豹変
(どうやら……ここまでだ)
事態を理解した男はそう思った。被験者がここに近付いているのが検知されたからだ。
彼は”依頼”を受けてこの場所、この店でパラダイスを一般人へと渡した。どうやらこのドラッグは一部の人間には作用があり、マイノリティとなる確率を高めるのだそう。
依頼主はパラダイスというこのドラッグについての説明をしてはくれたが、その辺りの話は正直言ってどうでも良かった。
彼とすれば、依頼の前金は充分以上に満足出来る額であったし、その上この依頼の”期間”は男に一任されていたのだから。
(もう充分だろうさ)
この一週間程の間でパラダイスを渡した人数は十人。
その内の五人は直後に何らかの事件を引き起こした。
まだ警察はおろか、WGも何も掴んではいないだろう。
いや、仮に掴んだとしても、それはここ数日程、街でフリークが出現する比率が妙に高い、と思われる程度の事だ。
依頼主からはある装置を受け取っている。
一見すると、小型の携帯型ラジオの様なそれはチャンネル、周波数を切り替える事で特定の人物にある衝動を与える。
その衝動は個々人で違いがあり、一概に区別は出来ない。
今、観察している少年を見る限り何とも判別はつかない。
相手が何者なのかは分からないし、興味もない。
男はあくまでもビジネスとして依頼を受けているのだから。
フリーのマイノリティである自分にとって余計な興味を抱く事は致命的なミスを招く可能性を孕むのだから。
(さて、早く店じまいしなくてはね)
男は手早く荷物を纏め始める。倉庫には無数の薬に、それから不自然な程のお香が焚かれている。
その理由は、倉庫の奥には、この店の主人である老人の遺体が転がされているから。
今回、この場所を借りるに当たっての下準備で始末したのだ。
ビリビリ、という音を立てて男は皮を破る。老人の皮はまるで、良く出来た被り物だった。
すっかり皮を脱いだ男は老人とは似ても似つかぬ中年男に変わる。男のイレギュラーは軽い暗示による記憶消去と、自分が接触した相手の姿を模した”皮”を作れる事。
戦闘に向いたイレギュラーではないが、あちこちで活動するのには便利な物だ。
老人の遺体の状態は良好で、あとは薬品を注入しておくだけでいい。彼の死亡時刻が曖昧になる上に、自然死だと思わせる事が出来るので、隠蔽も容易だ。
仮にWGなりWDに嗅ぎ付けられても、遺体の工作に気付く頃にはもうおさらばだ。姿を変えられる自分はどうとでも逃げる事が出来る。
ふと時計を見る、後始末は残り五分程度だろう。
◆◆◆
「あーあ、……困ったなこれは」
トーチャーは思わず苦笑いする。
目の前には一体のフリークが起き上がっている。
まるで、相撲取りの様に巨大な体躯。身長は二メートルくらい、体重も二百キロという所か。
トーチャーは尋問官だ。
ハッキリ言うと戦闘に向いたイレギュラーを持ってはいない。
彼のイレギュラーは精神的苦痛を与える言葉と、それを応用してある程度の傷を癒す事。
攻撃に使えるのは前者ではあるのだが、目の前のフリークがマトモな精神状態であればそこそこに精神的苦痛も効果はあるだろうが、果たして目の前のフリークがマトモな精神状態であるか、だが。
「もしもーーーし」
恐る恐る声をかけてみる。
「…………」
リュウであったフリークは返事を返す事なく、無言でトーチャーを見る。
僅かに全身を震わせる。
その目は周囲を見回し、まるで獣の様だ。
「も、もしもし?」
「ぐるああああああああ」
フリークは獰猛に吠えるや否やトーチャーへと襲いかかる。
丸太の様に太い腕を振り降ろす。飛び退くトーチャー。拳が地面のアスファルトを砕き、めり込む。
「やだやだ、そんなマッスルキャラとか、勘弁だ。
こっちは肉体労働には向いてないんだからさぁ……!」
今度は突進しつつ頭から向かってくる。
トーチャーは横に身体を反らしつつ、足を引っ掛けて転ばせる。
ガラガラン、とシャッターを突き破って何処かの店に突っ込む。
「仕方ない、──【刺さる】よ。そこからこっちに来るとね。
だから……動かない方がいい」
その言葉こそトーチャーのイレギュラーだ。
刺さる、というその情景を想起させる一言。
彼のイレギュラーはあくまでも精神に負荷を与える物だ。
相手はまともな精神状態であれば、今、その目の前には何らかの情景が浮かぶだろう。例えば、槍衾。例えば、剣山。そんな様々な、個々人が思う刺さる、という言葉で想起する情景が浮かび上がる事だろう。
ただし、あくまで相手がまともな場合の話だ。
「ぐるああああああああッッッ」
獰猛に吠えたフリークは躊躇わずに襲いかかってきた。
正気を失った今の相手にとっては、どうやら拷問嗜好者の言葉は届かなかったらしい。
「これだから頭の悪いフリークは嫌いだ」
そう誰にでもなく呟くと丸太の様な腕が目の前を覆った。
その小さな身体がその一撃に抗えるはずもなく、まるで紙屑の様に軽々と吹き飛んだ。
ガッシャアアアアアン。破壊音が静かな商店街に轟く。
「ハァ、ハァ、ったく思った以上に使えないわね」
歌音は思わず愚痴る。
今、彼女はようやく屋上にまで辿り着いた。
本来ならばエレベーターで屋上にまで行きたかったのだが、このマンションは入口は当然として、エレベーターにまでセキュリティが施されていた。具体的には指紋を登録しなければ動作しないのだ。勿論、住人やあとは住人が許可した訪問客にしか使えない。
入口はIDカードをかざすだけなので、WDに支給された解除コード入りのカードを使えば簡単に入り込めたが、エレベーターはそうもいかない。
なので、彼女は非常階段を全力で疾走する羽目に陥った。
ちなみに、息を切らせながらも向こうの音には注意を払っていたので何が起きたのかは大体把握している。
「もう少し足止めとか、出来ないの? ほんっとうにもう」
その声はどうやら向こうにも伝わったらしい。
──あのさ、こっちは戦闘には不向きなんだ。……もう少し労ろうか。
といった具合の返しが来る。
正直言って、拷問大好きなドS少年に他者に対する労りの心があるとは到底思えず、何かの悪い冗談みたいだと思った。
「ま、いいわ。もう少し待って。今からそっちを確認するから」
そう言いながら双眼鏡を取り出す。そして獲物がいる場所へと視線を向ける。
──オーケー。何とか粘るさ。でも早目に頼むよ。一張羅がボロボロになる前に。
「はいはい、じゃあ……上手く立ち回ってよね」
今度は一人誰にも聞かせずに呟いた。
「うおっっと、ちょっと待て。待てったらさ」
トーチャーがフリークに無駄と思いつつも話しかけてみる。
フリークは基本的に理性を失った存在だ。
だから大抵の場合、もうまともなコミュニケーションは取れない。
だが稀に一見すると、フリークとは思えない知性を持った者も存在する。そういう個体とは会話も可能であり、WDはそういう連中を時に身内にする。
何故なら、辛うじてとは言えども意識を保っているフリークは概して大多数の獣じみた同類よりも強大なイレギュラーを保持している確率が高いから。
それに、最悪死んだとしても使い捨てだと思えば大した事もない。非道な話だが、フリークとなったマイノリティがもう一度、元の理性を取り戻した例はこれまで一度も無いのだから。
そういう意味でならば、今、目の前にいる個体は大した脅威ではないとも言える。もっとも、それは荒事に習熟したエージェントには、だが。
トーチャーが突っ込んだのはどうやら昔ながらの八百屋らしい。
野菜を陳列していた棚が崩れ落ち、瑞々しいカボチャやキュウリなどは無残に折れて、潰れていた。
(ま、野菜がクッションになったのは事実だな。後でこの店にお代は払わなきゃ)
そんな事を思いつつ、フリークの攻撃を何とか躱していく。
トーチャーにとって幸いだったのは、このフリークの攻撃が単調だった事だ。確かに腕力こそ高いが、それを使いこなせていないのだ。やはり良くも悪くも目覚めたてのマイノリティであり、フリークだった。
「これでも喰らえ」
何度目かのラリアットの様な攻撃を躱すと、拷問嗜好者は落ちていたカボチャを相手の顔面へ叩き付ける。
鈍い音をたて、カボチャは潰れて、相手の視界を遮る。
更にその一撃が効いたのか後ろによろめく。
それはトーチャーの狙い通りの展開だった。
このフリークは確かに巨体だ。その筋肉は肥大化し、まるで鋼鉄の様相。手足も頑丈そうで正面から戦うのは彼には馬鹿の極みだと言える。
しかしその巨体に比して頭部だけは元のサイズだった。
それは彼がいうなれば出来損ないだったのかも知れないし、或いはこれが彼のイレギュラーによる変異の果てなのかも知れない。
だが、いずれにせよ強靭な肉体の中でそこだけは明らかに貧弱。だからこそ付け入った。視界を遮った相手に更に大きめのカボチャを思いきり叩き付ける。二キロから三キロの重りをまともに喰らえば脳は揺れる。脳が揺れれば相手の動きは止まる。これは生き物である以上、避けられない。
膝を付いたフリークへと勢い良くドロップキックを喰らわせる。
その勢いでフリークは店から飛び出し……路地に出た。
トーチャーは叫ぶ。
「今だ、やれっっっ」
「分かってるわ、面倒くさい──」
歌音は”音”を発した。
それは音の砲弾。音速の攻撃にフリークは自身が狙われたとは気付きもしない。
グシャッッッッ。
ただ潰れるのみ。
何が起きたのかも分からない認識の外からの一撃を前にフリークは為す術もなく肉塊へ成り果てた。
「──だから嫌なのよ」
その言葉は誰に当てた物なのか、……分かるのは当人のみである。