魂と尊厳(Soul and dignity)その28
──いいか歌音。これは世の中の為なんだ。
そう言われた。
──そうだ。今日も良く出来た。
今日も言われた。
──今日も良く頑張った。
今日は褒められた。
──そうだ。良く出来たな。偉いぞ。
今日はいつもよりたくさん褒められた。頭を撫でてくれたし、お店屋さんでケーキも買ってくれた。もっと、もっと。
──お前もそろそろ一人前だ。まだまだ子供だが、もう一人でもやれる。偉いぞ。
頭を撫でてくれて、お散歩もしてくれた。嬉しかった。
──ああ、お前は本当に。
ねぇ、もっと褒めてよ。お父様。
──いい娘だよ。
◆◆◆
歌音は目を鋭く細め、すぐ傍にいる敵を見据えた。
「お前の言葉は私には意味を為さない」
強い口調で、突き刺すように、言い放つ。
「お前の言葉なんか聴かない」
実際には、まだまだ不調だ。どういった治療をされたのか、医療知識なんてないので皆目見当も付かない。麻酔か或いは鎮静剤の類でも投与されたのかも知れないし、これ自体相手のイレギュラーによる作用なのかも知れない。
頭も上手く働かないし、舌も上手く回りやしない。今、ここで戦闘になれば危険だろう。
だから、最善手は時間を稼ぐ事なのだろう。武藤零二、自分の相棒役の不良少年なら、きっとここに来る。来るに決まってる。
「お前の思い通りになんかなってやるものか」
だが、ただ待つだけだなんて性に合わない。肉体がどうだのという問題じゃない。
「私にお前の言葉なんか届かないんだよ」
ああ、そうだ、言いながらと自覚する。
このどうしようもない位の気分の悪さの原因を。
「私は、お前の玩具なんかじゃない!」
思い出してしまうからだ。昔の自分を。何も知らないままに、何の疑問もなく、ただ父親に従っていた頃の事を。だからこそ、だ。
「ア、あ、吁吁嗚嗟噫憙懿──────────」
気付けば、音を放ち、目の前の闇医者に叩き付けていた。
一瞬。強風のようなモノが吹き抜けた、そう錯覚した。身体が浮いたような感覚を覚え、そして次の瞬間には。郭清増悪の視点はいつの間にか狂っていた。
「な、に?」
思わず幾度もかぶりを振って何が起きたかを思い返そうとして、「そう、か。君の仕業か」とすぐに結論に至る。
郭清増悪は裏社会、この場合マイノリティを含めた世界に接してこそいるものの、別にWG或いは比較的近しい存在とは言え、WDの関係者でもない。本人としてはあくまで己の本分は医師であり、その対象が一般人からマイノリティまでと多少幅広いとしか思っていない。
どんな相手であっても区別なく治療するという方針が裏社会にも良く知られているからこそ、彼はこれまである意味で安全な立場にいた。
だからだろう。彼は他者の事には興味を持たない。あくまで自分は医療従事者。患者の傷を病を癒すだけの者であり、それ以上の事などどうだっていい。だからこそ、患者がどのような相手、例え悪名高い殺し屋であってもそれは関係ない。目の前に瀕死の相手がいたから助ける。ただそれだけの事。自身の知見を広める為にも、新たな患者は歓迎する、ただそれだけ。だからこそ、彼はこの新たな患者、桜音次歌音の事についてあまりにも無知だった。
「なるほど、音を手繰る能力という訳だな」
こうして体感して、ようやく患者のイレギュラーをおおよそ把握。本来ならば、敵対行動に対して警戒すべき場面なのだが──。
「素晴らしい、実にいい」とその口をつくのは歓喜の言葉。
「話には聞いたが、音を武器にするイレギュラーを見たのは初めてです、ううむ素晴らしい。私は実に運がいいッッッ」
手を大きく広げて、口から泡を吹かんばかりにまくしたてていく。その有様はどう見ても常軌を逸しており、音を聴くまでもなく、視覚情報だけでも歌音にとってその異常性を再認識するには十二分に過ぎる。
「ふむむ。その様子では本来ならばもっと私は手酷い目に遭っていたのだろうね」
郭清増悪は改めて部屋の様子を確認。機材などが倒れているのを立て直し、何が愉しいのか嗤う。例えるならば無邪気な子供を思わせるような笑みは、不気味さしか与えない。
「だがね、生憎とそれは有り得ないのだ」
闇医者は勝ち誇るようにそう宣言する。
「私は、治療に際して注意を払っている。具体的にはだ、どうすればイレギュラーの精度を減退出来るか、その対処なら万全なのだよ」
余程言いたかったのだろう、自分から自慢気に話し出す。
「まずは見たまえ」
大仰しく、机から取り出したのは、まるでイカスミのように真っ黒な液体。
「これはね。私の先生とでも言うべき恩師からの贈り物でね。先日亡くなったのだけど、実に惜しい。偉大な才能の持ち主だった」
歌音には恩師とやらは誰の事なのかは分からないが、その口上、正確には聴こえる音から相手に心酔しているのが良く分かる。
「マイノリティがイレギュラーを使う際に何が起きているのかを知ってるかね?」
「どうでもいいわ」
「まぁ聞きたまえ。脳が機能するのだよ、いいやより正確には脳のある特定の部分がね。そこから発する神経からの信号によってイレギュラーが発動しているのだよ」
まるで演説でもするかのような語りっぷりで歌音に話す闇医者の目は、爛々とした輝きを放っており、傍目から見ても異常だろう。
「いいかね。つまりは脳にある特定の機能によってイレギュラーは発動する。その機能さえ遮断出来ればイレギュラーは使えなくなり、マイノリティは無力化出来る。魔弾を知っているかね? あれはそういう意図を持って開発された代物だ」
「…………」
「ふむむ。魔弾については知っているようだ。まぁあの弾丸については何年も前から研究されていたものだし、今更ではある。だが、逆に言えばだ。その特定の機能を遮断ではなく、より一層活性化されればどうなると思う?」
ニタリとした薄気味悪い笑みを浮かべ、郭清増悪は言葉を続ける。
「それこそが私が目指す治療だ。マイノリティにはもっと先の可能性がある。そうは思わないか? そしてそれを為すのがこの贈り物なのだ」
声高に自慢気にその液体の入った瓶を見せる闇医者に、歌音は寒気すら覚える。
あの黒い液体が薬? どう見たってヘドロ、有害物質の類にしか見えない。何を嬉しそうに語っているのか? 薄気味悪さすら感じる。そう思っていたのだが。
「数年前まで、多くの患者を救えなかった。瀕死の患者、重病の患者に対して、私のイレギュラーだけではここまで成果を出せなかった。分かるかね? 自分の無力さ、非力さに絶望すら覚えた。それでも患者は来る。少しでも救いの目があれば、と。ああ、助けるべき命がこの手からこぼれ落ちていく。ああ……何という悲劇だ」
ここまで来ると最早、演説そのものだ。こういう手合いとの言い合いは無駄だと、自分の経験上彼女は知っている。
つい今まで、あれ程に自慢げだった物言いだったのが一転、今では無力さに身を震わせている声音、心臓の脈動、呼気の調子、いつも程聴こえてはいないが、それでも分かる。
この男は嘘を言ってはいない。さっきから言っている諸々の事は全て事実なのだ。
「そんな時だ。私は先生に、道園獲耐に会ったのは」
「────!」
その名前に歌音の眉は動いた。