魂と尊厳(Soul and dignity)その43
「Gradually,what happened to momentum untiljust now?」
マスクの男が自身の優位を再認識し、マスク越しからでもハッキリと嘲りの言葉を吐く。
彼がそう思うのも無理なからぬ事ではある。何せ目の前の相手は文字通りに手も足も出ないのだ。
「Are they good at a race?」
「──っ」
小さな舌打ちを入れ、これで幾度目かの繰り返しだろうか、と縁起祀は自問する。
時間に換算して、せいぜい十秒やそこらだろう。普通であれば一〇〇メートルを走り抜ける程度のあっという間の短い時。されど常人を大きく凌ぐ速度を誇る彼女にとってみればそれはとても長い時間のように感じる。
チラリと視線を数メートル先へ向ければ、そこからは煙がもうもうと上がっている。その周囲ほんの数十センチ程度は黒く焦げていて、何かが焦げたような不快な臭いが鼻孔を刺激。思わず目を細める。この数ヶ月で嗅ぎ慣れてしまった臭い。
(恐らくは血液操作能力。血を爆発させている、みたいね、なら────!)
思わず視線を落とす。だとすればこの場所はマズい。
辺り一面、あらゆる場所が血塗れのここは、相手にすればまさしく狩り場といって差し支えないのだから。
「What is it, don't you come?」
そうした彼女の心中を逆撫でするように、ねっとりとした声音。言葉自体は通じずとも、その音の響きだけで嘲っていると理解出来た。
とは言え、一方的にまくし立てているだけの現状がつまらなくなったのか、「Boring. Do some answers.」と吐き捨てると、首筋に埋め込まれた装置のスイッチを入れた。
ピ、ガガガ、という耳障り極まるノイズ音が幾度か響き、そして数秒後。
「あ、あー、これで通じるか? 俺の名前はスミス。アルフォート・スミス。いかした名前だろ?」
マスクを外した男、とスミスはさっきまでとは一転、日本語で縁起祀に話しかけてきた。
「おい、何か言葉を返せよ。姉ちゃんよぉ」
くくく、と下卑た笑い声と同時に、バン、と大袈裟に足を踏み鳴らす。直後、男の目の前が爆ぜた。
「あ、わるい悪い。ほんのちょっと足踏みしただけのつもりなんだけどもなぁ」
「…………」
「おいおい日本人の姉ちゃんよ。随分と無愛想じゃないかよ、──」
ああ、そうか。と言ってスミスはおもむろにマスクを外し、素顔を見せた。
その顔はお世辞にも整っているとは言えず、頬には無数の火傷のような傷が見え、眉はなく、鼻は潰れたかのように不自然に低い。だが何よりも一番印象的なのはその目。
左右の瞳の色が違うので、一瞬碧眼なのかとも思えたが、そうではない。右目の瞳は緑色なのだが、対して左目は白一色。よく目を凝らせば分かるが、瞳の部分が白く濁っており、恐らくは失明していると思える。
「どうした? 俺に惚れたか?」
だが何よりも彼のイメージを決定付けたのは、その声音。他者に対する敬意など微塵も感じさせない、侮蔑に満ちたその不快な音の響きだ。
さっきまでの英語でさえそうだったが、今の翻訳された言葉からは舐め回すような、ネットリとした感情がより色濃く聞き取れる。
「冗談でしょ。お断り」
縁起祀はそうキッパリと断言すると、小さく息を吐く。そして次の瞬間。忽然とその姿を消した。
そして直後にパン、という小さな破裂音。そしてその爆発が起きたほんの数十センチ前に姿を見せる。
「だからよぉいい加減諦めろよ」
スミスは破顔一笑。見下すような笑顔を浮かべると、「早いとかどうとかじゃどうにもならない事だってあるって事だよ」と告げ、くくく、と声をあげて笑う。
「いくら足に自信があってもよ。地雷原の中にいちゃあ、意味なんざないもんなぁ。さて、どうするんだ?」
「────」
スミスからの問いかけに縁起祀は無言を貫き、その反応を受けて彼は更に気分を良くする。
(ああ。そうさ。勝ち目なんざ最初からない。何せここは俺の庭。Slaughterterritoryなんだからよ)
スミスにとってこの場は既に己の領域。どのようなイレギュラーを持っていようとも相手に勝機は皆無。あえて例外があるとすれば空間に干渉する類のモノ位。だが目の前にいる相手の手の内は既に判明している。
(単に早いだけ。それなら俺の敵じゃない。さぁ、踏み込んでみせろ。そして見せろよ、その小綺麗な顔が、整った身体から吐き出せよ)
彼は知っている。どんな人間であろうともその顔の裏、中身は一緒なのだと。彼はよく知っている。どんな人間であろうとも、中に詰まっているモノは一緒なのだと。
(ああ。見せろ)
任務中に片目から光をなくし、そして知った。自分の横にいた戦友の、すぐ目の前で絶命していた敵兵もそして自分も同じでしかないのだ、と。
(出迎えの準備は万端だ。せいぜい勘違いしたまま死ねばいい)
スミスのイレギュラー、殺戮領域は指定した箇所を爆破させる能力。爆破範囲、威力はある程度設定可能。
云わば地雷のようなモノであり、それらを複数設置出来る。数については威力、範囲を小さくすれば増やす事が可能。この空間には五〇のソレを自分を中心に置いている。地雷の起爆も彼の意思によりオンオフが出来る為、何も知らない獲物が地雷源に足を踏み入れたが最後、最早助かる術はない。
地雷には素材が必要で、それはそこかしこに転がっている金属類。そしてここには無数に転がり、散らばっている銃弾が、ナイフがある。このイレギュラーに対峙した相手には、勘違いを誘う為に幾つかの地雷を血溜まりやら転がっているアホの残骸近くに設置すればこれで完璧。血液をどうこうしていると思い込み、何もないと確信し、踏み出した所でドカン。手足を千切り、中身を溢れ出させる。そうして苦悶する様を眺め、笑いながらトドメをくれてやるだけ。
(何が拠点防御に最適だ、ふざけた事をぬかしやがってアホ共が。見ろこの有様を)
この場に転がっている無数の誰かの残骸、それを構築したのは他でもない自分。防御の為なんかじゃない、ここを狩場として連中をはめたのは自分だ。こんなにも有用な能力を持つ自分を防衛要員だと?
そんな筈がない。レイヴンのリーダーであるコールウェルに見せつけてやる、自分の有用さを。どいつもこいつも皆殺しにして、手柄も独り占め。
(俺はもっともっとやれるんだよ)
ゆくゆくはレイヴンのリーダー、もっと上だって望んでもいい。この任務もその為の踏み台でしかない。
勝利を確信して疑わないスミスが歯を剥き出しにして吠える。
「来いよ。見せろ、お前のぜんっ──」
とん、と微かに押された感触。極々自然に、無防備な背後に何かが添えられたような感覚。
「──ぶを」
視界が急に外れ、身体が前へと泳ぎ、釣られて足も前へ一歩、二歩と反射的に前へ。
パン、パンと二度何かが破裂したような乾いた音がし、いきなり膝から無防備に崩れ落ちた。
「…………あ?」
スミスは何か違和感を感じつつ、起き上がろうとしたが身体が動かない。ふと視線を巡らせ、──その正体を認識した。
「あ、────」
あるべきモノが無くなっていた。今の今まであった筈のモノ。自分の右足が、膝から下にかけて損なわれている。
「クグアアアアアアアアア」
自覚した瞬間、強烈な痛みが全身を駆け巡り、スミスは苦しみ悶える。
「ふーん。死なない程度だけど、手足を飛ばす位の威力はあるって事か」
「──ッッッ」
スミスはのたうち回りつつも声の方角、背後を振り返るとそこには平然とした様子の縁起祀。
「な、てめぇ。何で──」
「くだらない事を聞くんだな」
「く、っそったれが」
「早く傷を塞ぐか、足を再生させれば。マイノリティだって血がなくなれば死ぬのかな? 折角だからここで試してみる?」
完全に見下されているという怒りが痛みを凌ぎ、スミスは幾分かの冷静さを取り戻す事が出来た。
「なめるな。クソアマっ」
奥歯を強く噛み締め、予め仕込んでいた治療薬を使用。失われた足を急速に再生させると同時にしかけた。
(バカが。甘くみやがって。死ねッッッ)
スミスは周囲に視線を巡らせ、意識を傾けた。
その瞬間、彼を中心とした半径およそ一〇メートルに予め散らしておいた金属類が膨張、そして即座に爆ぜた。一つ一つは小さな爆弾擬き。されどそれらからは無数の細かい破片が周囲へと散弾のように飛び散る。常人では到底反応すら叶わず即死する状況。だがそれすらも仕込みでしかない。
散弾のように撒かれた金属片。それが更に爆ぜる。一個一個は本当に微細な爆発と衝撃。されどそれが無数に連鎖するとなれば話は別。さらに細かく分散する金属片は粉末状になり、そしてその粉末が周囲を包み込み、周囲を包み込み、爆発を起こす。
一瞬にしてその場で起こった粉塵爆発。如何に足が速かろうが反応など出来る筈もない。
「死んだな」
もうもうと煙が上がり、スミスは満足げに笑う。
この粉塵爆発こそが彼のイレギュラーのとっておき。弾丸であれば躱せるのだろうが、この攻撃は点ではなく面。一瞬にして周囲を覆い尽くし、そして爆ぜる。無論スミスとて無事では済まない。だがそれも既に対策済みだ。
レイヴンの一員でもある彼は全身の骨格を手術により、強化されている。
かつての自分は任務の度に分厚い対爆スーツを着用していた。そんなある日の事。いつものように任務で爆弾の解除作業。これまでも散々行ってきた作業だった。同僚は目を瞑っていても出来ると豪語していて、失敗した。
目の前で同僚が跡形もなくなる瞬間、今際の際の事が今でも脳裏に深く刻み込まれている。
あの瞬間、その顔、何も分からないままに死ぬ姿が忘れられない。
(だからこそ、だ)
スミスは見てみたい、視ていたい。爆ぜるその瞬間の表情を、感情を見比べたい。自分のイレギュラーはその為にこそあると確信している。
だが彼の思いなど彼女には何の関係もない。
とん、と何かにぶつかったような衝撃が走る。
別段、強い力というでもなく、かといって弱過ぎる訳でもなく。
ほんの一歩、二歩と身体が前へと崩れ、それで止まれる程度でしかない。
スミスは一瞬どうしたのか分からなかったが、次の瞬間には何が起きるのかを察した。
戦うも何もない。そもそも相手になっていないのだと。
先程から彼女が幾度も幾度も前に進んでみたのも、別に突破出来ないのではなく、単に自分の速度と爆発までのタイムラグを計っていたのだ、と。
「あ、──あ」
驚愕と戦慄におののきながら、彼は自分自身のイレギュラーの爆発に飲み込まれ、跡形もなく消え失せた。