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狂った世界――The crazy world  作者: 足利義光
Episode 17
602/613

魂と尊厳(Soul and dignity)その32

 

「私はね、ただ多くの患者を救いたいだけ。それだけのものなのさ」

 これは郭清増悪という男の偽らざる本心。彼が考えるのはただ命を救う事のみ。

「調べただろうが、この病院は父から受け継いだ場所だ。私は父を尊敬している」

 元々は大学病院の教授だった父が何故ここに来たのかは分からない。学生時代口の悪い同級生からは派閥争いを嫌ったからだとも、或いは派閥争いで敗れたから、都落ちだとも言われた。曰わく負け犬の子供なのだそうだ。

「患者にとってみれば医者は医者なのだ。そういう当たり前の事を知らない愚か者の何と多い事か」

 数々の誹謗中傷を思い出し、身を震わせる。彼にとって見れば、くだらない権力闘争に夢中な連中などより、個人病院で真摯に患者と向き合った父こそが尊敬すべき本当の医者。真のヒーローだった。

「私は跡を継ぎ、より多くの患者を救うと誓った。その為ならどんな手段も講じてみせよう」

 熱く語るその言葉だけを聞けば、まさしくヒーロー。強い信念を持った尊敬すべき人物のようですらある。

 だが、歌音には理解出来る、出来てしまう。

 音を聴いた、からだけではない。

 こういった相手を彼女はよく知っているから。

 その鼓動、呼吸、その他の様々な音が目の前の男が嘘偽りを述べていない事を示している。この不気味な医者は、患者であれば手を差し伸べずにはいられないのだろう。

「医は仁術なり、と言う。君は知っているかな?」

 言葉通り、この医者は人を救いたいのだろう。己の信念に基づいて。

 それだけならばいい、それだけなら。このまま好きなように喋らせておけばいい、そうやって時間を稼いでいる間に、きっと相棒は来る。

(あいつが負けるはずない)

 こういう手合いはよく知っている。だからこのままにしておけばそれでいい、分かっている。こういう手合いは好きなだけ喋らせておけばいいのだと。

「道園獲耐?」

「気になるかな?」

 問いかけ直す闇医者に歌音は露骨に嫌そうな表情で睨む。道園獲耐が誰なのか、一応彼女は知っている。あの夏の騒動の裏側にて暗躍していた科学者で、あの白い箱庭の関係者の一人。

 面識こそないものの、様々な事件にも間接的に関わっていたらしいが、どうやらこの闇医者はその知り合いらしい。

「いいだろう。先生について話そうじゃないか。君にとっても丁度いい時間稼ぎにもなるだろうしね」

「──」

「驚く事はない。私もこれまで多くの患者を見てきた。観察眼だってそれなりにもなる。では話をしようじゃないか」

「いいえ、もう結構よ」

 郭清増悪が振り返るのと同時に強烈な一撃が顔面を襲う。

「──か、っ」

 闇医者の意識が途切れる刹那、その視界に映った相手は拝見沙友理だった。



 ◆



 まるで暗闇の中から染み出してきたかのような、漆黒のライダースーツ。手には護身用と思しき特殊警棒。

「大丈夫かしら?」

 拝見沙友理の言葉に歌音は警戒心を高める。今の今まで()()()()()()()。確かに調子は悪い、それでも何の音も聴けなかったのだ。警戒しない方がどうかしている。

「ええ」

「そうか。すまなかった」

「え、ええ。でも、どうして?」

 その問いかけには二重の意味がある。

「そうね、女の勘かな」

 はぐらかすような返答は、流石に年長者とでも言うべきか。

「とぼけないでくれますか」

「それもそうね。その薮医者に用事があったのよ。あとあなた達にも伝言があるの」

 相変わらずどういう理由からか、彼女からは音がよく聴こえない。

 微笑を浮かべる彼女を見て、歌音は一層、警戒心を強めるのだった。



 ◆



 有り得ない程の一撃だった。

 継ぎ接ぎだらけの男、解体者(ブッチャー)、背外一政という呼び名を持つ男は、文字通りの意味で大きく後ろへと転がっていく。衝撃を逃す為の反射行動ではなく、ただ無様に地面に叩きつけられ、転がっていく。

「く、か、がっっ」

 ズキン、ズキンとした頭痛を感じつつ、頭を振る。

 ゴホ、ゴホンと何度も咳き込んでいる内に、口からは転がっている間に入ったらしき、泥混じりの唾が出る。

「く、は、……」

 何とか立ち上がろうと試みるも、ガクガクと膝が笑っていて、すぐにバランスを崩し、手を伸ばして、地面に口づけするのは何とか避けた。

(な、んだと?)

 信じ難い話だが、最早疑いようがない。あの小生意気な小僧は、こちらの動きを把握している。でなければ、確実に先手を打つ事が出来る筈の自分がこうも醜態を晒す訳がない。あろう事か土を舐め、無様に地に伏している等有り得ない。

「ふざ、けるな」

 身をふるふると震わせるのは恐怖に駆られたからではない。

「お前ごとき、小僧が──」

 自分の半分も生きていないであろう、若輩者。まだまだ世の中の理不尽さなど理解すらしていない苦労知らずのガキ。

 自分が、こうして創作活動に至るまで、一体どれ程の労苦があったのかなど分かる訳もない。頭の悪い、愚者の分際で。

「おれの邪魔をしていいと思うんじゃないッッッッッ」

 激情と共に絶叫。飛び出したい気分に陥ったものの、すんでのところで思いとどまり、逆に後ろへと大きく飛び退く。

(駄目だ。ここで攻撃を仕掛けても反撃を受けるだけだ)

 そもそも本来の自分はこうも激情家ではなかった。感情の起伏が乏しいという訳ではないが、小生意気な小僧の言葉一つに過剰反応する程ではなかった、筈だ。

(くそ、どうしてこうなった?)

 息を吐き、こうなった原因を考えてみる。

(あの医者の仕業か)

 すぐに結論が出た。あくまでも何の証拠もない、単なる推論。しかし、あながち暴論だとも思えない。

「小僧。殺してやる」

 呪詛とも取れる言葉を吐くと、解体者は更に後ろへ飛び退くと病院内へと入り、そのまま闇の中に消え去った。



「ったく」

 零二は継ぎ接ぎだらけの男が後ろへ退くのを敢えて追わなかった。追撃すればそのまま片が付いたのかも知れない。だが、そう易々と事が進むとも思えなかった。それに、彼には疑念があった。

(今の感覚は、……何だ?)

 相手が分かった。今何処にいて、仕掛ける瞬間が肌で分かった。

(熱探知とかじゃねェ、それよか、もっと)

 零二自身の熱探知能力はそこまで高くはない。かと言って低い訳でもないが、例えば怒羅美影等と比較すれば、劣っている。何度か戦ってみて、その点は実感した。まず間違いはない。

(アイツなら地面にいたって分かるンだろうけどよ)

 少なくとも自分には無理なのは分かっている。既に試してみたからだ。

 己の熱探知能力では、地中にいる相手の位置は分からない。地面から飛び出してくれば話は別だが、それではどうしても後手に回ってしまうのは必定。

 なのに、だ。

()()()()()()()

 今のやり取りの際、地面にいる相手の位置が把握出来た。出来てしまった。それがどうしようもない違和感を彼に抱かせ、結果として追撃を躊躇わせた。

(おかげさまで、まんまと逃げられちまったワケだが)

 相手は殺すと告げた。であれば、逃げ出した訳ではない。

 病院内には、少なくとも一階部分は真っ暗闇。

「──当然ながら、分からねェか」

 熱探知眼(サーモアイ)で視るも、そこにもう相手の姿はない。

 思わず大きなため息を一つ。

「やれやれだ」

 どう見ても罠なのは明々白々。

 しかも、ここは屋外ではなく、室内。上下左右床下から天井まで何処にでも潜めるのだ。

 さっきまでのように下か背後に意識を向ければいい、という訳にもいかない。

 であれば、建物ごと壊せばいい、ともいかない。何せここには相棒である歌音がいる。下手を打てば彼女にも影響が出かねない。その上、あまり時間をかける訳にもいかない。耳に付けた通信機で下村老人に呼びかけるも、一向に返答がない。巫女からも何の音沙汰もない。この状況と繋がっているのか、或いは別件なのか。それは分からないが、どう考えても何かしら厄介事が起きている。であれば、零二に選択肢など最初からない。

「……しゃあねェな」

 やれやれとばかりに両肩を回し、不敵で獰猛な笑みを浮かべると、病院内へと足を踏み入れた。


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