少女の過去
「はぁ、はぁ……」
街灯も何もない夜道を走る。時々躓きそうになるほど暗いが、獣人種としての視力がそれを緩和してくれる。
がむしゃらに走りながら、これまでの出来事に思いを馳せる。
生まれてこの方、ろくな思い出がない。その記憶を。
物心ついたときには、既に母と2人で暮らしていた。
父親のことを母に聞いても、なぜか教えてはくれなかった。ただ、私は人類種と獣人種のハーフだから、父と一緒にはいられないのだと伝えられた。
父のいる獣人種の国についてはほとんど何も知らない。だから、どんな事情があるのか詳しくは聞けなかったけど、悲しそうな母の顔を見て思ったのだ。
ああ、私のせいか、と。
それから私が大きくなったある日、外で山菜を取って家に帰った私を待っていたのは首を吊って自殺した母親の姿だった。
『母、さん……?』
息絶えた母親の足元に1枚の紙が落ちているのを発見し、恐る恐る内容を見る。
『もう、この生活を続けられる自身がないわ……ごめんなさい。先に逝きます』……たったそれだけの文章だった。
私は知っていた。私との生活を送ることを母が負担に感じていることを。 日に日に貧相になっていく食事を見て、母を助けなければと思っていた。それなのに……私は母を助けてあげることができなかった。
血色を失った母の顔を見て思ったのだ。
また、私のせいか、と。
1人で生きることもできず、奴隷へと身分を落としたのは苦肉の策だ。
奴隷であれば、少なくとも死ぬ事はない。たとえ、死よりも酷い目に合ったとしても。
家畜のような扱いを受け、少しずつ自分の価値を見失っていく。
父を孤立させ、母を自殺に追い込み、自身も奴隷として扱われる。こんな生き物に、生きる価値なんてあるのか? ……分からない。分からない。分からない。
そんなとき、あの青年に出会った。
青年に付いて荷馬車を降りたとき、奴隷商の死体を見て悲鳴を上げそうになった。それが青年が行ったであろうことは、すぐに分かったからだ。
下手なことをしたら殺されるかも知れない。
そんな恐怖を抱え、そうならないように私は青年の機嫌を損ねないように動いた。
青年と数日共に行動して、青年は今まで会ったどの人物とも違うなと思った。
一言で言えば、優しかったのだ。
人殺しとは思えないほどに。
私が少年たちに苛められていたときには、大声で助けに来てくれた。
嬉しかった。悲しみの涙ではなく、喜びの涙が頬を伝うほどに。
私の味方をしてくれる人なんて、もうこの世のどこにもいないと思っていたから。
嬉しかったけれど、同時に気付いてしまった。
青年にとって、私はただの厄介者だと言うことに。
また、母のようにこの人を苦しめてしまうかもしれない。
そう思ったら確かめずにいられなかった。
『お兄さんは……私がいないほうがいいですか?』
否定して欲しかった。
そんなことはないと、私の価値を認めてくれることを期待していたのだ。
けれど……青年は否定してくれなかった。
青年はただ、同情心で私に優しくしていただけだったのだ。
そう気付いた時、私は耐えられないほど胸が苦しくなり、気付いたら宿を飛び出していた。
私は耐えられなかったのだ、いつか捨てられると分かっていて、彼の優しさに甘えることに。
「ううっ」
涙が零れる。
私は弱い。体もそうだけど、何より心が弱い。
彼に捨てられることも、彼を苦しめることも私には耐えられない。
「うう、ああああ」
何かを振り払うかのように、夜道を一心不乱に駆ける。
ドンッ
「あうっ」
脇目も振らずに走っていたせいで、何かにぶつかり尻餅をついてしまう。
辺りはいつの間にか、大通りから細い裏路地に変わっていた。
「ああ? なんだ、ガキか」
「えっ?」
男の人の声に反応し、ぶつかった相手を見て、凍りつく。
地面に広がる夥しい量の血、血、血。
「え、あ……」
すぐ近くに、この血の持ち主だった人が転がっている。
その人の瞳が見えた。それは、忘れられないあの生気を失った目だった。
目の当たりにした現実味のない光景に声が出ない。
これは一体……なに?
「この路地、この時間、このタイミングでなければ良かったのになあ、嬢ちゃん。運がなかったな」
血に染まったナイフを片手に持った男が、私を見て笑う。
飛び掛るように接近してきた男は私を押し倒して、口に手をかける。
「恨むなら自分の不運を恨むんだな、嬢ちゃん」
今更ながらに悲鳴を上げる。
しかし、その声も、口を覆われたせいで響かない。
「もっとだ、もっと叫べ、泣け、懇願しろ」
男は私の反応を楽しむように「かかか」と笑い、私の目の前でナイフを揺らす。
え? 私は、こんなところで私は死ぬの?
あまりに突然の生命の危機に、恐怖よりも先に諦めにも似た気持ちが湧き上がる。
……本当に酷い人生だ。
最初から最後まで、救いがない。
ああ、せめて誰か1人にくらい……
「死ね」
……必要とされたかったなぁ。
男の声と共に振り下ろされるナイフ。
非力な私にはどうすることもできない。全てを諦め、目を瞑る。
そして、生暖かい血が私の顔を覆う感触を感じた。
「ぎゃああああああぁぁぁッッ!」
唐突な男の絶叫に、思わず目を開き、何が起きたのかと男を見る……そのナイフを持っていたはずの手が、なくなっていた。
「え? え?」
何が起きたのか理解できない。
男は、「手がっ! 手があああぁぁッ!」と叫びながら、のた打ち回る。
「間に合って良かった」
ふいに聞こえた、新たな声に振り向く。
「あ……」
そこには、ここ数日で見慣れた人物が立っていた。
「……お兄、さん?」
「怖かっただろう。もう大丈夫だ」
彼はそう言って私を抱き上げる。
「やりやがったなくそがああああぁぁッ!」
立ち上がった男は絶叫しながら、こちらに走ってくる。
失った片腕から血を垂らしながら、残ったもう片方の腕で、お兄さんに殴りかかる。
「二度とその口を開くな、下衆が」
お兄さんの口から放たれたのは、聞いたことのないほど低く冷たい声だ。
お兄さんは私を抱えたまま、左手を前に出し――その手を握りしめた。
ヒュンッ、と微かな音が聞こえる。
そして、次の瞬間に――男の首が飛んだ。
「……ッ!」
何が起きたのか分からない。お兄さんはただ、左手を握っただけだ。
私は見ていられなくて、血飛沫を上げながら倒れる男から目を逸らす。
「……宿に帰ろう。こんなところにいたら誤解されかねない」
お兄さんは、私の身体を抱きながらそう呟いた。