魂と尊厳(Soul and dignity)その34
この状況下に至っても、未だに何も思わなかった。
死ぬかもしれないのに。その心は全く乱れない。
目に見えないというのがこれ程厄介だとは思わなかった。無論、姿が見えない相手の事ではなく、自身が負っている数々の負傷。痛みを感じる事から何処がそうなっているのかは把握しているものの、殆どが外部ではなく、内部の損傷。痛みの元に視線を巡らせど、そこに外傷が見て取れないというのは例えようもない程の不快感、違和感を生じさせていた。
だがそれだけだ。
気分こそ悪いし、全身が痛みを訴えているが、それだけの事。
見えない、視えない、観えない、それがどうした? 視覚認識が出来ないだけ。他の嗅覚、触覚、味覚に聴覚は問題ない。なれば大丈夫、どうにででもなろうし、そもそも視覚も問題はない。ならば何を恐れる必要があるのか?
それが今は武藤零二、かつては02と呼ばれたモノの認識。
ふう、と小さく呼吸を一つ。夜中だというのに空気が湿っているのは、自分の全身を覆う水滴と常人よりも高い体温のせいか。
熱探知は出来ず、かといって熱感知も出来ぬ。あとは目視、或いは嗅覚にでも頼るべきか。
──否。
零二は気にしなかった。敵の位置なら分かる。理由などどうでもいいし興味もない。先程より漠然といる、ような感じであったのが、徐々に明確になり、今ははっきりと把握出来る。大事なのは、敵が何処にいて、どう動いてくるか。それに対して自分がどう対処するのか、のみなのだから。
◆
確実に自分の勝利が迫っているにもかかわらず、解体者はどうにも確信が持てなかった。
(何故だ?)
どう見ても自分の絶対有利な状況。よくよく目を凝らすまでもなく相手は半死半生。筋肉は裂け、臓腑は傷ついていて、回復してはいるはずだが、それも間に合っていないのは明白。
下手に回復に集中してしまえば、こちらの攻撃への意識が薄れてしまう。そうなれば今度こそ致命傷を負うかもしれないのだ。であれば、傷の回復はそこまで進んでいないに違いない。
その気になればいくらでも血塗れにする事とて出来た。それをしないのは、なまじ見えない方が面白いから。目に見えて重傷を負わせるよりも見えない方がより不安を与えるから。
(手は打ったはずだ)
万が一という事もある。そう思ったからこそスプリンクラーを誤作動させた。武藤零二が熱操作能力者だと分かっている以上、それを妨害しない理由がない。これで熱で察知される可能性は潰えた。おまけに外とは違い、天井まで行き来出来る。鳥なからぬ身である以上、上への対応はどうしたって不得手になる。
(完璧だ。あの小僧は間違いなく死ぬ。確実に)
あと危険なのは建物毎破壊された場合だが、武藤零二という相手は思っていた以上に甘いらしい。それも想定した上でここに誘い込んだ訳ではあるのだが。
(たかが小娘一人でいいとはな。聞いていた話とは随分違うものだ)
武藤零二、クリムゾンゼロ。
最凶最悪の怪物。血も涙もないマイノリティ。フリークではないか、とすら囁かれる相手。
詳しい話は分からないが、どこぞの研究機関だか何かを壊滅させた際、そこにいた数百人もの人間を皆殺しにしたという。その結果様々な研究は頓挫し、成果は失われ、多くの支援者を怒らせたらしい。かけられた懸賞金の額を見て一瞬目を疑ったのを思い出す。
そんな怪物じみた、実際怪物そのもののようなモノをこの手で、そう幾度思った事だろう。きっと最高の気分になるだろう、これまでにない作品が出来上がるであろう、と。
『こんなものか?』
だが今、解体者は全く以て満ち足りていなかった。それどころか落胆している。
それもこれも全ては武藤零二、あの小僧が拍子抜けする程に普通だったからだ。
音もなく、背中の肉を裂く。これで幾度目の攻撃だろう。一々細かくイレギュラーを制御するのすら億劫だ。素材を活かす為に出血などは重々気を付けていたのに、今やそのまま、流れるがままにしている。これでは単に画材にペンキをぶちまけるのと大差ない。実にくだらない。最早一方的な展開でろくすっぽ反撃しようとすらしていない。ただ何とか踏みとどまっているだけの状況。
『もういい。死ね』
解体者は絶望的な気持ちで死の宣告となる言の葉を紡いだ。
◆
その瞬間は唐突に訪れた。
解体者にとってそれは決定的な一撃。不毛な時間に幕を下ろす為の一撃。まず、先だっての攻撃で足を抉り、ふらつかせた状態に追い込んだ。その気はなくとも壁に背を付け、身体を預けた状態になったのを確認した上での詰みの一手。無論、零二としても壁を背にした所で何の意味もないのは承知している。だからすぐに身体を浮かせる訳だが、その一瞬が命取り。
一瞬で壁へと移動した解体者の手がいち早く飛び出す。狙いは心臓。それを音もなく抜き取らんと蠢く。
最早零二に為す術などない、そう確信を抱いた次の瞬間、いやそれにすら満たぬコンマ一秒程の後、有り得ない事が起きた。
繰り出した手には何の感触もない。確実に心臓を抉り出した筈。実際寸分違わずに心臓を刺し貫いていた。にもかかわらず、その手に有るべきモノがない。
「っしゃあっ」
獣の如き叫び声が、不意打ち如くに耳朶を震わせ、次いで衝撃が解体者を揺らす。
「────かっはっっ」
最初、何をされたか理解出来なかった。まるで風、暴風、いや熱風のようなモノが駆け抜けたかと思った瞬間、吹き飛ばされるような衝撃が全身を駆け抜けた。
気付けば自分の身体が宙を舞っている。そして無様に壁に背中を強かに打ち付けた。
「ば、」言い終わる前に全身が震えた。有り得ない事が起きた。
「馬鹿なっっ」
今度こそ叫び声をあげる。
「こんなのは偶然だ。そうだ、」
こんなのはあってはならない。その筈だと声を張る。
「かもな。ならよ、試してみればいい」それに対する零二の言の葉は、さっきまでと明らかに異なり、まるで冬の風のように寒々しい。
「…………っっ」
たかが一発貰っただけ。それも単なる当てずっぽうのラッキーパンチ。そうだ、と解体者は相手を一瞥。全身、ありとあらゆる箇所に深手を負っている。臓器に損傷。内出血に骨折、打撲。普通であれば最早立っている事すら叶わないような、瀕死の重傷。
(そうさ。考えるまでもない事実だ)
先程のまぐれ当たりの後に追い打ちが来なかったのがその証左。まともな状態であったならば間違いなくそうなっていた。
(それがない。つまりはそういう事だ)
その余裕がないという事だ。
(奴は死に体だ)
そうだ。今のはたまたま。単なる偶然。この場は未だに自分にとっての作業場。相手はこちらの動きに対応出来てないのだ。これで負ける訳もない。
解体者にとって内側の世界は自分専用の海、いや、トランポリンのようなモノ。いくらでも加速可能で何だって出来る。
『殺してやる。その減らず口を後悔しろッッッッ』
最早躊躇など無用。小生意気な口を二度と聞けぬよう、首を落として幕引きをしよう。
幾度目かの往来の後、必勝必死の殺手を放たんと背後から飛びかかる。
零二は気付いていない。何の反応もない。
(終わりだッッッッ)
終わりの筈の殺手、必殺必中の一手は空を切る。そこに姿はあるのに。一体。
「…………!」
解体者は気付く。目の前の相手の姿が揺らぐのを。
「ばっっ」
そしてすぐ背後に気配を感じ、地面へと沈み込む。
「遅ェよ」
零二の白く燃え盛る拳は地面へ入らんとする相手の顔面を撃ち抜くも、そのまま解体者は地面へと沈む。
「チッ。でもま、──もう決着は付いたな」
その視線は逃げ込んだ地面へ、次いで横の壁へと向けられた。
(にしても、さっきのは何だった?)
今はハッキリと相手の位置が分かる。直接焔を流し込んだのだ。この至近距離でもう分からない筈がない。だがさっき、相手の位置が分かった理由は皆目見当もつかない。
(妙な感覚つうか、何だろ)
違和感、ではない。何処か慣れ親しんだ感覚だった。
「…………やめだやめ」
今はそれどころではない。ここには相棒が捕らえられているのだ。そう思い、零二はフロアを後にした。
一方。解体者は内側で苦しみ悶えていた。
『あ、あ、ああああああああああああああああ』
顔が、灼ける。ほんの一瞬、それだけだのに。
『バカな、馬鹿な、ばかなあっっっ』
今彼は全力でリカバーを使っている。なのに再生が追い付かない。それに、だ。
(有り得ん、ありえん)
何故全身が熱いのか、まるで灼かれるように、痛いのか。
「ぐわあああああっっっ」
とてつもない感じた事もない痛みを前にして、解体者は思わず内側から飛び出す。既に零二の姿はない。その事に怒りを覚えるも、同時に安堵も抱く。
「そうだ。アレを摂取すれば」
床を転がりながら、ポケットに手を入れ、取り出したのは小さなペンケースのような物。それを開けるとその中にあるのは小さなアンプル容器。
「これさえ、飲めば」
これはエリクサーとかいう薬。マイノリティの回復能力を飛躍的に増大させるとかいう逸品。その効能は既に一度受けているから知っている。万が一、という理由で一本貰った物。
「そうだ。これさえ、あれば」
注射器などない。関係あるか、とアンプル容器を壊しそれを啜る。
(犬っころのような真似をさせやがって)
屈辱に身を震わせながら、舌を伸ばし、必死にそれを啜り続ける。すると効果はすぐに出た。全身の燃える様な痛みが軽減されていく。細胞の一つ一つまでも灼かれるかのような口舌にし難い激痛が収まっていく。
「ころして、やるう゛う゛ぅぅ」
まるで獣のような声、唸り声をあげつつ、自分をこんな目に合わせた相手を殺すべくゆらりと歩き出そうとしたその時。
「…………ん?」
急に立てなくなり、膝を付く。床に右手をあてようとするも、何故か床の感覚がない。
「────っっっ、」
そして気付く、自分の、右手が。有るはずのモノがない事を。
「な、な」それだけではない。足もない。まるで最初から存在しなかったかのように消え失せていた。
そして彼の全身は再度焔に包まれる。
「ば、な、んで」
考える暇もなく、継ぎ接ぎだらけの男、背外一政、解体者と呼ばれたモノは文字通り細胞の一つ一つまで燃え尽き、この世界から消え去った。