二度目の訪問(8)
「大丈夫かい?」
「あいつら……!」
「ひどいことを」
口々に労りの言葉が投げられる。エレナちゃんは自分の足で何とか立ち上がったが、有無を言わさずに両脇から抱えられ、少し離れた部屋に連行された。ぱたん、と扉が閉まり、廊下に静寂が落ちる。
モフ美が目を閉じる。
どうしてモフ美は今の騒動を見て何の行動も起こさなかったのだろう、と、俺は考えた。体をすくませるとか、首をもたげるとか、そういうわずかな身動きさえしなかった。エノラスとかいう暗黒ローブに包囲されたときとはぜんぜん違う。道場での修練さえ嫌がってたのに。
しばらくして衣類を整えたエレナちゃんが戻ってきた。異変に最初に気づいた若い子が、心配そうについてきている。
「……やっぱりもう少し休んだ方が」
「あんまり遅くなるとミノリ様が心配なさるもの」
エレナちゃんは穏やかな声で答えている。少女は逡巡し、足を止めた。小さな声で、訊ねた。
「……ごめん、聞いてもいい?」
「え? ええ。なにを?」
「さっきの男が……ダヴェン王弟殿下の近侍が、言っていたでしょ。王位の交替が近いって。ダヴェン王弟殿下が王位を継がれたら……ミノリ様は……」
エレナちゃんは軽くため息をついた。その頬に殴られた跡はもう見えなかった。でも目を凝らすと、化粧しているのがわかる。頬の赤みが目立たないように、白粉を塗ったのかもしれない。
「……ミノリ様は無理矢理嫁がされちゃうの? ベルトラン伯爵をあんなに嫌っておいでなのに」
「そんなことにはならないわ。ミノリ様は英雄なんですもの、無理強いなんてできるものですか。今までと何にも変わらないわよ」
「本当に? エレナ、本当にそう思う? 国王となった方のご命令にも、アトレン様は逆らえる? アトレン様がミノリ様を匿い続けたら、これ幸いとアトレン様に反逆の汚名を着せたりなんて、いかにもあの方ならやりそうじゃないの」
エレナちゃんは黙り込んだ。同僚の少女は、怒りを含んだ声で続けた。
「どうしてアトレン様は王位を継いでくださらないの」
「……そんなこと口にしちゃだめよ」
エレナちゃんが窘めたが、少女は引かなかった。
「だって! ミノリ様のお気持ちはわかるわ――ミノリ様は英雄、確かにそうよ、ミノリ様のお陰で今のこの平穏な生活があるってわかってる。だからミノリ様が誰にも嫁ぎたくないとおっしゃるなら、そのとおりにして差し上げるべきだと思うわ、でも――でもそれなら、アトレン様が王位を継いでくだされば、すべてうまくいくじゃないの! あんな男がこの国を継いだらいったい……」
「しょうがないのよ。アトレン様は七つの時に王位継承権を放棄なさったんですもの」
「でも!」
「一度宣言したことを撤回することはとても難しいことなのよ」
「でも……でも、陛下はアトレン様が王位を望まれたらお喜びになるはずだって、みんなが言ってるわ」
「王位を今更望まれたら、ダヴェン王弟殿下がお怒りになるでしょ。内紛が起こるでしょう。アトレン様は内戦を、味方同士で戦うことをお望みにならないのよ」
「アトレン様がこの国を継いでくださるなら、戦争なんて大したことじゃないわ!」
「あなたは戦争を知らないものね」エレナちゃんは優しく言った。「でも私は知ってるわ。親しい人間を失うことのつらさも」
「あ――」
「ごめんなさい、こんなこと言って」エレナちゃんは微笑んだ。「でも私は、アトレン様が争いを避けようとなさるお気持ちを、ありがたいと思っているわ」
少女はしょんぼりと謝った。
「……ごめんなさい、エレナ」
「こちらこそ。さ、持ち場に戻って? ミノリ様はミアの子、光に愛された幸運のお方ですもの。きっと何もかもうまくいくわ」
うなずいて、しょんぼりと、少女が元の部屋に戻っていく。彼女が扉に戻るまで、エレナちゃんは黙ってそこに立っていた。少女の背を見送るようにしていたが、その目は少女の背を見てはいなかった。暗い目だと俺は思う。緑色の瞳が含んでいるのはいったいなんだろう。
ひどく猛々しいものだという気がするのは、モフ美の感覚を通しているからなのだろうか。
少女が扉に消え、廊下が無人になった。エレナちゃんはもうしばらくそこに立ち尽くしていたが、ややして、緊張を解いた。ふううう、とため息をついて、扉に向き直る。
二回ノックをして、周囲を見回す。もう一度二回ノックをして、また数秒待つ。最後に三回扉を叩くと、鍵がはずれる音がした。と、初めてモフ美が立ち上がった。ちょこちょことエレナちゃんに近づいていく。エレナちゃんが扉を開き、急いで中に滑り込む。モフ美は足を速め、扉が閉まる寸前に中に入った。
いい匂いが、強まった。
モフ美はエレナちゃんと、鍵を開けたメイドさんの足を避けて奥に進んだ。あの幻惑されるような匂いがいっそう濃くなる。なんていい匂いなんだろう。先ほどの暴力沙汰で神経がささくれ立っていなかったら、眠ってしまいそうなほどのいい匂いだ。
「ダヴェン王弟殿下と護衛を三人もつれて扉の前まで来てたわ」
エレナちゃんが早口で、中のメイドさんに報告をしていた。
「全く恥知らずなんだから。求婚するならひとりで来るべきよ」
「大丈夫だったの、エレナ」
「平気よ。ミノリ様は?」
「奥で眠っていらっしゃるわ……ちょっと、これ!」
「騒がないで、ミノリ様には秘密にして」
「それは……もうっ、風呂場まで押しかけてくるなんてなんて奴なの! しかも女の子に暴力だなんてサイテー!」
城勤めといっても年頃の少女には変わりないらしい。モフ美はそのふたりの会話を完全無視して、匂いの濃い方へ、濃い方へと進んでいく。
これって、みのりの匂いなのか。
俺は今更納得していた。
たぶん、だけど。モフ美は、俺からもこういう匂いを感じているんじゃないだろうか。『異人』にモフオンが懐くのは、この匂いのせいなんじゃないだろうか。抗いがたいほどの芳香だった。いくら強くても頭痛がすることはなく、酩酊するような感じだけど意識が飛んだり判断力が下がったりすることもない。この匂いの中にいるだけで安心するような、うっとりするような、満たされるような、そういう感覚だった。
そこは風呂場に隣接された休憩所だった。俺は目を覚まそうと強く思った。もしみのりが裸だったらまずい、とても、とても、まずいことこの上ない。しかしどう頑張っても目は覚めず、モフ美の歩みを止めることもできなかった。為すすべもなくみのりの方へ近づいていく。
柔らかな半透明の布で覆われた寝台で、みのりは眠っていた。裸ではなく、先ほどと同じ服のままだったので、俺は心底安堵した――いやホントだって。マジだって。
モフ美は屈託なくふわりと浮かんでみのりの頭の先に着地する。鼻面をみのりの頭に押し当てて、深々と息を吸う。満足のため息。
みのりは目を覚まさない。疲れてるんだろうか。
ぴすぴすと聞こえるのはモフ美の呼吸だ。みのりの呼吸はひどく静かで、肩がゆっくりと上下しているのが見えなければ、人形かなにかのようだった。なんか変だなあ、と、俺は思っていた。なんか変だ――なんか、変だ。何が変なのか、どうもよくわからないけど。
だってこいつ、勇者なのにな。
さっきの子も言ってた。この平穏な生活があるのはみのりのお陰だって。
町中から歓呼の声を浴びせられるほどの、難事業を成し遂げている、はずなのに。
なのに、なんで、結婚を迫ってくる人間を窓から蹴り出すくらいのことができないのだろう。必死で風呂場に逃げ込んで閉じこもらなければならないのだろう。あんな風に脅迫まがいのことを言い捨てられてしまうのだろう。そんなことが、許されてしまうのだろう。
俺は、初めて、考えた。
みのりは毎月トリップしてきている。でも、それって何でなんだ? ただの体質、とみのりは言ったけど、何の目的もなくただ漫然と毎月一回召喚されるということは、よく考えると怖いことだ。達成すべき目的は何もない、ということはつまり、この先もこの生活はずっと続いていく。……いつまで? おばあさんになっても? 死ぬまで? ずっと?
今の王様が死んで、ダヴェンさんが王様になったら。
アトレンよりずっと、強い権力を握るようになったら。
故郷に好きな男の子がいるから――
そんな言い訳では、もう、身を守れなくなるのかもしれない。
「……ミノリ様」
エレナちゃんが声をかける。とても小さな声だった。たぶん、聞こえなければ、起きなければ、それで構わないと思っている声だった。
「ん」
でもみのりは目を覚ました。びくっとして、顔を上げた。
「あ、あ――また寝ちゃった。ごめん」
結構寝起きはいいらしい。あれほど深く眠っていたのに、言ううちに言葉もはっきりしてくる。
エレナちゃんは申し訳なさそうな声で言った。
「いいんです。戻りましたので、その……」
「あー、ありがと。すぐ知らせてって言ったんだもん、気にしないで」みのりは座りなおし、伸びをした。「わざわざ悪かったね。藤沢君、大丈夫だった?」
「ええ、まあ……診た感じ、骨に異常はないようですね」
「……そんなに?」
「ええ」エレナちゃんは苦笑した。「ダルスがあそこまでやったんですから、藤沢君の技量は本物ですね。足腰の鍛錬が少し足りないみたいですけど、基本はできてるんですって。ダルスったらフジサワクンがすっかり気に入っちゃって、剣の道を究めさせたいなんて言ってました。異国は平和な国だとよくおっしゃいますが、フジサワクンは剣を学んでいたんですか?」
「ふうん……ううん、あたしはぜんぜん知らなかった。部活はやってないけど、でもまあ、護身術とか、やってたのかなあやっぱ」
「裕福な家の方なんですね」
「うん、すごく有名な会社の創業者の息子さん」
「隣の席で頭が良くって運動も得意?」
みのりがぎくりとする。エレナちゃんは微笑んでいた。
「……そんなアトレン様みたいな人間が異国にもいるものだろうかって、思ってました。だからね、正直、好きな男の子なんて、ミノリ様の創作だとばかり思っていたんです」
「だ……だからぁ、藤沢君じゃないって」
「ええ、わかっています。ただ藤沢君をモデルにしただけですよね?」
言われて、みのりは傷ついた顔をした。エレナちゃんの表情は薄布に隔てられてよく見えない。でもその声はあくまで穏やかで微笑み続けている。
「ミノリ様のご幸運は本物ですね。本当に。敵に囲まれた丸腰のフジサワクンのそばには偶然手頃な棒が落ちていて、闇雲に振り回した棒は偶然敵の急所や手元に当たる。挙げ句エノラスの頭に直撃して敵全員の士気を下げ連携を乱す。幸運を呼び寄せる能力って、ある意味最強ですよね。ダヴェン王弟殿下が是が非でも手に入れたいと思われるのもわかりますわ」
みのりは怪訝そうな顔をする。「なに? 急に……」
「いえ」エレナちゃんの声が笑みを深めた。「ベルトラン伯爵を追い払うのに最適な人材が、すばらしいタイミングで来てくれるようになったな、と思って」
「……っ」
「ミノリ様は本当にご幸運。これで、アトレン様が王位を継がなくても何の憂いもありませんわ。フジサワクンはエスラディアの残党からミノリ様を守り、エノラスを捕らえることにまで尽力した、異人で、年齢もつりあう相手ですもの。それはベルトラン伯爵だって、引き下がるしかありません」
「……ちがう」
「ミノリ様は甘い」エレナちゃんは歌うように言った。「アトレン様の庇護を拒否なさった時に、いつかこうなることはわかっていたはずです。困り果てたところに現れた救い主なのですから、大手を振って助けてもらえばよろしいのです」
「ちがうっ」
「違いません。身を守るためです。ベルトラン伯爵に聞かれたら、フジサワクンがそうだと言えばいいだけ。そうすれば聖山にこもる必要もなくなります。いつでも好きなだけここに来て、好きなだけくつろげます。今のようにお風呂場に逃げ込む必要もなくなりますよ、ミノリ様」
「……そんな迷惑、かけらんないよ」
「迷惑でしょうかしら」
「迷惑に決まってるでしょう」
「そうでしょうかしら? あと数回一緒にこちらに来てもらって、こちらで婚約者のふりをしていただくだけですよ。その程度の手助けを渋るような方でしょうかしらね。……まあでも、どのみち、同じことですよ? ミノリ様」
エレナちゃんはくすっと笑った。
「ベルトラン伯爵の耳にフジサワクンの話が入れば、あちらは勝手にそう思います。フジサワクンは意志疎通も不自由なのですから、フジサワクンに事情を話して協力を依頼する必要もないと思いますわ……」
別にいいのに、と、俺は思っていた。
そんなに気にしなくていいのに。
俺がこの離宮で賓客扱いされてんのも、みんなに友好的に接してもらえているのも、みのりの友人だからだ。特に何をするわけでもないのなら、名前を貸すくらい別に構わない。実害もないし、迷惑でもない。エレナちゃんの言うとおり、知らん顔で利用したって、普通なら意志疎通がうまくできない俺の耳に入ることだってなさそうなのに。それなのに、みのりはしょんぼりしたままだった。ふとその目があがって、俺を――違う、モフ美を見た。そっと伸びてきた手が毛皮に触れる。
「もふ……」
モフ美がため息をつく。毛皮をくすぐる指先の感触が、ひどく繊細で優しい。
「失礼いたしました、ミノリ様」
エレナちゃんが小さな声で言い、頭を下げたのが薄布越しに見えた。
「つい嬉しくて、出すぎたことを申しました」
嬉しい?
とても嬉しそうには思えなかった。どっちかっつーと責めてるような感じだったけど。
みのりは力なく首を振る。
「……ううん」
「ゆっくりお休みください? フジサワクンのくださったケーキ、まだ残っているんです。おやつの時間にお出ししますね」
みのりは下を向き、顔をゆがめた。何かに耐えるように。
「……いらない」
「ミノリ様?」
「すっごく美味しかったから。みんなに分けて。エレナも食べなよ、それから、アトレンにもまたあげて」
「……ミノリ様?」
「もともと、あたしがもらっていいものじゃなかったんだ」
エレナちゃんはそれ以上何も言わず、礼をして、下がっていった。みのりは長々とため息をつき、ベッドに横になった。顔をずらして、モフ美を見る。指先が伸び、モフ美の眉間に当てられた。そうっと撫でられて、モフ美が目を閉じる。
だからみのりの表情はもう見えなかった。
不可抗力だと俺は思っていた。本当に不可抗力なのだ。こんなのぞきみたいなこと、するつもりなんか全然なかった。
「……もふもふちゃん」
小さな声で、みのりが言った。その声も、俺が聞くべきじゃなかったのに。
「お願いだから……藤沢君に言わないで」
「もふ……」
いいからもっと撫でてよ、とモフ美が言う。俺に対するよりずいぶんドライな反応だなモフ美。みのりには、その言葉はわからないらしい。どう解釈したのか、みのりは呟いた。
「……これ以上迷惑かけたくない、から」
迷惑って、何が。
こいつの考え方が、どうもよくわからない。でもみのりはこの件に、俺を関わらせる気はないらしい。それはよくわかった。それならば俺は何もするべきではないのだろうと、思う。みのりが手伝って欲しいと思っていないのなら、俺が勝手に何かするわけにはいかない。そもそも俺はここでの会話など何も知らないはずなのだから。
「神の子が、聞いてあきれるよね」
か細い声で、みのりは言った。
「あたしもう、何をどうすれば人に嫌われずにすむのか、わかんなくなっちゃった……」
俺は自分の意志で行動を起こせない今の状況に、心底感謝した。
なんて声をかけるべきなのか、皆目分からなかった。




