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逃走

 

 しゅん、という風を切る音。

 その手の先端から──銀閃が煌めく。

 だが、相手は動じない。冷静に顔を逸らし、上半身を左右に捻って躱していく。

 先程からこうだった。自分の手にあるナイフが一体何度空を切った事か。

「なめるなっ」

 怒りを露にして喉を切り裂こうと一文字に切り付ける。だが、少年は紙一重で躱す。明らかな侮蔑の笑みを浮かべながら。

「おいおい、どうしたよ? ンなもンかぁ」

 零二はにたり、と笑う。

 目の前の男は明らかに動揺していた。

「くそったれ」

 男が毒づく。目の前の少年はまだ何もしてきてはいない。

 ただ、自分が放つ攻撃を躱しているだけだ。

 彼の手足及びに全身は軟体動物の様に操る事が可能であり、意表を突いた攻撃も可能である。とは言え、決して戦闘向けという訳ではない。

 コマンダーが言っていた事を思い出す。


 ──いいかな。君の素晴らしい能力には可能性が眠っている。

 でも、これだけは覚えておくといい。

 誰しも向き不向きがあるんだ。君の能力と類似の能力者を私は知っている。中には戦闘能力が極めて高い者もいる。

 でも、だ。君の場合はその適性は戦闘向きではない。

 だからもしも、君が敵に遭遇したのなら取るべき選択肢ただ一つ。逃げ給え。決して無理に戦おうと思わないでくれ。


 そう忠告されたその時は馬鹿にするな、内心苛立ちを覚えた物だが今に至ってその言葉が正しかった事をこれでもか、と痛感する。

 目の前の少年が何者であるかは、この際どうでもいい。大事な事はムカつく事実だが、相手の方が戦い慣れしているという事であり、何とかしてここから逃げなくては、という事だった。

(大丈夫だ、おいらなら出来る、問題ない)

 そう言い聞かせ、蛸はナイフを突き出した。

 そうだ、まだ相手にはこちらのイレギュラーを見せていないのだから。


 一方で零二もまた、そろそろ相手を捕まえようと思っていた。

 今、こうして相手とじゃれ合うのも相手の出方を見ていたに過ぎない。正直言って大した相手ではない、それが率直な感想だった。

 まだ具体的にイレギュラーを見た訳ではないが、ナイフ捌きは使い慣れていないのかまだまだ、このまま見ていても退屈だと思った。

 だから、仕掛ける事にした。


「ふうっっ」

 息を吐くと同時に零二は前に飛び出した。

 特段、熱を発した訳ではない。単に素の身体能力のみ。

 それでも、その踏み込みの鋭さは、蛸の想像を凌駕しており、突き出したナイフの刃先及びに手先が伸び切ったのを見切っていた。

「!!」

 蛸は相手の飛び出しに驚きを隠せない。

 自分は確かに決して荒事に慣れている訳ではないが、こうもあっさりと見切られるとは思いもよらなかった。

 だが、

 シュバッ、カララン。

 ナイフの刃先は零二の背中を掠めた。そして同時に地面に落ちる。

「ンっ?」

 それは思わぬ攻撃だった。

 躱したはずのナイフが何故、背中を掠めたのかが分からない。

 蛸は微かに笑みをこぼした。

 自分の攻撃が相手の意表を突けた事に喜びを覚えた。

 だが、一方で驚きを覚えもした。

 完全に不意を突けたのだ。わざとナイフと手を伸ばし切ったのだ。その上で今の一撃は相手の心臓を突き刺したはずだった。

 間違いない、とそう思った。

 なのに、相手は咄嗟にその上半身を捻ったのだ。ナイフを叩いたのはたまたま捻った際に右手が触れただけで、完全に偶然だったのだろうが。

「ば……ウソだ」

 蛸は見ていた。その全てを。

 少年は意識などしていなかった。

 その目は真っ直ぐに自分を見据えていたのを見ていたのだから。

 ゴクリ、と息を呑む。


「おいおい、今のはなンだってンだ」

 零二は流石に驚いた。

 まさか、だった。何となく嫌な感じがした。

 だから、真っ向から向かうのを少し変えてみた。ただそれだけの事だった。

 あのナイフの一撃で死ぬとは到底思えないが、それでもまともに喰らえばそれなりの深手になったのは間違いなかった。

(やっれやれだな。いくらザコでも相手が同類ってンなら油断すンなって良い教訓だな)

 思わず苦笑する。

 だからこそ、今度は集中する。さっきみたいに中途半端な油断をしないように。気を引き締める。


 しゅうううう、という呼吸。

 同時に零二の全身から蒸気が噴き出し、覆っていく。

「な、なんだ」

 蛸は不良少年の目の前の変化に驚く。

 全身から湯気が噴き出していく。

 それはさしずめ蒸気機関の様な勢い。

 空気が変わった。

 零二を中心に気温が上昇していくのが分かる。

「さーてとぉ……」

 首や肩を回し、ゴキゴキと骨を鳴らす。

 久々に暴れられる事が心底楽しいらしく、満面の笑みを浮かべながら、ざしゅ、と一歩足を踏み出しつつ言う。

「来なよ、おっさン」

 その挑発に蛸は怒り心頭に達した。

「おいらを馬鹿にするなあっっっ」

 蛸は零二に襲いかかる。

 その両の拳を握り締め、殴りかかろうとする。

 さっきよりも素早い動きだった。

(さーてと……)

 零二はかぶりを振り、意識を集中させる。

 幸いにも相手は安い挑発に乗ってきた。

 さっきの攻撃のタネを見極める。その事に意識を一点に。

 全身から熱気を発し、身体中が熱い。

 だが、それとは逆に彼の頭は極めて冷静、冴え渡っていた。


 蛸は確かに荒事は苦手であった。

 だが今、彼は理解しつつあった。

 自分の能力はケチな盗みにしか使えない様なチンケな代物だと長年思っていた。いや思い込んでいた。

 だが、それは間違いであった。

 自分の過ちに気付いた。

 どんなにチンケな能力であっても要はそれを如何に使いこなせるか、これが大事な事なのだと理解した。

 その手を繰り出す。零二は後ろに一歩下がる。

「じじゃあ」

 だが、その手はごきん、という音を立てるや否や、不意に”伸びた”。本来であれば空を切ったはずの拳の間合いが零二へと襲いかかる。

 バキン、という音。

 零二の顔が横へ傾くのだが、少年は笑っていた。

 一見直撃のように見えたが、あくまでも冷静であった。

 唇を切ったが、大した問題ではない。ダメージもそんなに受けていない。

「ば、バカな」

 蛸は驚愕するしかない。手応えで分かる。今の一撃を相手は敢えて避けずに受けた、と理解した。

 それでいてインパクトの瞬間に、拳の直撃に合わせて顔を横へ流す事で衝撃を軽減したのだ。

「なーるほどねェ、今のがアンタのイレギュラー……大方、身体操作ってトコか」

 ペッ、口から血の混じった唾を吐き出す。

「でもよぉ、だったらさやっぱアンタ逃げなきゃだわ」

「な、何を……」

 蛸は後退る。零二の表情からは嫌でも伝わる。

 自分の事を”格下”だと判断した、という事が否が応にも。

 自然、その足が後ろに下がる。

 今のたった一回、一発のパンチで見極められた。

「アンタ、戦い慣れしてねェだろう? だってさ、動きに無駄が多いンだよな」

 その瞬間、零二は蛸ヘと肉迫しており、その左拳は鳩尾へとめり込んでいた。

「ぶははっっっ」

 痛烈な一撃。

 蛸はその一撃で膝を付き、口から吐瀉物を吐き出す。

 信じられない、それが蛸の本心だった。

 相手が強いからとは言え、こうも差が大きいのか?

 零二は膝を屈した相手を見下ろしながら告げる。

「アンタの練度なら、まあ奇襲一回で戦いの継続を諦めなきゃいけねェよ。さっきのナイフの一撃が失敗した時によ」

 と言うや否や、蛸の顎が跳ね上がる。零二が膝蹴りを喰らわせていた。

 痛烈な痛みと共に、蛸の身体はゴロゴロと幾度も転がっていく。

「くはががはあ」

 蛸の口はズタズタだった。何本もの歯が折れ砕け、口内は血に塗れている。

 とてもじゃないが、勝ち目など皆無だと理解せざるを得ない。完全に戦意を喪失している。

「逃がさねェよ、こっちもお仕事なンでな」

 獰猛な笑みを浮かべ、獲物へと迫る。

 蛸は完全に戦意を喪失しつつあった。

 だが、結果的にそれが幸いした。

 逃げる事に意識を向けた事で彼の目は周囲を見ていた。

 そうして彼の目に止まったのは……、

「こあああああ」

 蛸は奇声を発して襲いかかる。

「おいおい、どうした?」

 零二は無謀な抵抗に呆れながらも蛸の反撃を受け止めようとした。だがしかし、

 蛸の手は検討外れな方向に向かっていく。

 その伸びた先にあるのは配水管だろうか。そこにまるで吸い込まれる様に手が入っていく。同時にその中に彼の全身が引っ張られる様にして入っていく。飲み込まれる様にして、あっという間に蛸はその場から逃げていく。紙幣の詰まったリュックを残して。

「……へっ」

 だが、零二の表情に焦り等の色は浮かんではいない。

 何故なら、

「聞こえてンだろ? こっからはプランBだぜ」

 この逃走もまた、当初からの計画通りであったのだから。


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