ライトトゥダークネスpart5――帰結
そう、チャンスは一瞬だ。
零二が、目の前の相手が自分のイレギュラーを透明化だけだと思っている今がチャンスだ。
”切り札は常に側に備えろ、奥の手は例え仲間であっても決して見せるな”
それが彼の口癖だった。
自分達が如何に暗く深い闇にいるのかを知らしめる為の言葉であり、激。
だからこそ、ライトトゥダークネスを、自分の可能性を試した。
腰に備え付けている物の感触を確かめる。
自身の姿を見せたのも、敢えて影に潜んでの暗殺を選ばなかったのも、このチャンスに備える為の試金石。
懸念材料はある。何故なら目の前の相手に、自分の手の内を見せてしまった事。やむを得ずとは言えど、使ってしまったのだから。
(だが、それがどうした?)
そうだ。分かっているとしても奥の手は破れない。
ただし、これには大きな問題がある。
今、病魔に侵された痩身の青年はただ”タイミング”を図っていた。奥の手を最大限に活用出来うるタイミングを。
その為だけに決して元来打たれ強い訳ではない身体で堪え忍んでいた。
(なンかおかしいぜ)
そんな予感を零二は感じていた。
状況は圧倒的に自分の物になっていた。
二人の近接戦闘のレベルは恐らくは素人目にも明らかだろう。
現にこうして一方的な展開になっている。
自分が一方的に相手を殴りつけ、蹴りあげている。
どう見ても相手は虫の息、対して自身の調子は万全だ。
だと言うのに、何故だろうか?
零二の中で広がるこの不安感。
何故、目の前で防戦一方の0359に対して嫌な予感が、冷や汗が背中を伝うのか?
無論、汗は熱代謝を高めている今であれば瞬時に蒸発する。不快感は殆ど感じやしない。
しかし、そもそも何故、冷や汗をかいたのか?
そう、これは本能だ。零二の中にある野生の獣染みた本能が危険を察知しているのだ。
思わず零二の拳は止まった。
その僅かな迷いこそライトトゥダークネスが待ち望んだ機会だった。彼は不意に前のめりによろめく。と、同時に左手首を捻る。と同時に手首へと何かが飛び出した。それは普段ならば手首から肘へ折り畳まれて収納されていた。要は飛び出し式ナイフの大型化だ。その材質は対マイノリティ仕様の特殊合金であり、その鋭利さは筋金入りである。それを至近距離で薙ぐ様に払う。
「う、おっっ」
不意を突かれた零二ではあったが、特にその刃先を気にはしない。驚きこそしたが、その程度ならば熱の壁が阻む。そう判断したからだ。
しかし、
バッッ、という血の飛び散る音。
その刃先は熱の壁を切り裂き、零二の頬を掠めた。
「ち、いっっ」
思わず舌打ちし、一歩後ずさる零二。
ハッキリと見て取った。熱の壁を切り裂いたそのナイフを。
「へぇ、面白いオモチャだなそれ」
頬の血を指で弾く。
「でもよぉ、いいのか? それ見せちまって」
笑いながら再度踏み込む。
確かにあのナイフは厄介ではあった。詳しい原理はさっぱり分からないが、あれは自分の防御を切り裂いて切りつけてきたのだ。
(だがよ、見えてるンじゃ折角の仕込みも台無しだぜ)
そう、見えてる以上、それは単なる刃物に過ぎない。
これまで散々素手以外の相手とも渡り合って来た深紅の零の異名を持つ少年に、あの程度の武器は然程脅威ではない。要は切られなきゃいいのだから。
(流石に怯まないな)
だが、それはライトトゥダークネスにしても予想通りであった。
これもまた目の前に迫る怪物を仕留める為の試金石だ。
口元を歪めた。
零二は右拳を繰り出さんとしている。間違いなくこれで仕留めるつもりなのだろう。
タイミングはあった。拳が迫る。
ド、ガアン。
鋼鉄の扉がひしゃげる。
だが、相手はいない。
間違いなく命中したはずの拳。躱せるだけの余力があるとは思えなかった。
しかし相手は躱した。
まるで目の前で雲散霧消したかの様に。
それでハッとした。
その光景は今朝方見ていたはずだ、と。
あのエレベーター内での僅かな攻防、その最後に相手が逃走する手段として。
失念していた。
理由は簡単、失念するように相手が仕向けて来たのだから。
(ちっっ、これまでのは全部……)
そしてどすりという感触。
それは背後からの凶刃。
「ぐかっっ」
そもそもライトトゥダークネスという大仰なイレギュラー名は、彼が”消える”事から以前いた研究所で付けられた。
光から闇に。そのどちらにでも彼は完全に溶け込める。透明化すら、この完全に消える行為の前段階に過ぎない。
理屈としては彼は自分の肉体を分子レベルにまで分解出来る、という事らしい。一応統計的には、自然操作能力のイレギュラー保有者にそういう事が可能な者が比較的多いらしい。
この瞬間、彼はこの世界そのものへと変わる。
これが彼の奥の手。これ迄も幾度となく彼の身を守り、標的を仕留めたイレギュラー。
弱点はその持続時間の短さであろう。それは僅かに一秒程の時間。
だが、それでも充分だと言える。
向かって来る相手の背後に回り込み、無防備な背後からトドメの一刺しを与えるのには。
今もこうして相手の腎臓へナイフが飲み込まれる。
その、はずだった。
「っしゃあああ」
だが、その前に白い拳が叩き込まれていた。相手は上半身だけを捻って裏拳を叩き込んでいたのだ。
あと少し、もう数センチ刃先を動かすだけで臓器に深刻なダメージを与え、重傷に出来ただろうに。ハンマーで殴打された様な威力及びに顔がまるで沸騰するような感覚が襲いかかった。
「く、がはっっ」
思わずよろめくライトトゥダークネス。
深々と刺さったナイフも抜けてしまった。
しかし零二も敢えて追い撃ちには出ない。腹部を手で押さえている事からかなり痛むのだろう。そのお陰で何とか態勢を整える事が出来た。
「くは、はああ」
裏拳を喰らった頬をソッと触れてみる。火傷か水ぶくれかが出来ているのが分かる。
幸いにもそれ以外のダメージがないのは零二自身も負傷によって熱をこちらへと叩き込む余裕がなかった為だろう。
しかし一瞬とはいえ、とてつもない熱量だった。
やはり、目の前にいるかつての焔使い、今は熱使いは規格外の怪物。
勝つ為には更に”仕掛ける”必要があると再認識した。
(へっ、あのナイフなかなかに厄介じゃねェかよ)
傷がズキリ、と痛む。内蔵にまで達してたのだから無理もない。
息をすう、と吸い込み、ゆっくりと悟られぬ様に小さく吐き出す。腹部の痛みが増したが、関係ない。
自分の”残量”はあと二分といった所だろう。
(ま、問題はねェだろ)
それまでに決着が付くのは違いない。こちらも深手は負ったが追い詰められてるのは向こうなのだから。
「へっ、なかなかに楽しかったぜ」
言葉をかけたのは余裕からではない。
かつての同輩に対する不良少年なりの敬意からだった。
「ぼくはお前を倒す、その為にここに来た」
「分かってンよ、いいぜ。全力を見せてみろよ、オレは──」
その言葉をキッカケに痩身の青年が仕掛けた。最早小細工も無いのか真っ正面から襲いかかる。
「──そのお前の全部をブッ飛ばす」
零二は左足を一歩引く。右足から踏み込み、加速。
たったの一歩が他者の数歩。一気に間合いが潰れていく。
まさしく弾丸の如き加速。
そう、相手が何を思おうとも関係はない。
零二に出来る事は極々単純、その拳を相手に叩き込む事のみ。
そう、最悪の場合を想定していた。
これも彼の受け売りだ。
”常に最悪の事態を想定して備えろ、その心構えこそが自分を守る最後の盾になる”
実際、想定しうる限りで最悪の展開だと言えた。
零二に深手こそ与えたが自身も持ち得る手管をほぼ使い切った。
そして今、
相手の加速を目にして、いよいよ決着を確信する。
左手のナイフを突き出す。狙いは心臓。
ぞの鋭い一突きは彼が暗殺で刺突を用いてきた事の証左。
零二はそれをあっさりと右手の甲で弾く。
如何に鋭い一突きであっても問題はない。ライトトゥダークネスの身体能力は一般人より少し上位のレベル。零二とは比較にならない。
そこに零二の左拳が迫る。ショートアッパー気味の一撃で正確に顎を撃ち抜こうと迫る。
もう0359に対応する術は無いかに思えた。
バシュ、
鮮血が吹き上がる。
「なに?」
零二の左腕から血が吹き上がった。その痛み、感触、間違いなく刃物で抉られた物だった。
脳裏を過ったのは左のナイフだが、それは弾かれている。
そして敵の右手が横へと払われている。答えは明白であった。
(もう【一本】隠してやがったな)
ライトトゥダークネスの切り札は”二本の特殊合金製ナイフ”だった。これを一つは左手に仕込み、もう一本はイレギュラーにより”透明化”。それを腰に同じく透明化させたホルダーに仕込んでいた。見えるナイフと見えざるナイフ、この二本による暗殺 。
しかも、透明化させたナイフは見えるナイフよりもその刀身がおよそ二十センチ長い。その間合いのズレは距離感を狂わせる事が出来る。
「さあああああ」
怯んだ相手に痩身の青年は勝機を見出だし飛びかかる。
左右のナイフを振るい切りつける。
左のナイフは止められ、躱される。しかし、右手の見えないナイフは別だ。左のナイフから間合いを図ったつもりでも切られる。
(へっ、コイツぁ面倒だぜ)
傷は浅いものの、右のナイフが自分の身体を抉るのは正直言って鬱陶しい。
(でもよ、これじゃまだまだだよな)
意表こそ突かれ、困惑はしたものの、零二は少しずつ間合いを外し出す。それによって右手のナイフが空を切った事で間合いも朧気ながら分かった。
そう、確かこのナイフは零二の熱の壁を容易く切り裂く。
だが、所詮はナイフ。正式な刀剣ではない。ナイフは確かに厄介ではある。だが、零二相手に深手を負わせるには”殺傷力”が足りない。
これがナンバー0359の切り札だとするなら、どうやって敵を仕留めるか?
その答えはすぐに分かった。
「らあああ」
零二の左手が相手の襟口を掴む。そのまま一気に引寄せ、右拳を握り締めて備える。
その瞬間だった。相手の感触が失くなる。襟を引寄せたはずが、手は空を掴もうとしている。
(これで終わりだ)
ライトトゥダークネス、またはナンバー0359は零二の背後へと通り抜けた。最短距離で背後を取り、左右のナイフを突き刺すべく手を押し出す。これでトドメだと、そう思いながら。
感触があった。貫く感触。身体を突き通し、命を急速に奪い去る死を招く一撃。
「くぐ――――っっ?」
だがそれは零二の身体ではない。ナイフは刺さってはいた。確かに獲物の腹部へと。だがそれと同時に自身も同様であった。
「激情の初撃」
静かに囁く様な声。
零二の白く輝く拳がナイフよりも早く相手を貫いていた。
そして襲い来るは、
「くがあああああああ」
全身の血液、胃液、髄液、胆汁に尿に至るまで。人体にある水分が瞬時に蒸発。その高熱により、肉体そのものもまた消えていくのが分かる。
「な、なぜだ?」
絞り出す声。それは間もなく死を迎える前に知りたかった。
何故自分がこうなったのかを知りたかった。知らずには死にきれないと思ったからこその問いかけ。
「予想が付いたからな」
それが零二からの返答。
そう、零二は予想していたのだ。相手がもしも自分を仕留めるならどうするか、と自問して。出た回答は単純だった。もう一度消えた上で背後からの刺突。左右のナイフで内臓をズタズタにすればいい、と。
だからこそ、相手の感触が失くなった瞬間、零二は全熱量を爆発させて振り向く。そうして即座に右拳を放った。それは本来の白く輝く右拳からは信じ難い程の弱く、遅い一手。
だが関係はない。
右手自体が凶器であり、必殺の一撃。触れた物を溶解し、蒸発させる。例えただふれるだけでもその手はいとも簡単に他者の命を奪うであろう死神の鎌。
消えている際に攻撃は通じなくとも、姿を見せたなら攻撃出来る。ただそれだけの理屈であった。
「アンタはとっておきを見せ過ぎたンだよ。【消えられる】のもごく短時間なンだろ?」
それがトドメの一言だった。
「は、ははは、ま、負けたよ。完敗だ」
高熱のあまりに全身に火が灯る。だが不思議と苦しくはない。身を焼かれる苦痛もない。
「アンタは強かったよ、だから楽に死にな」
それが零二からの手向けの言葉。
貫いた右手を輝かせる。瞬時にライトトゥダークネスの全身は消えていく。
「じゃあな…………公二」
零二が呟いたその名はかつての彼を示した名前。
そう、かつて出会った際に名乗った事を思い出す。
「…………」
もう言葉すら発する事は出来ない。だが彼は満足していた。目の前の相手が自分の名を覚えていてくれた、死んだと思っていた自分の事を思い出させてくれたから。だから青年は穏やかな表情を浮かべて消え去った。
「……あばよ。オレは忘れないぜ」
誰に言うでもなく零二はそう言った。