魂と尊厳(Soul and dignity)その24
突然、目の前が真っ赤になった。まるで絵の具、ペンキでもぶちまけたかの様に。
何の前触れもないままに、突然に。
一瞬、何かが爆発でもしたのか、とすら思えた。
「……………………え?」
視界が揺らいでいく。真っ赤な視界のまま、ぐらりと身体から力が抜けていくようだ。
歌音は自分に一体何が起きたのか分からない。
「う、…………」
真っ赤に染まった視界、世界の先に微かに見えるのは、自分の腹部から見えるモノ。おかしな事にそれはまるで手の様にも見える。これではまるで自分の腹部からいきなり手が生えたみたいだ。
(おかしい、な)
こほ、と咳き込み、口を手で覆えば、手のひらにはこれまた真っ赤なモノが広がっている。
「そっか、…………」
ここに至り、ようやく歌音は自分が攻撃を受けたのだと自覚。同時に重傷だ、とも。戦闘を続行しようにも腹から手が飛び出しているこの状態では不可能だとも。敗北した、それはいい。
(でも、どうして?)
何故相手の音が聴こえなかったのか、ただそれだけが気になりつつ彼女の意識は途切れた。
「────ッッッ」
零二もまた何が起きたのか分からなかった。気付けばすぐ傍にいた相棒役の少女が咳き込み、直後に倒れた。
「オイ、何してンだ、よ?」
冗談にしちゃ趣味が悪い。場を考えろよ、と言葉をかけてやろうか。だけど出来ない。
歌音の腹部が赤く染まっている。刺された、いや、そんな生易しい出血量ではない。どくどく、と流れ落ちて池のように地面を濡らしていく。何よりも嗅ぎ慣れた、嫌な臭いが鼻孔を刺激する。
「……テメェか」と咄嗟に郭清増悪を睨む。だがそれは違うとすぐに分かった。あのひょろひょろとした医者に相棒役の少女がかくも容易く倒されたりするとは思えない。
実際、闇医者は嗤いながら「私ではないよ」と答え「だが誰の仕業かは知っているとも」と何とも薄気味悪い笑みを浮かべてみせる。その視線が動いた方向を見て取ると零二は間髪入れずに背後へと振り向きざまに右拳を叩き付けた。
「ガ、ギャアッッッ」と呻いて転がったのはあのナイフを持っていた警備員の男。
一体いつの間に拘束を外したのか、よろよろと立ち上がるや否や、喚きながらまたぞろナイフを手に、こちらを牽制するかのように遮二無二振り回す。
「何だコイツ?」
一目見てコイツは違う、と零二は即座に判断。こんな相手に後れをとるようでは相棒役なんて務まらない。拘束を外したのは、ナイフを出して使えばいいだけの話。
(それに、だ)
相棒役の少女にあれだけの深手を負わせるのに、あの小さなナイフでは到底不可能。幾度も幾度も同じ箇所を刺して、傷跡を広げるような時間などなかった。
「ま、とにかく。彼女は私が診ようじゃないか」
いつの間にか歌音の傍に郭清増悪がいる。すぐ近くの筈なのに、まるで気配を感じなかったのは、この闇医者からはおよそ戦いの気配がないからだろう。
「近寄るなクソヤロウ」
「待ちたまえ。断じて誓うが、私は医者だ。目の前に怪我人や病人がいれば助ける。当然だとは思わないか?」
「…………」
まるで幽鬼のような不気味さを醸し出す相手を前に、零二は考える。確かにこの男は嘘は言っていない。拝見沙友理から聞いた話からも、ネジが外れてはいるが、少なくとも医者としての面子は持っているとも。
何よりも今、ここには謎の敵がいる。その相手をするのに精一杯で、相棒の容態が悪化しないとも限らない。
(それに、だぜ)
妙な点がもう一つ。下村老人及び巫女からの通信が入らないという点。下村老人はともかくとして、巫女であれば音を飛ばしてきてもいいはずだ。なのに、それがない。
「どうしたかね?」
見透かしたかのような闇医者の言葉。今すぐにコイツをブッ飛ばしたい、という気持ちを抑えるように右拳に左手を添えると一度だけ頷く。
「了解した。彼女は任せるといい」
郭清増悪は嫌悪感を抱かせるような笑みを浮かべると、玄関先から担架を用意して乗せる。そのあまりの手回しの良さは、こういう事態を想定していたとしか思えず、零二は眉間をピクリと動かしながら、相手を睨み付ける。
「ああ。君にも興味はある。怪我をしたら院内に入るといい。傷を診てあげよう」
そんなツンツン頭の不良少年の気分を逆撫でするような言葉を残し、闇医者はガラガラ、と担架を運んでいき、院内に消えた。
「クソッタレが。来いよ」
こうなれば手加減は無用。確かにここに入ったのは自分達。向こうからすれば、夜分遅くに土足で入り込んだクソ野郎なのだろう。
「その代わり覚悟はしとけよ」
だがそれはそれ、これはこれ。何にせよ相棒役の少女に深手を負わせた以上、そのツケはこの場で支払ってもらわねばならない。
零二は下半身を落とし、その場にて身構える。
だがしかし。
歌音を襲ったであろう、何者かは一向に動きを見せてこない。
この場にいるのは、ツンツン頭の不良少年に錯乱したかのように口から泡を噴きながら周囲にナイフを振り回す警備員の男のみ。ああああ、と騒ぎ立てる姿はただもう不快以外の何物でもない。
「チ、っるせェな」舌打ち一ついれると、いい加減耳障りな声を黙らせるべく、零二は警備員の男の肩を掴み、────そして。
ズブズブ、という何とも嫌な音。そして強烈な違和感が背筋を駆け巡る。
「なに、?」
一瞬、自分に何が起きたか分からずに零二が視線を腹部に向ければ、自身の腹部に腕がくっついているのが見えた。
「確かに私は何もしていないさ。私は、ね」
誰に言うでもなく、闇医者はエレベーター内で嗤った。




