プロローグ
「はぁっ、はぁっ」
俺──柏木 悠馬は雨が降る夜道を、全力で駆け抜けている。ぬかるんだ地面を蹴り飛ばし息も絶え絶えに走り続ける。街灯も何もない道だが、周囲は暗くはない。
「××××××!」
「××××××××!」
ドンッッッ!
訳の分からない言葉と共に、轟音。
周囲が真っ赤な炎に包まれる。
辺りの家々に炎が飛び回り、この世界を怪しく照らす。炎の灯りに照らされ、周囲に散乱する死体も1人、2人ではない。
いつ自分がそれらの仲間入りを果たすか恐怖しながら、俺は必死に走り続ける。
……傍らで、この世で最も大切な少女の手を強く握りながら。
「くっ!」
ここは戦場だ、あちこちで戦闘が続いている。
ここでも一人の男が俺に目を着けたようで、こちらに手をかざし、魔術の詠唱を始めている。
「××××××!」
「うおおおおおおおおおお!」
俺は少女の手を離して、絶叫しながら男に向けて駆ける。
全身の骨が軋み始める。
全身の筋肉が悲鳴を上げる。
全身の血液が体内を暴れ回る。
男の放った炎の魔術に対し、俺は着ていた外套を脱ぎ、盾にするようにして突進する。
グチャリ
手に嫌な感触が纏わりつく。
生温かい血液が俺の腕を濡らす。俺は筋肉が収縮する前に、素早く男の腹から手を引き抜きながら内臓を潰しておく。
接近からの手刀。
俺は慣れた動きで男の生命を絶つ。
ゴブリと男は大量の血を吐き、空いた腹の穴から臓器が零れ落ちる。
「う、え……っ!」
俺はその臭気に吐き気を堪えきれず、その場に崩れ落ちてしまう。
「はぁ、はぁ、はぁ」
……何故俺が、こんな目に合わなければならない……
1年前、初めてこの世界に来たときは確かに嬉しかったはずだ。
小説や漫画にあるような夢とロマン溢れる世界を夢想していた。それなのに……現実はこれだ。
憧れた夢は、ただの幻想だった。
戦いは、ただの殺し合いだった。
異世界は……ただの地獄だった。
それでも、生きることを諦める訳には行かない。
俺には、俺自身よりも大切な妹がいるのだ。
柏木澪……俺の妹。
俺の、最愛の妹。
「兄さんっ!」
後ろに待たせていた澪の叫びが聞こえる。
俺は我に返って、立ち上がる。現状を嘆いている暇はない。
「えっ……」
妹の見る先、そこには……バケモノがいた。
紅に怪しく光る髪と瞳。
一瞬で分かった、こいつは次元が違う、と。
俺は絶対的強者に遭遇してしまった不運から、恐怖に固まってしまう。
叫びすら上げられない。それほどに竦んでしまっている。
バケモノの姿が揺れ、俺の元へと一直線に詰め寄ってくる。
その一瞬で、死を覚悟した。
生温かい血が、再び地面を濡らす。
バケモノは先ほど俺がしたように、腹の中央を手刀で貫いている。
「なんで……」
ふらふらと身体を揺らした後、うつ伏せに地面に倒れこむ。
「なんでだよ! 澪!!」
俺は、俺を庇って倒れた澪に駆け寄る。
その腹から止め処なく血液が流出し続ける。確実に……致命傷だ。
俺は無駄と知りつつ、澪の腹を服で押さえて血液を止めようと試みる。
動悸が激しい。眩暈がする。
「うわああああああぁぁッッ!!」
俺はバケモノのことなど忘れて、澪の治療に専念する。もしも治癒魔術が使えたなら、この傷も直せたかもしれない。俺は自分の無力さを嘆き、絶叫する。
ふらり、と人影が写る。
それは先ほどのバケモノだった。
「この人殺しっ!」
思わず叫んだ。
自分自身、人を殺しておいてなんたる言い草か。自分がやるのは良くて、誰かにされるのは拒む。まるで子供の駄々だ。
それでも、呪わざるにはいられなかった。
この地獄のような世界を。
バケモノは何を思ったのか、俺の元から立ち去って行く。
俺が感じたのは命を拾った安堵、などではなかった。
澪が死ぬ。その事実に、俺の心は半分折れてしまっていたのだ。
「に、い……さん」
澪の微かな声が聞こえる。
すぐに澪の手を取り、急速に冷えていくその体温を感じて、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
蒼白な顔、その口から微かに、しかしはっきりと最後の言葉が紡がれる。
「生、き……て」
たった三文字。
それが限界だったのだろう。澪は苦しそうな表情のまま──絶命した。
「すまない……澪……」
冷たくなりつつある、澪の身体を強く、抱きしめる。ぽつり、ぽつりと懺悔をこぼしながら。
澪は俺のことを守って死んだのだ。俺が……殺したようなものだ。
深い後悔の中、澪の最後の言葉を反芻する。
『生きて』
最後の最後まで、澪は俺の身を案じていた。
俺は半ば、無意識に、強迫観念にとらわれた様に走り出す。
「ごめん……ごめんなぁ……ッ!」
俺は謝りながら走り続ける。
いつまでも、いつまでも…………