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狂った世界――The crazy world  作者: 足利義光
Episode 17
603/613

魂と尊厳(Soul and dignity)その33

 

(来たか、小僧)

 継ぎ接ぎだらけの男こと背外一政、ブッチャーは獲物が病院に入るのを確認した。

 今の彼は先程までとは違い、壁の中を動き続けている。万が一、建物を破壊しようと試みたとしても問題ない。その隙を突けばいいだけの事だ。

(もう素材だとは思わん)

 それはこれまでの彼にとっては信じ難い結論。

 まだイレギュラーに目覚める前より、どんな時でもあろうと、どのような相手であろうとも、常に己の芸術の為の材料として接してきた。用いる()()が変わっただけで、やるべき事は常に一緒だったのだ。

 全てはより良い芸術を作り上げる為の、研鑽だった。にもかかわらず、武藤零二に対してはそうした見方を放棄したのだ。これは異例だと言える。

(あれはおれ、いや……私にとって全てを否定しかねないモノだ)

 あの目、自分を見下す目には覚えがある。

 自分が、自分のみの目線こそが正しいと信じてやまないという独善。

 相手のものの見方など一切考慮せずに、ただ自分の考えを強要する類の輩。

(そうだ。あの小僧は明確な敵だ。生かしておく訳にはいかない)

 故に殺す。この場にて確実に殺す。

 内臓を抉り出し、それを目の前で握り潰す。肺を取り出し、心臓をも同様に肉片に。

 目の前で、地面を舐めさせ、苦悶苦痛の中、それを見下ろしながらまるで子供が蟻を踏み潰すように殺す。無慈悲に。

(油断などしない。確実に仕留めてみせる)

 その為の道筋ならば出来上がってる。確実に殺せる。そうに決まっている。



 ◆



 足を踏み入れた病院は静寂に包まれていた。

 無論、夜中という事もあるだろう。この病院が住宅街から少し離れた場所だというのもあるだろう。

「さて、と」

 零二に焦りはない。いや、正確にはある。だが少なくとも今、対峙している敵とは関係ない話。目の前の敵をほったらかしとして、別件に考えを巡らせたりするような器用な事はツンツン頭の不良少年には出来ない芸当だ。

 ゴキンゴキン、と首を回しながら呟く。

「かくれんぼ、……いンや、モグラたたきか?」

 視線を巡らせども、敵の姿どころかその痕跡すら分からない。

 どう見ても自分以外には誰もいない、無人とも思える空間。

 されど感じる。肌を刺すような殺意を。最初、相棒である歌音を攻撃された際には全く感じ取れなかったのに。今は明確に自分へと害意を向けてきている。

「要するに、怒り心頭、絶対にブッ殺すってこった。あーあ」

 くっだらね、と嘲りの言葉を吐き捨てた。見え見えの挑発、引っかかるとは思えない安い言葉なのだが。

『貴様アッッ』

 何処からともなく怒声が響き渡り、零二が後ろへ飛び退くとほぼ同時に、上から下へ、何かが一直線に通りかかる。

 まるで水面へと飛び込んだかのように、だが水面ならぬ地面には一切の波紋も起きない。

「鬼さんこちら、──手の鳴る方へってな」

 くいくいと手招きしつつ、笑う様は俄には信じ難いが、まるっきり遊びのようですらある。

『ふざけやがって』

 まさに怒り心頭なのだろう。耳を澄ませば歯ぎしりする音まで聞こえそうな言の葉。今更だが、継ぎ接ぎだらけの男が最初に歌音を狙ったのも、自分の位置を把握される事を嫌った結果なのだと確信出来た。

(さて、運任せってのはいかにもだよな)

 襲いかかってくる相手に反応していくのでは、どうしても一手遅れてしまう。ましてや今や注意すべきは頭上も含んだ全方向。

(さっきは何で分かったンだ?)

 何となく、そこにいる、と理解した。まるでそれが当然のように。

(熱、じゃない。それ以外の何か)

 考えども答えは浮かばない。なれば結論は一つ。

「いいからかかってこいよ。強いンだろ? アンタ」

 考えるだけ無駄だ。出来る事を最大限やるのみ。至ってシンプル。

 静かに、小さく息を吐く。これも秀じいに散々言われた事だ。大きい呼吸は隙を生みやすい。自分のタイミングを読まれるから、攻撃を受けやすくなってしまうのだと。

 その上で全身を弛緩させ、「来やがれ。クソヤロー」と笑ってみせる。

 その零二の言葉を受けたのかどうか、ブッチャーが動く。

「──!」

 すう、と風を切るような感覚が背筋に走り、同時に熱を発するように血が噴き出る。零二が振り向きざまに裏拳を放つも既に相手の姿はない。

「チッ」

 背中の傷は深手ではないが、問題はそこではない。

『ハハッ』

「くっ」

 今度は右の脇腹を抉られ、バシュと勢いよく血飛沫が舞い散る。

 またしても零二の反応が間に合わない。さっきまでとは明らかに状況が変わっている。

「早くなってやがる」

 先手を打たれる事は分かりきっていた。なればこそ、後の先、つまりはカウンターを狙っていたのだ。相手の動きは見えないし、察知も出来ない。それでも攻撃そのものには色々無駄が多く、だからこそ対処出来るものだと思っていたのだが、その根底が覆った。

「ち」

 血が吹き出た事で今度は肩口が裂けたと理解する。

 一瞬気配は感じるがそれだけ。相手の姿はない。かすかに天井に水面に広がる波紋のような波が広がった。

『小僧、どうした? 手も足も出ないようだ』

 余裕を持った、嘲るような声音。

 さっきまでとは一転。今は自分が相手を圧倒している。その事実が解体者に優越感に浸らせていた。

『お前は楽には終わらせん。その生意気な顔をぐちゃぐちゃにしてやる。生きているのが嫌になる程になぁ』

 解体の際、素材の内部のみを抉り切り裂き、皮膚や筋肉に一切の傷を付けない彼が、零二に対しては敢えてそうしないのもその一環。

 本来なれば芸術作品には不要な出血。作品の美しさを損ねる行為、要素。常日頃の彼であれば決して許す事の出来ない事態。さりとてそれが今、ブッチャーを恍惚とさせる。

 一方的なこの状況、さっきまでのような反撃もない。ただ自分が相手を痛めつけるだけ。

『どうしたどうした? さっきまでの威勢の良さは』

 物質の中を行き来出来るイレギュラー持ちである以上、常に先手を打ち続ける権利を持つという事が、これ程までに気分の良い物だったとは今の今まで気付きもしなかった。

 今また獲物の肉を抉り取った。右肩から腕にかけて鮮血が噴き出すのが分かった。

『くはは、こんなにも』

 気分が高ぶる。これまで素材を損ねぬように細心の注意を図ってきたのが馬鹿馬鹿しくさえ思えた。噴き出る血潮のぬるま湯のような温かさが何とも素晴らしい。

 肉を裂くついでに骨の一部を削ぐ時の感触。こつんとした硬いモノがあっさりとなくなるその瞬間。素材ならぬ獲物の命が少しずつ失われていく、その過程に心が躍る。

『もはやお前には私を倒す事は叶わない』

 確信がある。相手は手も足も出ず、一方的に嬲り殺されていく。

 これは最早戦いではない。ただの蹂躙。それが何とも()()()()

『もっと悶えるがいい』

 今度は大腿部の肉を引き裂いた。咄嗟に身を退いたのは経験則なのか、それとも本能なのか。いずれにせよ大した物と賞賛でもすべきか。

『どうした? 逃げるだけか?』

 傷の治りが早いのはここまでの流れで理解していた。他の傷が続々と塞がっていくのが見て取れる。

 だがそれだけだ。この室内での戦闘中注視して確信出来た。

 相手の再生能力は大した物だが、瞬時に全身全ての傷が完治する訳ではない。少なくとも戦闘中ではそう上手くはいかないのだろう。治療に専念しようにもいつ攻撃を受けるか分からない状況だ。

『どうやら終わりだな』

 それにこちらもただ攻撃してきた訳ではない。()()()も終わった。

「──ッッ」

 零二が小さく舌打ちを入れたのも無理はない。突如、スプリンクラーから水が降り注いだ。

『これでお前には一切の勝機すらない』

 解体者は薄気味の悪い声でそう嗤ってみせた。



 ◆



 瞬間、「チッ」と小さな舌打ちを入れた。

 まるで雨のように、スプリンクラーから降り注ぐ水が零二の全身を濡らしていく。

 これは彼にとってすれば異常事態。炎熱操作能力、より正確には熱操作能力者であるツンツン頭の不良少年は雨に身を濡らす等有り得ない。肌に到達する前、或いは到達したその瞬間、全身、または周囲を覆う熱により雨粒は蒸発するからだ。無論、周囲にばれないように普段は傘を使いこそするが、濡れるという事はまずない。

 では何故こういう事態になっているのか? その答えは単純で、そうすると不利だからだ。

 零二がさっきまで、外で見せた反応速度の理由は、()()()。例え姿は見えずとも、背後を取られようとも、その身体より発する熱までは誤魔化せないからだ。

 とは言え、零二の熱感知能力だが同系統のマイノリティと比して極めて優れている、という訳ではない。別段劣っている訳ではないがせいぜいが自分の周囲数メートルといった所か。

「つっ」

 今度は背中をざっくりと切られた。にもかかわらず、シャツはそのまま、ただ筋繊維のみが裂けた。

『手も足も出ないとはこの事だな』

 嘲笑う声がどこからともなく鳴り響く。

 解体者は、ここに至り己の勝利を確信した。天井や床、壁という四方を自在に行き来出来る自分にとって、この状況は万が一の敗北も考えられない。彼の行っている事は至極単純。入り込んだ先から新たな場所への飛び込み。例えるなら飛び込み競技のような物。上から下へと加速度的に勢いを増加させているような物。しかも、だ。天井のスプリンクラーを作動させた事で万が一の反撃すらも妨害。こうなった以上、結末は明らか。

『はははっ、ははははああああ』

 増々勢いを付け、上下左右を縦横無尽に飛び回る。獲物の全身を少しずつ確実に抉り取り、裂いていく。

 一方的な展開だった。

 武藤零二はただただその場で攻撃を受けるだけ。これがもしも距離を取って戦うのを得手とする相手であれば多少は渡り合えたやも知れない。やろうと思えば可能だろう。だが日頃用いぬ手段を、今この場にていきなり自在に遣うのはハードルが高い。

「────」

 全身をくまなく刻まれながら思い出すのは後見人であり、執事でもあり、師匠の、武侠の言葉。

 “苦労なさるがいい。苦しんでもがいて、悩むとよいでしょう。自分に何が出来て、何が出来ぬのか。かと言って、全てを行おうとするのは愚かな選択です。若には若の得手があり、不得手もある。大事なのは、それを理解した上でどういう手を打てるのかです“

 手合わせをして、返り討ちに遭い、散々っぱら地面を舐め、転がり、そして考えた。幾度も幾度も同じように無様に倒れ、そして考えた。疲労困憊で身体は動かずとも、考える事は、それだけは出来る。来る日も来る日も考え続けた。そしてようやく手合わせで一本を取った。その時の事を思い出す。

「──」

 これで何回目か、相手の攻撃が頬を掠める。零二は微動だにせず、ただ立ち尽くす。

 最早抗う術もなく諦めた、訳ではない。

『どうした? そろそろ殺して欲しくなったか?』

 継ぎ接ぎだらけの男の嘲笑に満ちた言の葉が浴びせられるも、ツンツン頭の不良少年は何もしない。言い返す事も感情を爆発させる事もせず、その場に立っている。

『くだらん。ならばもういい。幕引きだ』

 最終宣告となる言葉を吐き捨て、天井より解体者が飛び出す。

 狙うのは首。如何に回復力が高かろうと、首をもいでしまえばそれまで。ほんの一瞬で終わる。為す術なくあっさりと胴体から切り離せるのは間違いない。

 ここまで加速すれば手を動かす必要すらない。ただそこに添えるだけ。皮膚を透過し、筋肉と骨を絶つ。一瞬で片が付く。そのはずだ。もう終わり。勝った、その筈だのに。ふと解体者は疑念を抱いた。

(何故、動揺していない)

 迫り来る死。抵抗らしい抵抗もなく、ただ立っているだけ。文字通りの死に体。にもかかわらず、獲物の表情には全く動揺の色は浮かんでいない。ほんのコンマ一秒にも満たぬ命だというのに。何故そんなにも平然としていられるのか、と。

 だが既に矢は放たれた。どの道結果は変わらない。抱いた疑念は瞬時に過ぎ去り埋もれていった。


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