西東夲
はー、はー、すーー。
呼吸は静かにかつリズミカルに。
それが鉄則だ。
決して深い呼吸はしない。
自分の仕事は別に好きではない。
自分の仕事はどう取り繕っても、殺し以外の何物でもないのだ。
ゆっくりとトリガーに指をかける。
スコープ越しに見えるのは標的の顔。
特に代わり映えのしない普通の男に見える。
だが違う。
この男が数々の凶悪事件に関与している事はもう分かっている。
このまま生かしておけばより多くの命が奪われてしまう。
自分は人殺しだ。
自分には人殺ししか出来ない。
自分には他に得意な事なんかない。
標的の顔がスコープの中心に入り込んだ。
その刹那、指がトリガーを引き絞った。
ターン。
消音装置付きの狙撃銃から発せられた一発の弾丸。能力を使う必要もなかったのは幸いだった。
放った弾丸は、寸分違わず相手の眉間を貫通。
その場で膝を屈し、糸の切れた人形の様に力なく倒れる様を淡々とした気持ちで眺める。
これでいい。この世界からこれでまた一つ、悪を消し去る事が出来たのだから。
全ての咎は、自分が一身に受ければいいのだから。
◆◆◆
姶良摘示が狙撃される一日前。
九頭龍の港湾区域。
早朝だというのに、大勢の人の行き来があった。
それは今、この港に逗留している船からの動きではない。
無数の光が早朝の、霧がかったこの空気を切り裂く。
その光はいずれも赤。赤い点滅が規則正しく付いている。
「あーあ、コイツはひでぇな」
表情を歪ませ、思わず呻いたのは、九頭龍警察署捜査九課所属の刑事である西東夲。
彼がこの場に来たのはつい三分ほど前。
腕時計の時刻は午前四時二十七分。
もうすぐ五月になろうかという今日。流石に冬とは違い、空には微かながら陽の光が指しつつある。とは言え、薄暗い時間だ。
九頭龍の早朝は往々にしてこうした霧に覆われる事がある。
まるで白いカーテンの様な霧は視界を極めて悪くしており、こういう日には交通事故が起きたりする物だ。
西東は正直言って眠かった。
本来であれば、今日の彼は非番だったのだ。
だからこそ、つい一時間前まで彼は夜の営みに興じていたのだし、久々にテンションも高かったのだ。
だが、今は違う。
明らかに不満そうな表情を浮かべ、つまらなそうに現場に彼はいた。
捜査九課、というのは”異常特殊犯罪”を専門にする、表向きは存在しない捜査部門だ。
世間的には彼は捜査四課所属という肩書きの刑事だ。
捜査四課は、主に暴力団等の組織犯罪に対応するのがその主任務であり、彼は潜入捜査をしている刑事であった。
彼は一見すると刑事らしくない刑事だ。
着ている服装はパリッとしたスーツでも無ければ、ヨレヨレですっかり色褪せたスーツ姿でもない。
白のワイシャツ、少し色褪せた風な加工を施した緑のジーンズ。
そして茶色の襟つきカーディガンを纏った姿は刑事らしくない装いだと言え、その落ち着いた風貌からは文学青年の様な雰囲気すら漂わせていた。
「おう、来たか若造」
そう背後から声をかけてきたのは捜査一課の課長である向居だ。こちらはシンプルなグレーのスーツ姿で、一般的な刑事のイメージだ。
年齢はもうすぐ五十代。
所謂現場叩き上げの人間であるが、だからといって堅物でもない。事態の推移に合わせる柔軟性も持ち合わせた刑事である。
「向居さん、そろそろ若造ってのもやめてくださいよ」
「何言ってやがる、お前まだ三十にもなってねぇんだろ? なら、若造じゃねぇかよ」
西東は正直言って、このベテラン刑事が少々苦手であった。
粗野でべらんめぇ口調。がさつな初老のこの老刑事が。
彼の前では、下手な嘘など通じない。
何もかもがお見通し、そういう雰囲気をかもしているからだ。
はぁ、と気を取り直して遺体へと視線を向ける。
それは酷い有り様と言えた。
そこにあるのは五体バラバラの遺体。
とりあえず原型を留めているのは無造作に投げ捨てられた様な左右の手首。それから心臓。それ以外の部位はグチャグチャでまるで押し潰されたかの様だった。
血痕がこの場に激しく飛び散っている事から、殺害現場はここで間違いないのだろうが、何かしら特殊な機械や道具でも使わなければどうやってこんな所業が出来るのか、この場にいる大半の刑事は想像も付かない事だろう。
「で、お前さんはこのホトケを見てどう思うんだ?」
現場から少し離れ、向居は煙草に火を付けると問いかける。
西東をこの現場に呼び寄せたのはこの老刑事の判断だ。
異常特殊犯罪、要するにマイノリティによる犯罪はまだ、世間的には到底公表出来る話ではない。
何故ならあまりにも荒唐無稽だから。
そしてそれが事実だと世間に知れ渡った後に起こるであろう事態が、あまりにも危険だから、である。
これが新種の巨大生物の仕業だという事ならば、まだ事態の収拾は容易である。
しかし、マイノリティとは一見すると単なる人間である場合が大多数である。つまり、一般社会に紛れ込んでいる。それが知れ渡ったりすれば、間違いなく疑心暗鬼に陥る事だろう。
自分の隣人が異能力を持っているかも知れない。
そういう疑惑を抱いてしまえば魔女狩りにも等しい事態にも繋がり兼ねない。
ましてや、近年のネット社会における様々な問題。
例えば匿名の何者かが、悪意を持ってある個人がマイノリティである、と書き込んだらどうなるだろうか?
そうした情報は場合にもよるがネットで流れ、そこからSNSにも流れる。
中傷された個人は自分が何者かの悪意によって、勝手に怪物扱いされる。
そしてキッカケなどは、当人の預かり知らぬ些細な事だろう。
その個人がたまたま友人と軽くケンカをしている光景を誰かが目にする。その誰かが、ネットの情報を知っていればどうなるだろうか?
巻き起こるのは”集団パニック”。ヒステリーと言い換えてもいいだろう。
誤報が誤報だと分からないままに、ある個人を待ち受けるのは不特定多数による中傷、もしくは暴力だ。
そうして、何も知らないままに確実に被害者が増加。
その上で、このパニックは世界中で広まっていくだろう。
そうした事態だけは回避しなければならない。
だからこそ、世界各国の首脳陣や、権力者達は世界で増えつつあえう少数派の存在を未だ公表しない、いや公表出来ないのだ。
その認識は警察機関でも同様だ。
真実を知るのは上層部。
とは言え、そうした事態はいつまでも隠しおおせる事ではない。
特に捜査現場に於いて、明らかに異様な殺人事件が多発している昨今に於いて、勘の良いものならば気付く事だろう。
これが”人の手では不可能”であり、しかもそうした事件や、犯人が増えてきている事に。
だからこその”妥協策”が異常特殊犯罪専任の刑事を密かに任命する事だった。
その任命に於いては、様々な誓約が発生。
機密事項の漏洩の際には即座に警察官としての身分を剥奪。
公安などに身柄を拘束、抵抗されれば始末すら有り得るという素晴らしい契約条件だ。
そして何よりも異常特殊犯罪専任の捜査官に必須な条件。
それはその捜査官自身が同種の能力を保持する事。
つまりはマイノリティである、という事だ。
捜査官自体が機密事項に類し、その事を把握しているのは、各県警の上層部及びに、一部の現場指揮官。つまり、この場合は向居がその監督役として責任を持っている。
「さってと……」
向居はおもむろに立ち上がると、部下を集め始める。
その際に老刑事は、西東に目配りすると煙草を茶色の携帯灰皿に押し付ける。これが”合図”だ。しばらくこの場から人払いをするから”調べろ”という合図だ。
「はいはい」
分かりましたよ、と呟きながら”フィールド”を密かに展開するのだった。念には念を入れる為に。万が一の事態に備えて。




