雑賀美月
「ったくよ…………手間かけさせンぜ」
零二は盛大にため息をついた。
場所はWD九頭龍支部の管理している倉庫。
目の前にはようやく捕まえた捕獲対象の子供。
持っていた財布とか、指紋のデータから名前は駒繋喜楽里だとも判明した。
かれこれ三十分以上の追いかけっこだった。
この辺りは零二も馴染みのない場所だった事もあったが、駒繋少年が想像以上にここいらの地理に詳しかった事に加え、その小さな体格を活かして、様々な狭所に入り、潜り、隠れた事も苦戦の要因となる。いくら零二が熱探知眼で相手を見逃さないと言えども、自分が入れない場所にはなかなか手を出せない。
辛うじて手を伸ばしたが、そこを思いっきり噛まれる。
ビルとビルとの隙間に足を入れた瞬間、その足の甲を踏まれる。
足を掴まれて引き倒され、地面に思いきり顔面を打ち付けたりもした。
その挙げ句には下に潜り込んだので、覗きこんだ矢先に思いっきり炭酸飲料をぶっかけられたり、と散々な目に合った。
「ったく、これだからガキンチョは嫌いだぜ」
おかげで今、零二の着ていた白いシャツは濡れ濡れで、泥だらけ。炭酸飲料に入っていたであろう糖分が半乾きの為だろう、ねちゃついて何とも気分が悪い。
お気に入りのスニーカーも泥だらけ。
もっとも、スニーカーの場合普段から散々汚しているが。
零二がチラリ、と横目で捕まえた相手を見ると、
「離せよ、ちくしょーーーー」
と大声で叫んでいる。
三十分以上は走り回ったのに、本当に元気そのものだ。
それに叫んではいるが、しきりに周囲を見回しており、機会を伺っている事は明白だろう。
(油断ならねェガキンチョだな、全く)
思わず苦笑する他ない。
ちなみに零二が子供を苦手にしているのには一応、理由がある。
零二のイレギュラーは熱操作。
そして、彼の身を守るのは熱の壁。
それは彼の身に危険を及ぼす攻撃に対しての”無意識化の防御”だ。
だから、銃弾を始め、マイノリティによる攻撃等にもその防御は脅威を視認、もしくは察知した瞬間に発動する。
だが、ここにある種の落とし穴が存在する。
この防御壁は自分に脅威を与える攻撃について発動する。
つまり、脅威を与えない行為については発動しないのだ。
子供の金的や、噛みつきも零二にとって、命の危険を感じる行為ではない。だからこそ熱の壁は作用しない。結果としてマトモにそれらの反撃を食らったのだった。
零二は、自分の体質の為に、普段からマトモに攻撃を受ける機会に乏しい。
例えば、一般人とのケンカ。
基礎の身体能力で圧倒しているので、まず一方的に勝てる。
次にマイノリティ同士の対決。
条件次第ではあるが、正面からまともに戦う分にはそんじょそこいらの少数派にはまず負けやしない。
だがガキンチョは、というとハッキリ言って苦手だった。
何といっても相手は子供だ、だから本気になる訳にはいかない。
同じくマイノリティであろうが、それは同様だ。
まして零二の熱操作能力の場合、本人の感情に大きくその能力精度が左右される。
うっかり熱を持った手で触れて相手を蒸発、などという事態すら感情次第で有り得てしまう。
なので、出来得る限りの精一杯の手加減をしつつ、尚且つうっかり怒らない様に神経を使うという二重苦。
結果として、今回もこの生意気そうな子供を捕まえるどころか、弄ばれてしまう始末となったのだ。
では一体何故、この場に駒繋喜楽里少年はいるのかというと、それは捕まえたから。
ただし、それを達成したのは零二ではない。今回、この不良少年は完全に役立たずだった。
それを達成したのは、今、この場にいるもう一人のWDエージェントのお陰だった。
「あ、あのお茶淹れてきましたよ」
おずおずとした声が奥から聞こえる。
そして、続けてパタパタ、とした足音。
お盆に三つのコップには小麦色の液体。
恐らくは麦茶だろう、何故なら彼女は麦茶が大好きだから。
「えー、お茶よりジュースがいいよぉ」
駒繋少年が不満気に唇を突き出す。
「お前な、ちったあ事情が分かってンのか? お前は捕まってンの、人質みたいなもンなの!!」
零二が思わす口を挟を挟む。
全くもって不満の一言であった。
疑問、何で目の前にいるこの小生意気な子供は、こんなにもあちらになついているのだろうか?
まるでその零二の思考を読んだかの様に、辛辣な言葉が浴びせられた。
──簡単よ、あんたと【雑賀】さんじゃ明らかに比較する事自体馬鹿馬鹿しい。あまりにも無駄過ぎて面倒くさい、嫌。
「へっ、言ってくれンじゃねェかよ、相棒さんよ」
桜音次歌音だ。相変わらず、零二は彼女の姿を知らない。
いるのかいないのかよく分からないヤツだな、と思う。
例えるなら、一人だけクラスに席につかずに、別室から声だけで授業に参加している、といった所か。
何となくずっこいな、とか思わずにいられない。
「あ、あの。もしかして桜音次さんですか?」
そこに声がかけられ、振り向く。
”雑賀美月”。それが彼女の名前だ。
ご先祖の遠縁には、雑賀孫一という元祖狙撃手がいるらしい。
コードネームは”ブリューナク”。
古来の北欧神話の神の武器の名を冠する彼女もまた、九条羽鳥が自身の懐刀としてその存在を秘匿している人員の一人である。
こうして顔を合わせるのもまだほんの二度か三度といったところだ。
零二、歌音、美月、それからトーチャーにもう一人。合計五人が九条の特命により動く特殊チームだ。このチームに具体的な名称は存在しない。理由は至極簡単で、固有名詞を付ける事で、存在が表に出るのを九条が嫌ったかららしい。
あくまでも裏で早急に仕事をこなす為のチーム。それが彼らであった。
雑賀美月はおっとりとした雰囲気を持つ女性で、年齢は確か二十歳。
髪型はベリーショートで色はやや明るめの茶色。特徴的なのは瞳の色で緑がかっている事だろう。
身長は一七〇を越えており、零二よりも大きい。だがやや童顔であり、その少しおどおどした様子から彼女は不思議と背が低く見えてしまう。
着ているのはロングチュニックにキュロットパンツとスパッツ。足元はスニーカーで動きやすさを感じさせる装いだ。
美月の声に歌音が言葉を返す。
──あ、美月さん。こんばんわです、そこのバカが役に立たなくてすみません。
「うおい、誰がバカだと?」
思わず零二が割り込む。歌音も退かない。
──バカにバカって言って問題はあるの?
「むかあ、上等上等。今から決着つけてやろうか?」
「あ、あの、ケンカは良くないですよ――」
零二と歌音にはいつものやり取りに過ぎなくとも、美月には二人が本気でケンカしている様に思えたらしい。
まあ、実際本気の部分もあるのだが。
おろおろとしながらその場でキョロキョロしている様子に、駒繋少年が一人おいてけぼりを喰らった様な状況になっていた。
「あ、あのさ。何ていうか……ぼく帰ってもいいかな?」
その問いかけに対する返答は、
「ダメだっつの」「ダメですよ」──ムリね。
三人から即答され断念するしかなかった。
──でも実際、その子を捕まえたのは美月さんなんでしょ? どうして捕まえられたの?
歌音の疑問はもっともだった。
そして、それは零二にしても、捕まえられた駒繋少年にしても同様であった。
美月は三人からの視線(約一名は遥か遠くだが何となく)に耐え切れない。そもそも基本的には気弱で引っ込み思案なのだから。
「え、えーその、【上】から見ていましたから……」
おずおずとそう答えた。
「えーと、じゃあさ、上から来たのか?」
零二が問いかけると、美月はゆっくりと一度だけかぶりを振る。
「えーと、アグレッシブだなあ…………見てたのか?」
零二は恐る恐る尋ねる、嫌な予感をしながら。
「……それは…………」
美月は答えはしなかった、だがプイ、と視線を逸らしたのがその答えも同然だった。
「ガッデム!!」
零二は頭を抱える。自分の情けない姿を全部見られていたと理解した。
なまじハッキリ言って欲しい位だ。恥ずかしすぎる。
「あ、あのーぼく帰ってもいいかな?」
駒繋少年は改めて問いかけた。
そして、答えは全く同じだった。




