初めての訪問(1)
「ねえ藤沢君、知ってる? みのりってハーフなんだよ」
くすくす笑いながらそう言ったクラスメイトの名も顔も、もう思い出せない。
でもその時の問答は、声の調子も会話の展開も使用された語句まですべて、まざまざと思い出せる――忘れたくても忘れられない。
俺は当時純真だった。疑うことを知らない清らかな心根の持ち主だった。何よりその話には信憑性があった。福田みのりは、十人中九人までが『日本人離れした』と評価するであろう外見をしていた。
髪や目の色こそ黒だったが、肌の色がびっくりするほど白く、そばかすが浮いていた。彫りも深い。まつげが長くて、鼻の先がわずかに上を向いて端整な顔立ちに愛嬌を添え、黙っていれば清楚に見えて、体が弱くて体育も休みがちだという事実も手伝って、俺は隣席の彼女に勝手に『病弱で可憐な美少女(趣味は人形の服づくり)』などという妄想を膨らませていたわけです、お恥ずかしいことに。
高い塔のてっぺんにある部屋で侍女に世話をされながら病にふせって窓からツタの葉を数える美少女、とくれば、王女様でも全く遜色がない。むしろ様式美というものだ。
そんなわけで俺は食いついた。
「うっそ、マジで?」
「マジマジ」彼女は瞳をキラキラさせていたずらっぽく続けた。「なんかね、ほら、ヨーロッパのさ、オーストリアとかポーランドとかバルト三国とか? あの辺にある小さな国――なんだっけ」
「リオニアだよ」と他の女子が言った。
「そうそれ、リオニア。なんかちっさすぎて地図にも載ってないとか。でねでねお父さんがそこの王位継承者――つまり王子様よ! 王子様でね! で、日本に留学に来たときにみのりのお母さんに一目惚れして――」
この辺りで気づいとけ、俺。
と三年後の今は思うわけだが、中一の俺はあくまで純真だった。すっげそんなことほんとにあるんだ、と思うだけだった。女子の熱弁はいよいよ続いた。
「で、身分違いの恋でしょう? リオニアの王様がかんかんになってふたりを引き裂こうとしたんだけど、王子様は彼女が忘れられなくて、それで王位継承権を放棄して駆け落ちしたんだって!」
うわあそれで厳格な国王とか腹黒い宰相とかがふたりの恋路に立ちはだかったり彼女が命を狙われたり王子がそれを助けたり、という波瀾万丈な物語の末に福田みのりが生まれたってわけなんだな! すげえ――!
と、頭の中で俺がいくつもの絢爛たる物語を考えついたところに騒ぎに気づいたみのりがやってきて、熱弁を振るっていた女子に抗議した。次いで俺に申し訳なさそうな視線を向けて、謝った。深々と頭を下げて。
「もうちいちゃん、やめてって言ったのに! ……ごめん、藤沢君」
あ、そうだ。ちいちゃんだったあの女子。どうでもいいけど。
聞くと、福田みのりの卒業した小学校では有名な作り話だったらしい。俺たちが住んでいるのは田舎の小さな町なので、小学校も中学校もひとつずつしかない。公立なのに事実上の小中一貫校みたいなものなのだ。中学入学に合わせてその町に引っ越してきた俺と、その他若干名を除いては、当時のクラスメイト全員が知っていた。クラス中が、ちいちゃんが俺を騙すのを、俺がまんまと騙されるのを、息を潜めて見守っていたというわけだ。福田みのりが俺に謝罪した直後、抑えに抑えられていた笑いがクラス中に爆発した。「そんなわけあるかよ」「信じた、信じたよ!」「王子様って! あるわけないじゃん――!」
ごもっとも。
転校生にも等しい境遇で、騙されたことを素直に憤慨できるほど、俺は強くなかった。何だよ嘘かよすっかり騙されたよ! バカじゃん俺! とか冗談めかして笑いをとって道化になる以外、どうしようもなかった。
クラス中が俺を指さして笑う中、福田みのりだけは笑わなかった。黒々とした――作りものめいて見えるほどに黒い瞳で、俺をじっと見ていた。あの瞳に浮かんでいたのは謝罪だったのだろうか。
あの時彼女は、いったい何を考えていたんだろう。
三年経った今もたまに、考えてみたりする。例えば今のように、福田みのりの家を目指して歩いている時なんかには、否応なしに考える。
高校生になった今は、彼女と同じ町内在住のクラスメイトは俺しかおらず、おまけに出席番号順で隣同士だ。彼女は今日体調を崩して早退したので、ホームルームで配られた様々な連絡事項だのなんだのを、彼女の家に届ける役目を仰せつかったというわけだ。ちなみにこの役目、高校一年七月現在でもう三度目になる。この役目をするたびに、彼女が病弱だったということを思い出す。
その変人っぷりやひょうひょうとした態度につい忘れがちだが、福田みのりは実際病弱だ。なにやら持病があって、そのせいで月に一度は欠席する。欠席が一週間にわたるときもあれば、次の日にはけろりとして登校したりする。どんな病気なのかと以前聞いたことがあるが、慢性なんとか症なんちゃら炎疾患、とかいうのだそうだ。結構ややこしい病気らしくて、命に関わるほどではないけれど、完治する見込みがないらしい。
――でもこう頻繁に発作が起こっちゃなあ。
受験も終わって花の高校生活をのほほんと満喫している身には、持病があってそのせいで不都合を強いられる、ということがあまり想像できない。不便だろうな、苦しいのかな、大変だなあ、と思うだけだ。ただこの役目をする時以外にあまりそういうことを考えないのは、福田みのりが学校ではそれほど具合悪そうな様子を見せないからだ。色白だけれど血色が悪いわけではないし、いつもにこにこして愛想もいい。動きも結構きびきびしてるし、歩く速度も普通だし、友人と楽しそうに大笑いしていることもたびたびだ。話す内容と来たら結構素っ頓狂で、こないだなんか胡椒の原産地や育て方、見た目の特徴、香辛料の種類や効能について熱弁を振るっていた。
変、とまではいかないが、風変わりではある、という認識だ。彼女の見た目に騙されて恋文をシタタメる輩は後を絶たないらしいのだが、俺はそこまでの情熱を抱いたことはこの三年間一度たりともなかった。
もう三度目なので、ちょっと入り組んだ道のりもすっかり覚えた。時計を見ると、もうすぐ五時だ。殆ど無意識の動きで、福田家のチャイムを鳴らす。
ぴんぽーん。
明るいチャイムの音が響いた。今日は出てくるかな? 反応を待つ間の空隙にそんなことを思う。
発作といっても寝込むときとそうでないときがあるようで、前回は彼女自身が応対に出てきた。今日も、早退前の午前中の様子では、それほど苦しそうでもなかったし――
――あれ。
しばしの空隙があった。
いつも聞こえてくる、みのりのおばあさんの間延びした返答がなかった。
俺は門の向こうに見えるリビングの窓を見た。明かりがついている。
なのに返事がない。おかしいな、と思いながらもう一度押す。ぴんぽーん、というチャイムの音も確かに聞こえる、というか、人の気配がちゃんとあった。俺の鳴らしたチャイムの音に反応して、誰かが家の中で動いたのだ。
なのに、誰も出ない。
おかしいな、と思いながら、ふと二階の窓を見上げる。
そこにみのりがいた。
結構元気そうだった。ツインテールというのだろう、頭の高い位置で、柔らかそうな髪をふたつに縛っている、午前中に見た髪型のままだ。制服ではなかったが、パジャマでもなかった。彼女は俺と目があって、隠れようかどうしようか、一瞬迷ったようだった。けれどばっちり目が合っていたから、今さらだと思ったのだろう。苦笑するような、はにかむような、複雑な笑顔を見せて、軽く手を振った。
その時だ。
がくん、と視界がズレた。
「う、わ?」
間抜けな声を上げて俺は、福田家の門にすがりついた。誰かに出し抜けに膝かっくんされたみたいに体勢が崩れた。がしゃん、と金属音をたてて門が揺れる。俺は、足下を見た。そして。
俺の足がキラキラ光る粒子になってどこかに吸い込まれているのを見た。
――なんだこれ。
思ったのはそれだ。痛くはない。何も感じない。地面に小さな、穴? が空いているのが見えた。中には何も見えない。闇ではなく、無だ。そこに俺の体が吸い込まれていく。すでに膝が消え、股が分解されて、尻、腹、胸、ときたところで俺は顔を上げた。頭の中は真っ白というか、真っ青になっていた。なんだこれ、ということだけを考えていた。何で俺、――崩れてんの?
先ほどの窓にみのりがまだいるのが見えた。彼女は明らかに俺の身に何が起こっているのかを見ていた。驚愕に見開かれた目。乗り出した体。二階から届くわけもないのに、俺に向かって差し出された手――俺も彼女に手を伸ばした。助けてもらおうとしたのだろうか。伸ばした手がキラキラ輝きながらしゅるしゅる崩れるのが見えた。声を出そうとして、もう出ないことに気づいた。肺も喉も、もはや口も、鼻もなかった、そして目も崩れて何も見えなくなって、最後に何も考
――という、夢を見ていた。
「……夢!」
俺は飛びおき、左腕を右手で掴んだ。がしっ、という擬音が聞こえそうな確かさで、左腕も右手もちゃんと存在していた。「あー」声も出る。「ああー」顔も肩も腹も足も全部存在していた。俺は全身撫で回した末に顔を両手で挟んで「あああー……」とため息をついた。
怖かった。
なんてリアルな夢だ。
しばらくそのまま制止していたが、また不安になって肩とか足とか触ってみて、頭にも触れた。禿げてもおらず、ちゃんと五体満足でいるらしい。そこまでして、やっと動き出す気になった。なんつー夢だ、俺。俺の深層心理にはあんなものが眠っていたのか。怖えよ、ははは、と笑ってみてから、そこが福田家の門前とは似ても似つかない風景であることにようやく気づく。
そこは、森の中だった。
たぶん、すごくいいところだった。
俺が森林浴にきたのんきな観光客だったなら、大喜びでその辺の倒木とか見つけて弁当広げ出すような、そんなうららかな風景だった。たぶん新緑の季節なのだろう、周囲は全体的に柔らかそうな萌黄色にあふれていた。小鳥の鳴き声や梢のささやき、水のせせらぎが周囲に満ち、なんだかすごくいい匂いがする。気温も、寒くも暑くもなく、潤っていて居心地がよかった。俺は呆然と辺りを見回して、口をぽかんと開けていることに気づいて、閉じた。
ぱくん、と自分の口がたてた音で我に返る。
なんだこれ。
なんだここ。
なにがどうなってるんだ。
俺はしばらく、そのまま座り込んでいた。
パニックにはならなかった、と思う。慌てふためいて大騒ぎするには、辺りはあまりにもうららかだった。心地よい音に満ちた新緑の森の中でひとりきりで騒ぐのは結構難しい。だから俺はただ単に、ぽかん、としていた。端から見たら、ひなたぼっこしているように見えたかもしれない。
ずいぶん長いこと呆然としていたような気がするが、まだ日が暮れる前に、俺はもう一度我に返った。夢でも幻でもなく、周囲はあいかわらず静かな森の中だった。
我に返った理由は明らかだった。
腹が減ったからだ。
ぐう――と節操のない俺の腹が情けない音を立て、俺はよっこらしょ、と立ち上がった。辺りを見回す。俺が持っていたはずの学生鞄は影も形もなく、従っていつも隠し持っている甘味の数々も手元になかった。ただ、服はちゃんと着ていた。靴も。ポケットの中にはハンカチも入っていた。あと定期入れとICカードタイプの定期券、財布。
以上。
しょうがないので、手近な枝にハンカチを結びつけて手がかりにしてから、耳を澄ませて水音を聞いた。目が覚めてからずっと水音が聞こえている。近くに川があるに違いない。俺がここに来た理由が何にせよ、いつ帰れるにせよ、水があれば数日は生きていける。