理台の向こう。そこにある暗がりから、金色に光るふたつの目がじっと俺を見ていた。
ぞわぞわと、まとわりつくような視線だった。ぐるるるるる、とうなり声は続いている。自分が生唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。ほんの小さな暗がりから、その獣はゆっくりと姿を現した。闇がそのまま立ち上がったかに見えた。獣は暗がりからその巨大な身体を引っ張り出し、みるみるうちに俺の視界いっぱいに立ちふさがった。
モフオンがライオン(の仔)なら、こっちは闇色をした豹だった。馬くらいの大きさの、とても美しい、猛々しい猫のような。
これが“ウルスの魔獣”だろうか。
いや、それはリオノスが呪いをかけられないと生まれないんじゃなかったっけか。
呆然と見とれているうちに、獣は俺に顔を寄せた。濡れた鼻が俺の鼻に触れる。うっすらと口を開け、牙を覗かせる。よだれの垂れる口を開ける。かすかな腐臭。金色の目を細め、生け贄を眺めるような目で俺を見る。
「ぐるるるるるる……」
食われる。
抵抗らしい抵抗も、いや声すら出せないままそう思った刹那、
ずり、と獣が俺に頬ずりした。
「ぐるるるるる」
うなり声が間近で聞こえる。頬ずりって言っても相手が巨大なので俺は小突き倒されそうになり、魔獣の前足が俺をつかまえた。胸の中にかき抱かれる。魔獣はうっとりとため息をつき、すりすりすり、と俺に顔をすり寄せる。――痛え! ヒゲが針みたいに尖ってて、へたすりゃ串刺しだぞ、これ。
「ぐるるるるるるぅ〜んゃう〜」
魔獣はうっとりした声でそう言い、真っ黒な舌で俺を舐めようとし、俺は慌てて顔を背けた。剣山みたいな突起のびっしり生えた巨大な舌でなめ回されたら血まみれだ。必死で両手を魔獣の顔に当て、
「つ、つ、つーかちょっと。何? 懐いてんの?」
「ぐるう」
と魔獣は言った。ぐるぐる言ってんのは、これ、喉鳴らしてんのか? 死刑宣告かと思った。
モフ美みたいに思念が伝わってくることはなかった。俺はその前足から抜け出し、少し離れて、改めてそれを見た。瞳が金色だが、他は完全に黒かった。前足からちょっと覗いている爪まで黒い。口の中まで黒いんだから徹底してる。でもその黒さはとても美しい色だった。変な表現だけど、闇色に輝いている、とでも言いたいような。魅了されるような、きらびやかな黒さだった。
魔獣は俺をじっと見ている。俺の許しさえあれば今すぐにでも元のように抱きついて頬ずりしたい、と思っていることが丸わかりの目だ。たぶんこいつにも、あのにおいが効くんだろう。巨大な尻尾がぼたん、ぼたんと調理台を叩いている。気持ちは嬉しいけど、と思いながら、俺はそろそろと距離を取った。尻尾が落とされるたびに、調理台がめきめき言ってるんだよ。好かれてるのはありがたいけど、愛情表現が命取りになりかねないでかさだった。
それが良かったのだ。
俺が厨房の扉まで後ずさったとき、ぐるぐる言い続けていた魔獣の喉がぴたりと止んだ。金色の瞳がすうっと色を失い、――暗紅色に変わった。魔獣はじっと俺を見、周りを見、また俺を見、喉を鳴らして嗤った。
『……なんで外出てんの、藤沢君』
――千絵子だ!
俺は身を投げ出し、厨房の扉から転げ出た。間一髪、魔獣の前足が俺のいた場所を抉っていた。恐ろしい破壊音と共に入り口が砕け散り、大きく開いたそこから魔獣がぬうっと顔を出す。ひいっと声が上がったのは、兵士らしい。さっき通り過ぎていったふたりが用を済ませて戻ってきたのだろうか。そのふたりを押しのけるように出てきた獣は、甘ったるい千絵子の声で言った。
『藤沢くぅん、やっぱあそこ臭すぎた? どうやって出たの? でもまあ、ちょうど良かった。みのりが城の外まで来てるみたいなんだよね――藤沢君をさあ、正門に吊したら、それで、この爪と牙でじゃれたりしたらさあ、みのり、我慢できなくなるよねえ……?』
いやお前、その外見でその台詞って怖い怖いマジで怖いって!!
俺は走った。モフ美はまだ戻ってくる様子がなく、それが心底ありがたかった。たぶん魔獣を通していても、千絵子にもモフ美が見えるだろう。モフ美が見つかったら呪術アイテムにされかねない。廊下を数歩走り、すぐ右に曲がる。直線を走っては追いつかれるだろう。あの前足の一撃喰らったら簡単に死ねる。
『待ってよぉ、藤沢くうん』
甘ったるい声が背後で響く――と思ったら、廊下の先の暗がりにあの暗紅色の瞳が揺らいだ。とっさに急ブレーキ、今来たばかりの方へ駆け戻る。闇を避けなきゃダメだと考えるまでもなく悟っていた。闇から出てくるなんてことができるのなら、暗いところを逃げていても振り切れない。明るいところ――道が細く、込み入っているところ。騒ぎを聞きつけて出てきた兵士たちの中に飛び込み、すり抜けて走った。背後で悲鳴とか、『邪魔!』とか、ざしゅうとかぼきっとかめきっとか上がった音については考えない。考えない! 考えちゃダメだ!
『藤沢くーん』路地に駆け込んだ向こうで、千絵子が言うのが聞こえた。『他の人盾にして逃げるとか、人間としてどう? それ』
お前が言うなー!
叫ぶのは、心の中だけにしておいた。酸素がもったいない。
闇と開けた場所を避けて逃げる。わらわらわいてくる兵士たちも、当然俺を捕まえようとする。死にものぐるいで逃げるうち、あっと言う間に道を見失った。ただもう、反射神経を駆使して逃げるだけだった。
千絵子は愉しんでいた。本当に、鼠をいたぶる猫のようだった。彼女はほとんど走る必要さえなかった。あのにおいのせいか、魔獣には俺の居場所がわかるらしいから、俺が暗がりに差し掛かるのを待てばいいだけだったのだ。引き替え俺の追っ手は魔獣だけではなく兵士もい、刻一刻と増え続けていた。暗がりを避けて立ち止まるわけにもいかず、どこかにもぐり込むわけにもいかず――
「ハイテ!」
何度も叫ばれたので、たぶん、これが『待て』って意味なんだろうな。と思いつつ、俺は袋小路から仕方なく、壁に取り付けられている階段を駆け上がった。ぼろアパートの壁に良く取り付けられてる非常階段、みたいな感じのもので、結構ぼろぼろだ。