ある男の末路
いつからだろうか?
自分が他人とは”違う存在”だと理解出来たのは。
よく分からない。
ただ小さな頃から漠然とは思っていた。
自分が時折、自分以外の者をどう思っているのか、と。
どうしてそんな事を思うのかは分からない。
自分は弱いのに。
ちょっと他者に凄まれれば怯み、怯え、屈する。
そんな弱い人間であった、というのに。
違和感が拭えない 。自分は他人とは何かが違うのだ、と何の根拠もないのにそう、強く思え、確信出来た。
(そんなのは勘違いだ、妄想だ)
そう幾度も幾度も言い聞かせてみた。
だってそうじゃないか、自分は誰よりも弱かった。
いつ如何なる時に於いても、周囲の中で常に一番弱かった。
違和感に呑み込まれそうだった。
だから自分を変えてみたかった。
違和感の正体はきっと理想と現実のギャップなのだ、そう堅く信じて。
結果として選んだのは人を守れる立場。
他者を守れる立場、他者よりも強く在らねばならない立場。
でも駄目だった。
自分は結局、そこでも誰よりも弱かったのだ。
走る速度が他者よりも劣った。
長時間走りきる為のスタミナが他者よりも劣った。
相手を制する為の技のキレが他者よりも劣った。
相手の動きを予期し、対応する迄の決断力が他者よりも劣った。
そうだ、何もかもが見劣りするのだ。
何故一番になれない?
どうしてだ?
何で全ての物事で自分は常に他者に劣るというのか?
自分が何をしたというのか?
何故、こんなにも違和感が強くなっていくのか?
我慢ならなかった。もう我慢ならなかった。
こんな違和感には耐えられない。
こんなズレに耐え切れない。
だから、決めたのだ。
終わらせよう、と。
こんなにも拭えない心のズレを是正出来ない以上、存在していても仕方がない、……そう思えて。
方法は古来よりの作法を選ぶ事にした。
白装束を、死装束を纏い、手には脇差しを。
割腹する事にした。
それも自身の手で腹を十文字に裂く、という最も苦痛に満ちた方法、殆どの者はあまりの苦痛の前に耐え切れないとされる所作で。
何故、その手段を選んだのか?
恐らくは”意地”だろうか。自分は決して弱くはない事を文字通りに命懸けで証明する為に。
そして実行した。
一面が血に染まった。
脇差しは腹を割り、その傷口からは臓物がはみ出す。
苦痛に身を震わせる。
あまりの苦しさに気を失いそうだった。
だが、まだだ。
まだ、横には腹を割ったが、縦にはまだだ。
そこまで実行してこそ初めて自分に誇りを持てる、そう思えた。
「ぐうううううううう」
呻きながら脇差しを刺し込みながらゆっくりと腹の中央にまで戻す。
そこから今度は上へと切り開く。
思った以上にあっさりと腹は縦に割れた。
(もう充分だろう、これ以上はない)
そう思いつつも両の手は脇差しに当てられたままだ。
この手は離さない。それが自分に出来る精一杯の自分に対する責務だと思えたから。
(……どういう事だ?)
おかしな事に気が付いた。
自分は死んでいなかった。
そんなのは有り得ない。死んでいない。
臓物が、腹からはみ出した際にこぼれた跡が無くなっていた。
血は部屋一面を赤く染めており、割腹は間違いなく実行されたのだ。
なのに、死んでいない。
訳が分からずに鏡を見た。そして理解した。
自分は確かに他者とは”違う”のだ、と。
子供の頃からの違和感の正体は今、この自分の姿にあったのだ。
一度理解した後は楽だった。
受け入れざるを得ない、今の自分を。
立場は変わった。
もう弱者ではない。
虐げられる立場から、見下される立場から、狩られる立場から脱却したのだ。
今は幸せだ。本来の自分を知った以上、やるべき事は実に明白なのだから。
◆◆◆
「くは、……はああ」
ズルリ、という生々しい音。思わず不快になるような水気を含んだ、何かが這いずる様な音。
鼠等の小動物ではない。その音は明らかにもっと大型の生き物が動く音。だが、それは不自然だ。
何故なら、音が聞こえるのは小さな直径十センチ程度のの小さな配水管からだから。
猫でも入れない様な場所に大型の生き物が入れるはずも、まして動けるはずもない。
しかし、彼は例外であった。
その手足並びに肉体、骨格に至るまで彼は自分の身体を常識では考えられない程に”折り畳み”さらに”伸ばす”事が出来る。
自分の骨を意図的に外して、柔軟性を高め、主要な臓器を動かし、一直線に配置させる。そうして於いて肉体をまるでところてんの様に押し出しながら移動する。
つまり今、配水管にピッタリのサイズにまで彼は己が肉体を変体させてここまで逃げて来たのだった。
男の名は通称”蛸”。
「くぐっっ……」
彼はどんな狭所でも隙間さえあれば潜り込む事が出来る。
現に今もこうして敵から逃げる事に成功したのだから。
ズルリ、ズルル。
配水管から外にまずは手が抜け出た。
そこから肩、頭、そしてもう片方の腕から手……と一体どうやったらこんな狭い場所に全身を入れる事が出来るのかは普通の人間にはまず理解出来ない事だろう。まさしく”軟体動物”そのもの。
「く、はっ、はあっ……」
最後に足を抜き出し、蛸はようやく外の世界へと出る事に成功。
だが、もう体力の限界だった。疲れきり、脱力しきった全身が力無くどさり、と地面に落ちる。
腕時計に目を向ける。
どうやらかれこれ二時間程度は逃げたらしい。
「うう、くせぇ……」
全身から漂う悪臭に思わず顔を背けたくなる。
無理もない、彼の通った配水管は下水にも繋がっていたのだから。いくら生きる為とは言え、気分は最悪だった。
自分の戦った相手は完全に格上の存在だった。
コマンダーの言った通りに、戦おうとせずに最初から逃げに徹してさえいればこうまで追い詰められはしなかったであろう。
(それにしても……)
実に不愉快な臭いだった。
早くここからも立ち去ってしまいたい。
逃げるのに精一杯だったから折角の仕事の成果はもう消えてしまっている。手酷い失敗だ。でも大丈夫だ。
だがいいさ、その失敗を糧にして次にいかせばいい。ただそれだけの事、……そうコマンダーの奴も前に言っていたじゃないか、と言い聞かせる。
ピピピピピ。
突如聞こえたのは携帯電話の着信音。
蛸は今、携帯電話を持ってはいない。この姿を見せない指揮官とは、仕事をする上で幾つかのルールがある。
コマンダーは仕事の度に携帯電話を用意する。それと同時に古い携帯は破棄させる。
今回のも新しい携帯を用意してくれたのだろう。
そう、この場所は事前にコマンダーと打ち合わせをしたもしもの際の緊急避難先なのだ。
コマンダーには無駄な行動はない。
蛸は少し歩き、その携帯電話を手にした。
「はい、蛸です」
──やあ、無事だったね。
「ああ、仕事は失敗しちまった」
──ああ、知ってるよ。この場所に来たという事はそういう事だろうさ。
「今回は邪魔者が入っちまったんだ、でも大丈夫だ、撒いたから」
──そっか。
「もう失敗なんかしない、おいらも学んだんだ。これで────え?」
蛸は気付けなかった。
すぐ傍にいる人物に。
だが、気付けたとしてもどうしようも無かった事だろう。
今の彼は疲労困憊で、まともに動ける様な状態では無かったのだから。
ある意味では彼は幸運であったのかも知れない。
蛸は最期まで気付く事も無かったのだから。
グシャ。
呆気のない音、感触。
蛸、と呼ばれた男は瞬時にこの世からいなくなった。
その頭部を跡形もなく吹き飛ばされて。
──これで、か。残念だよ。君にはもう【次】なんかないのさ。
これがその哀れな男が聞いた最後の言葉であった。
「始末した」
──了解だよ。君にはいつも面倒をかけるね。
「問題はない。自分に出来るのはこんな事くらいだ」
──急いで始末してくれ。多分、その愚者は追跡されている。
「問題はない、では報酬は口座に振り込んでくれ」
簡単で事務的な会話だった。
そう、蛸が金を稼ぐのが役割であったなら、今、この場にいる彼の役割は”後始末”。
使い道を失った駒が余計なトラブルを運ぶ前に迅速に始末するのが役割だ。
彼はレインコートを着ている。
それは返り血で自分を汚さない為だ。
これから行う後始末で飛び散る返り血から身を守る為だ。
「…………」
グシャ、メキ、ドン。
不快になる音が小さく響いた。