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神の子の使い魔  作者: 天谷あきの
19/44

三度目の訪問(3)

  *


 一メートルくらい落ちた。背中からまともに落ちて息がつまり、次いで腹の上に人がひとり、飛び乗るような勢いで落ちてきた。


「……ぐえっ!」

「――」


 あの声が何か言う。俺の上に乗っている人間は、俺の上で体を起こして、うーん、と伸びをする。その膝で胃がえぐられて、俺は必死でそいつを体の上から振り落とした。


「きゃっ」


 わざとらしい悲鳴を上げて花園千絵子が倒れかけ、それを、あいつが床に倒れる前に助けた。ローブをはだけた顔は、やはり底冷えがするほどの美貌だった。瞳は今は暗紅色に落ち着いている。


「……」


 花園千絵子は黙って、自分を抱き締めるローブの男を見つめる。と――その目から、一筋、涙がこぼれ落ちた。


「会いたかった」


 彼女はそう言い、微笑んだ。


「……エノラス? だよね。これ、あなたの名前だよね?」

「グー」


 ローブの男はゆっくりと頷く。千絵子は微笑み、さらにもう一筋涙をこぼした。


「……会いたかった。エノラス」

「――――」


 エノラスは何か言い、千絵子はくすぐったそうに笑った。俺にはさっぱりわからないのに、千絵子にはエノラスの言葉が分かるらしい。


「そうなの? あなたもあたしのこと好き? ……ごめん、あたし、あなたのこと忘れちゃったんだけど……それ、治してもらえる?」


 俺が以前、モフ美に言ったことと同じことを千絵子が言い、エノラスは頷いた。千絵子は日本語を話しているのに、エノラスにも意味が通じるようだ。そしてエノラスは、あくまでゆっくりと、優雅に、千絵子にキスをした。


 濡れた音がするほどの、本格的な、長い長いキスだった。正直あんま見てたいもんでもない。俺は目をそらし、このふたりが俺のことを思い出さないように気をつけて、辺りを窺った。


 そこは高い塔の上らしかった。全体的に石造りで、天井が円錐形にとがっている。壁の四方、床から二メートルくらいの高さに、ガラスも戸板もはまっていない窓がある。一方の窓にはどんより曇った空が見えていたが、ほかの三方にはくすんだ白い大理石の、薄汚れた城壁(?)が見えている。


 俺はまだ、血で描かれた複雑な模様の上に座り込んでいた。以前よりずっと強い、あの匂いが漂っている。それもそのはず、魔法陣の四方に、ひとつずつ、あのモフオンの死骸が置かれているのだ。さらにエノラスの掲げていたものがもうひとつ、計五つだ(今は魔法陣の中央に置かれている)。窓があって心底ありがたいが、ここにきてまだ数分だというのに早くも頭痛がし始めている。


 出入り口はひとつ、床に切られた小さな穴だ。梯子がかけられているのが見えるが、それを跨ぐように兵士が――それも槍を持った屈強そうな兵士が、仁王立ちになっている。不意を突けば蹴倒して逃げられるかもしれないが、不意を突けそうな気がしない。


 キスはまだ続いているらしい。俺は背を向けているので見えないが、正面向いてる兵士はたまったもんじゃないだろう――と思うが、千絵子の呼吸が弾み始めても、くぐもった甘い吐息が漏れ始めても、兵士は顔色も変えなかった。頭痛のせいもあり、俺はうんざりしていた。いちゃいちゃするなら部屋に行けよ。この匂いの中、血まみれの魔法陣の上でってどういう神経だ。


「……んっ、もう。ちょっと待って、ね?」


 千絵子が抗う音がして、やっと終わったらしい。着衣を正すような音の後、俺の背に、千絵子のからかうような声がかかった。


「お待たせ、藤沢君。後ろ向いててくれるなんて、親切だね」

「――フジサワ。――――、――。――――、――」


 エノラスが何か、説明をしたらしい。千絵子は声を立てて笑った。


「やっだ藤沢君、そんなことしたの? ひどーい」

「――、――」

「んー? ふふ、それもいいかもね。……うん、でも」


 足音が響く。俺は立ち上がり、ふたりに向き直った。記憶を取り戻した千絵子は、すがすがしい顔をしていた。瞳にまだ濡れたような色が残っている。舌なめずりでもしそうな妖艶な気配も。


「藤沢君、……あたしのこと、どこまで知ってるの? みのりから聞いたんでしょ? 藤沢君、みのりにくっついて来るの、何度目なの」

「……」

「すごいねえ、藤沢君って。やっぱお坊ちゃまって、人と感性が違うのかな。気持ち悪くないの? みのりのトリップ体質。知った上でOKするなんて、藤沢君って心が広いんだね」


 なんで俺がOKしたことになってんだ。

 俺はそこが不思議だった。相手は超絶美形有能王子様さえ袖にする相手だよ? 俺が選べるわけねーだろーよ。


「おまえも似たようなもんなんじゃねえの」


 努めて平静な声で言うと、千絵子は顔をしかめた。


「一緒にしないでよ。あたしはエノラスに選ばれたの」

「どこがどう違うんだよ」

「全然違うでしょ。みのりのは体質。あたしのは運命」


 そう言われても、どこがどう違うのかさっぱりだ。

 千絵子はくすくす笑った。


「この人、紹介しようか? でも、知ってるんだよねえ? エノラスの頭に棒を投げ付けるなんて、人が留守にしてる間に、藤沢君、良くもやってくれたよねえ」


 ぞっとした。人違いじゃないって、もう、わかっていたつもりだったのに。

 でも、やっぱり間違いじゃない。この男は、アトレンが捕まえたはずの、あのローブの男なのだ。なんでだろう。なんで、どうして、自由の身になってるんだろう。


 ――ウルスの子を返せ……


 確か、あの時、そう言っていた気がする。ウルスの子って、千絵子のことだよな。こいつも言わば勇者なのか。マジかよ。

 でも、確かにそのとおりのようだった。千絵子の瞳の色が変わっている。

 エノラスと同じ、暗紅色になっていた。派手な美人顔が、凄惨な雰囲気をまとっていた。


「ここはエスラディア。……でしょ?」とエノラスに確認をして、「あたしの住んでたお城。ようこそ、藤沢君。いらっしゃいませ」


 これはほんとに花園千絵子かな、と、俺は考えた。

 別の人間――というより、別の生き物みたいだった。


「藤沢君、言葉分かるの? わかんないか。そっかそっか。藤沢君、みのりの使い魔になったって本当?」

「……違う」


 言うと千絵子は嗤った。


「なぁんだ。残念。使い魔は使用者の目となり耳となれるんだよね。今ここで、みのりの目の前で藤沢君を惨殺できるってこと。楽しそうだと思ったのにィ」

「……楽しくねーよ」

「あたしは楽しいよ? でも使い魔じゃないなら今ここで藤沢君殺しても面白くないしね。せっかくみのりの大事な藤沢君が手に入ったんだから、ここぞって時のために丁重にあつかわなくちゃ」


 すっかりモノ扱いだ。使い魔よりひどくねーか、これ。

 千絵子はくるりとエノラスを振り返った。


「みのりの目の前で一番楽しそうな殺し方したいの。みのりはあたしが藤沢君連れてったって知ってるから、急いでこっちに来てると思うよ。もちろんリオノスに乗って、ね」

「――?」

「来るよ」千絵子はニヤリと嗤った。「餌が餌だもん、絶対来るって」


 いや来ないだろうと、俺は思った。みのりは前回、自分がピンチの時にさえ、モフオンの死骸があちらにあるかぎりリオは呼べない、と、はっきり言っていた。ここにはモフオンの死骸が、少なくとも五つもあるのだ。


 でも千絵子はなぜか、俺とみのりが付き合ってると思い込んでいる。だから来ると断言しているのだろう。それを訂正したいけど、あっそじゃあ用済みだねって殺されたらたまらないので黙っておく。ああ、なんというチキン。唐揚げになりたい。


「だから呪いをかけて自我を奪うのもやめといて。大丈夫、平和な日本育ちの、それもお坊ちゃまだから何にもできないって。どっかの空き部屋に閉じ込めておいてよ……それか、ああ、そうだ。モフオンの餌に使えばいいじゃない? 外に吊るしておいたらモフオンが寄って来るよ」


 誘蛾灯じゃねーんだから……ああでも、あの匂いが俺からも出てるんなら、そりゃ寄って来るかもなあ。


「――」


 エノラスが言い、千絵子は目を丸くした。


「へえ、そうなの? ふーん? 藤沢君ってなんでもできるのに、意外ー。藤沢君って神聖力弱いの? エノラスが言ってるよ、藤沢君吊るしておいても一頭がせいぜいだって」


 なんか悔しい。千絵子は勝ち誇ったように笑った。


「あたしの使い魔は今んとこ七頭だからねー。ふふーん。モフオンがいるのって、あの聖山だけじゃないんだよ。散歩してたら寄って来るんだ。すごいでしょう」

「七頭って」俺は咳払いをした。「……おまえにもモフオンがいんのか? じゃあなんで、」


 ちらりと視線を動かすと、千絵子はそれで悟ったらしい。バカにしたような笑みを浮かべた。


「藤沢君もみのりと同じだね。自分の使い魔腐らせて、何が悪いの」


 信じ難いことを聞いた。


「……なに?」

「そもそもさあ、光が正しくて闇が悪いって誰が決めたの。あたしたちはウルスの闇でテルミアを満たすのが目的だけどさ、今、テルミアはミアの光で満たされてるんだよ? 同じじゃん? ミアがいいものでウルスがだめなものって誰が決めたの? モフオンはミアの子もウルスの子も、どっちも同じように好きなんだよ。聖なる獣は、闇だろうと光だろうと、分け隔てなく愛してくれる。モフオンにとっては、どっちも正しくて、どっちも大好きなものなんだよ」


「……」


「なのに、みのりはよくて、あたしはだめなの?」


「……」


「リオニアの奴ら、みんな目が見えないんだよ。自分の目で見てないんだよ。みのりやアトレンや、一握りの人間が言うことだけを信じて、見ろと言われたものだけを見てる。だから盲目的に、ミアを、光を、みのりを、美しいものだ、善きものだ、正しいものだって信じてる。でも闇だって正しいよ。闇に生きるものにとっては、闇こそ、一番深くて安全で、美しく正しく、穏やかなものなんだよ」


「……」


「その闇で、この世を満たす。これはね、どっちが正しいとか、正義とか、そういう問題じゃないの。あたしは、エノラスは、エスラディアは、この世を闇で満たしたいの、闇で生きるものたちのために。光で生きるものたちから、この世界を取り戻す。それがあたしたちの正義。――だから」


「……」


「……そのために自分の使い魔使って、何が悪いの」


「俺のモフオンは」咳払いをした。「腐るのやだって、言ってたぜ」


「あらそう。あたしのモフオンは、七頭とも喜んでたわよ。あたしの役に立てて嬉しいって」


 そんなわけがない。

 そう言いたかった、でも、千絵子があまりに自信たっぷりで揺らぎがないので、もしかして本当にそうだったのかもしれない、と思えてくる。頭痛がひどくなっていた。ここで魔法陣を形作っているモフオンの死骸は、千絵子の使い魔だったのだろうか。


「まーそっか。藤沢君はあー、いまだに言葉さえわからないんだものねえ。そんなところも、みのりと同じ」


 千絵子はそう言って、くすくす笑った。


「みのりってバカだよねえ。こんな簡単な方法があるのに、拒否して、リオニアの言葉全部勉強して覚えたんだって。能力だっていまだに何にも育ててない。あたしは違うよ。もっともっと、どんどん強くなる。あたしはね、あたしを選んでくれたエノラスのためなら、なんでもできる。覚えておいて? 藤沢君、みのりがきたら、みのりの目の前でとってもいいことしてあげるから。――つれてって」


 千絵子がそう言うと同時に、兵士が動いた。俺は敢えて抵抗しなかった。早いところここから出たくてたまらなかった。いいことがどういうことなのかなんて、想像したくもなかった。


「みのり、早く来ないかな♪」


 うきうきと、歌うような声で千絵子が言う。梯子を降りて、その声から遠ざかれるのがありがたくてたまらない。それは子供じみた残酷さを湛えた声だった。嫌いな子からお気に入りのおもちゃを取り上げ、その目の前で壊してみせる、そのことを嬉しいと感じ、その嬉しさを忌まわしいものだと自覚すらしていない、無垢で剥き出しの残忍さだ。


 どうしてそんなに、みのりが憎いのだろう。


 俺も記憶がなかった間、みのりに嫌悪感を抱いていたけれど、千絵子のこれは、記憶を消された、という恨み程度じゃない。


 一体何があったのだろう。


 俺はずっと、千絵子は巻き込まれただけだと思っていた。俺みたいに、みのりの客としてリオニアに来て、少しばかり滞在して帰ったに違いないと。その間にエノラスに騙されるかどうかして、モフオンを引き渡してしまったに違いないと。


 でも違ったようだ。千絵子はもっと深く関わっていたらしい。そしてもっとはっきりとみのりと敵対し、恐らくは、敗れて、封印でもされるみたいに記憶を奪われて、あちらに帰されていたのだろう。


 でもなんで、モフオンの死骸があんなに、エスラディアにあるのだろう。みのりは『根絶したという確信がなかった』と言っていたような気がする。その言葉から連想するのは、ゼロもしくは一、くらいのものなのに。それに――


 エノラスはどうして、自由の身になり、自分の国に、戻っているのだろう。逃げられたのだろうか。それとも。


 俺はぞっとした。

 誰かが逃がしたのだろうか。


 ――誰が?

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