擬態――ミミック
電話が鳴る。
その音はかつての黒電話と呼ばれた旧式の電話機のベルの音。
彼女はクラシックとも骨董品ともいえるその電話機を気にいっていた。
何処か懐かしく何処か事務的で、そして懐旧を誘う音。
彼女はゆっくりと受話器を手にする。この電話は歌音にしか伝えていない番号であり、その事が誰からの電話であるのかを語りかける。
「用件は何でしょうか、桜音次歌音?」
──ピースメーカー。逃げられました。
歌音が九条に報告をしたのは、あれからかれこれ二時間経過した頃だった。
ついさっきまでは相手の出す音を辿ってトーチャーが追跡していたのだが、相手の音が突然かき消えたのだ。
歌音は音で探知しているに過ぎない。相手の姿を確認してもいないのでどうやって痕跡を消したのかは分からない。しかし見事というしか無かった。
相手が何者かは不明だったが、間違いなく何らかのプロである事は間違いない。少なくとも追跡を撒けるだけの知識は持っているという事だから。
そこで歌音は九条を頼ったのだった。
既に九条は、歌音とトーチャーの二人が駅の東口から程近い商店街での事件に関わっている事を把握していた。
通報を受けた事で消防車と、救急車、それから来たのが”民間警察”、つまりWD九頭竜支部の別の顔の人員だったからだ。
慢性的な警察官の不足に起因し、九条は”九頭竜の行政執行機関”に申し出をした。それは彼女が経営する民間警備会社の一部を民間警察として登録させる、という提案だった。
住人から警察について到着に時間がかかる、と常々苦情が殺到しており、頭を抱えていた時にその提案はまさに渡りに船であり、あっという間に承認。今ではこうして事件現場を警察よりも早く押さえる事が可能になったのだ。それも堂々と表立って。
実際、九条の厳命により、この民間警察はきちんと機能しており、住民からの評判も上々だ。
住民からの些細な通報にも素早く対応し、迅速に行動する姿に信頼も増している。
その上でマイノリティ関連の事件を見つければ素早く対処する。
これにより、九条率いるWD九頭龍支部はWG九頭龍支部よりも機敏で果断な行動力、更に民間からの情報収集能力をも備えつつあった。
「存じています、何か気になる事があるのではないですか?」
──あの、……私が攻撃した……。
「住民はマイノリティではありませんでした。どうやら一時的に【自我】を奪われていたと報告を受けています。多少の怪我は免れませんが、深刻な怪我をしたものは皆無です。例外は薬局の主人ですね。彼は死亡時期が不明らしく、死因も今の所判明していません。しかし、これは何者かが事前に殺害していた事を意味しているとの事ですので、貴女には落ち度はありません」
歌音のほっ、とした吐息が電話越しに聞こえる。
九条の口調はいつも通りに事務的で淡々としたものだ。
だが、それが却って今の歌音には良かった。
この上司は嘘はつかない。常に淡々と事実のみを告げてくれる。
──それで、薬局から逃げた何者かについてですけど。
「詳しい情報は上がってきていません。ですが、一週間程前に件の薬局に見知らぬ男性が来店しているのは目撃されています」
──その男が犯人でしょうか?
「恐らくはそうです。そしてその前後で店の主人は殺害されたか洗脳されるかで手駒にされたと考えるのが自然です。
ですが状況から察するに、恐らくは殺害した後に何者かが成り代わった、というのが正しい解だと思われます」
──だとすると……。
──つまり、奴さんは変身能力を保持している。そういう事ですね、ピースメーカー?
ああ、あと補足しますけどこの遺体は【殺されていますよ】。恐らくは一週間程前にはね。
二人の会話にトーチャーが割り込んできた。見た目こそ黒電話だが、性能はそうではない。なのでこうして割り込み通話も可能。
彼は追跡を諦め、今は遺体の前にいる。
ここは民間警察が提携している大学病院の一室。より具体的には検死室だ。
腐敗を遅らせる為にひんやりとした室内には老人らしき焦げた遺体以外にもいくつかの遺体が安置されている。
トーチャーは九頭龍支部から発行された”特別許可証”を付けており、今はこうしてここに来ているのだ。検死医はまだ来ていないのか、薬局から見つかった老人の遺体はまだほぼ手付かずにされている。
とは言え、検死医には大した事は分からないだろう。
この哀れな老人の遺体は火災現場にあったのだ。
つまり消防の手で既に触れられ、水や消火剤などで証拠の大部分は流され、汚染された事だろう。
だがこの拷問嗜好者には問題はない。
彼は拷問のプロだ。だからこそ殺された遺体を見る内に様々な事が判別出来る様になった。具体的に言うのなら遺体の表情を見る事でその被害者がどういう最期を迎えたのかが分かるのだ。
この遺体は、確かに科学的な証拠は大分損失されてはいる。
だが、幸いにも顔の表情は特に問題はない。
老人の表情からは微かな警戒、不審が伺える。
つまり彼が死を迎えた際には”誰か”がすぐ側にいた事になる。
そして焦げていない皮膚を確認する。
この遺体は恐らくは保存されていただろう事も判別出来る。
トーチャーの仕事には遺体の”取扱い”も含まれる。
フリークの遺体は普通の一般人の様に埋葬出来ない。人知れず処理するにも技術が必要であり、彼はそういった仕事も請け負うし、場合によっては保存処置もする。
フリークやマイノリティの遺体の中には”サンプル”として保存される物もあるのだ。
その際に様々な防腐処置を行う。
結果、細胞組織を壊さない様な薬剤にも詳しい彼には、老人の遺体はそうした防腐処置をされている事が手に取る様に分かるのだ。
──逃げる手際は大した物ですけど、処置はこっちの方が上手ですよ。ま、それなりに頑張ってるみたいですけども。素人なりに、ね。
得意気な声が九条にも歌音にも聞こえる。
確かに凄いが見直したくない特技だと歌音は思った。
──ハイハイ、良かったね。で、追跡の方ですが……。
「一週間前の来客の顔写真を元に調べています。とりあえず駅や高速に姿はありません」
──そうですか。
「桜音次歌音、冷静に考えなさい。相手が変装、もしくは変身能力があるのならどうやって逃げますか?」
その言葉に歌音はハッ、とした。
相手が姿を変えれるのならば、わざわざ同じ姿で慌てて逃げる必要等無いのだ。
ゆっくりと時間をかけて機会を待てばいい。
だから歌音は問うた、追跡した場所を。電話越しに得意気になっている調子のいい拷問嗜好者に。
◆◆◆
男は腕時計を確認する。
時刻は間もなく夜の九時だ。
彼の変身にはとかく時間がかかるのが難点だ。
”擬態”
それがこの男が自分のイレギュラーに付けた名だ。
手順はこうだ。
まず擬態する相手の一部を採取する。
採取するのは相手の遺伝子情報さえあれば何処の部分でもよい。
その遺伝子を含んだ一部を口にする事で相手の姿を模した”皮”を作り出し、それをもう一枚被るという能力。
擬態する相手の皮を纏わば、自動的に身体のサイズは調整、瓜二つの姿となり、並んでも区別する事は出来ない。
指紋もオリジナルと同じで、声紋まで変化する為に様々なセキュリティも突破出来る。
ただし、このイレギュラーはあくまでも擬態であり、外見こそ同様であっても内面、即ち知能までは変わる事はないし、身体能力等も元のまま変わらない。
彼が擬態をするのはあくまでも任務の為の潜入か、もしくは逃走の為のどちらかであり、戦闘の為のイレギュラーではないのだ。
この擬態のサンプルは、一週間前に九頭龍に来た際に依頼主に予め頼んでおいた。遺伝子情報さえ取れれば死んでいても構わない。
爆発騒ぎの直後から密かに近くのマンホールから下水道に入り、そこからまた別のマンホールから出る。
そこはある食品加工会社の保有する冷凍庫で、そこに擬態用の肉体を冷凍保存していた。
今頃は追跡者は必死になって薬局の主人の皮を被った自分を追いかけている、実に愚かな事に。
冷凍庫のシャッターを開き、周囲に人がいない事も確認。
これでもう誰にも疑われずに堂々とこの街から離れられる。
「これでオサラバだな」
男はほくそ笑みながら、駅へと向かった。
彼はこの時、自分の任務がもう終わる事を確信していた。




