魂と尊厳(Soul and dignity)その15
ポコポコ、とした空気の音がする。
それからカタカタというキーボードを規則正しく叩く音にピ、ピ、と電子音が鳴り響き、そこを支配している。
打ちっぱなしのコンクリート剥き出しの、何とも殺風景な室内にあるのは、無数のパソコンと中央に鎮座するかのように置かれた筒状のカプセルのような物体。それは人が丸々入ってもまだ余裕がありそうな程に巨大で、床に巨大なボルトを打ち付けて固定している。
そのカプセル状の物体の背部には何本ものケーブルが取り付けられていて、辿っていくとそれぞれがパソコンに繋がれている。パソコンには心電図のような物が移っていたり、何らかの薬剤らしき名称が付けられたタグがあったり、そして複数のカメラ映像。
そのカメラは録画ではなく、現在そこで起きている出来事を映し出している。
水の中にあるのか、液体に満ち満ちている。ボコボコとした気泡が水面へと向かっている。
上からの映像からは何か、影のようなモノが映っていて、底からの映像からはその影が足を映している。そう、それは何かの動物とかではなく人のそれ。ここに入っていたのは紛れもなく人間だった。
無数のモニターを確認していた研究者らしき白衣の男が同僚に話しかける。
「調子はどうだ?」
「ああ。問題はない」
同僚の男が何者であるのか、彼は知らない。より正確に言えば、この研究室内の誰もが互いに何者なのかを知ってはいない。
ここは表向きは山奥にある廃校になった学校。ここ何十年かの間に周囲にあった過疎化の進んだ村落にも最早住人はおらず、周辺十キロに一般人はいない場所。
本来であればそこへと繋がる幹線道路は荒れ始め、行き交う人も車もない筈なのだが、学校跡へと繋がるその道は驚く程に整備されており、付け加えるなら車の行き来がある。
傍目には単なる廃校でしかないそこの地下こそEP製薬の秘密研究所であった。
「それで、例の検体はどうなんだ?」
「どうというと?」
「決まっているじゃないか。ボスの秘蔵っ子なんだろ、彼女は」
「ああ、そうか。そうだったな」
研究者達にとってみればここにあるのは研究の為に必要な機材と、それから研究に必要な実験用の検体、実験動物のみ。例えばそれが見た目が自分達とさほど違いのない、ヒトの形をしていようとも。それは研究の為のモノでしかない。
「しかし、本当なのか?」
「本当って何がだ?」
「彼女が最終調整を受けるって話だよ」
「ああ、……それなら事実だ」
そう言いながら研究者の一人が差し出したタブレット端末には、ここ一週間の実験の進捗状況が映し出されていて、そこにある予定の中で最新の物、つまりこれから行われる予定には“最終稼働実験“と記されていた。
「へぇ。いよいよか」
「ああ、楽しみだ」
研究者達にとってここは素晴らしい環境だった。
彼らは互いの素性も名前も知らない者同士ではあったが、共通点が一つ。それは倫理観の欠如。研究の為、革新的な技術、或いは名誉欲、単なる好奇心、と様々な理由の差異こそあれど、彼らは皆一様にここにある研究用のサンプル、検体、実験動物に何の感慨も持たない。これらはただただ自分にとっての研究用のモノであり、それがどんなに叫んだり、怒り狂おうが何の興味も抱かない。そういったモノですら彼らにすれば単なる情報であり、記録するモノでしかない。彼らにとって倫理観などというモノは科学の発展には何の意味もない、全く無駄なモノだった。
それが最初からの事だったのか、今となっては分からない。最初、はどうだった? いや、どうでもいい。そんな事は今はどうだっていい。
研究者達の腕時計が一斉にアラーム音を上げた。
「時間だ」
そして、彼女は外に出された。筒状の容器の上部が駆動音を上げて上がっていく。同時に口に取り付けられていた呼吸用のマスクも外れ、ごほごほ、と幾度か咳をする。研究者達は誰一人として彼女には近寄らない。その必要性を感じない。自分で出来るのだから問題ない。
◆
「……………………」
つい今まで薬液と思しき物に浸されていたからだろう、肌は所々薄緑色に染まっている。一糸まとわぬ姿で、ひたひた、と歩く。
くるりと周囲を見回す。羞恥心などはとっくになくした。ここにいる連中には女の裸よりも研究の方が余程興味深いのだとすぐに理解したから。
「…………」
鼻を突くのはツン、とした嫌な臭い。もう何回目なのかも覚えていないけど、相変わらずクスリの臭いは嫌いだ。
目の前に置かれた簡素なテーブルにはこれまた簡素な白のシャツとパンツ、それからズボンが置かれてる。こんなモノをまた着るのか、そう思うと気分が悪くなりそう。実際吐き気を催している。ああ、嫌な臭いだ。
──どうした? 着ないのか?
白衣を着た連中が訝しげに訊ねた。くっだらない。ワタシの裸を見ても何も勃たないような連中だ。恥じらうだけ無駄。
「どうせまた殺し合いさせるんだろ?汚れる位ならこのままでいい」
連中は壁の向こうからカメラ越しに見ているだけ。何も出来やしないくせに。
──そうか。
連中はそれっきり黙り込む。お前らにあるのは単にワタシという実験動物の性能のチェックだけだろう。余計な事なんか考える必要もない筈だ。なら、無駄なお喋りなんかする必要もないだろ。すぐに目の前の壁が音を立てて動き出す。
「ふん」と一言。くだらない。この壁は特殊な素材で作られているらしく、熱や衝撃に極めて強いんだそう。要するにワタシみたいな化け物対策。それだけじゃない。手首に付けられた緑色のリストバンドみたいな物。これは万が一の時の保険。もしも暴走だの反乱でも起こした時に毒を注入するのだそう。実際、目の前でデモンストレーションを行われた。そこにいた、誰か、誰だってどうでもいいけどそいつはいきなり苦しみ悶え、血を噴き出して死んだ。それを見て、刃向かうつもりなら、どうなるか分かったか? とでも思ったんだろうか。くだらない。どうでもいい。
──今日は今までと少しばかり趣向が異なる。最初から全力でやるといい。
スピーカー越しにこっちを見しているのが丸分かりな言い回し。いつも通りの殺し合い。
見れば向こう側の扉も開かれ、今日のお相手と対面。
今回は一応人間の形をしている。前なんてただの獣だった。理性も欠片もない、ただ本能に任せて襲いかかってくるだけのモノ。それに比べれば随分とまともに見える。
──始めてくれ。
その声を契機として、相手はゆっくりとこちらへ歩いてくる。どしん、どしん、と大袈裟な足音。隙だらけ、いつでも殺れそうだ。と思った時だった。今まで離れていたはずの相手がいきなり目の前にいた。
「──」
横に飛び退くのと同時に、今までワタシがいた場所で爆発したような音と衝撃が走る。埃が舞い上がって、視界を遮る。
そして、また相手の攻撃が来る。今度はぶおん、とした風切り音というより無理矢理向かい風を突っ切ったような音。ワタシはまた横に飛んで回避する、はずだった。
けれど、そうはいかないらしい。何故なら──通り過ぎるはずのモノが目の前にいたのだから。