魂と尊厳(Soul and dignity)その10
ああ、…………イヤな気分だ。
鼻の奥をツン、と刺激するようなあの臭いだ。
ガサガサ、バサバサという動物が騒ぎ回る音がする。
いや、それだけじゃねェ。
唸り声のようなモノも聞こえてくるし、おまけにゃ突き刺さるような視線もセットでついて来やがる。
さっきまで静かだった森の中が騒がしいのは、間違いなくこの臭いに刺激されているからだろう。
そりゃそうだろうよ。この臭いは連中からすりゃ生か死か。食うか食われるか、という状況を想起させるモノなのだから。
ああ。
ドンドン臭いがキツくなってく。もうすぐにでも、目の当たりとするだろう。
ああよく覚えてるさ。決して忘れるモノか。こンなけったくそわりぃのを忘れられるワケがねェ。
一気に森を駆け抜け、開けた場所に出る。
クソッタレ。やっぱり、な。
オレの目に飛び込んだのは、デカい木の幹に背中を預けるようにしてへたり込む女の姿。
深夜にゃどう見たって寒いはずの白いワンピース姿。赤いモノがあちこちに飛び散って、顔色は青く、強張って、今にも泣き出しそうだ。
そしてその女ににじり寄ってく一人の男がいる。
背中しか見えねェが、まるでこの夜に溶け込むような黒い上下のシャツとジーンズ。手には血の滴るナイフが握られているのが見て取れた。
「オイ、クソ野郎」
大袈裟な位にデカい声でソイツへ声をかける。
ブッ倒すだけなら、女を助けるだけなら問答無用で背後からやっちまえばいい。
こンなのムダなだけだろう。
だけどな、オレは見たかった。このクソ野郎を、そのツラを。
だが野郎は振り向きもしない。成る程な、眼中にないってコトか。
「あっそ」
そこでオレはフィールドを発動。そのショック、正確にゃとてつもない熱気、熱風を浴びせられたと錯覚した女は気絶。首を力無くガクリと傾けた。
すると、だ。野郎は明らかに狼狽え、そしてようやくこちらの存在に気付いたのか、顔を向けてきた。
のっぺらぼう、というか表情のない妙ちくりんな仮面を付けてやがる。
だから野郎がどんな顔をしてるかは分からねェ。だけどよ、これだけは断言出来る。
野郎は間違いなく怒り心頭なのは。だってよ、オレへ対して明確な殺意を向けて来てる。コイツはアレか、今から食べようとしていたとっておきの好物を土壇場でかっさらわれちまった、って感じか。
「お前、許さない」
「へっ、何だ。文句でもあるってのか?」
「殺す」
そう言うと野郎はオレへ向かってナイフで切りかかる。
怒りに身を任せたのか、大振りで雑な攻撃。難なく右手刀で弾くとカウンターの左肘を胸部へと叩き込んでそのまま前へと押し込む。野郎は「ゲホッ」と咳き込みつつ、後ろへよろめく。正直言って隙だらけだったが、追い打ちはかけない。かけるまでもねェ。
へェ、そうか。そうかい。かかってこいよ。殺しに来てみろ。
「ッッッ」
不意に光が視界を覆った。まるでフラッシュライトのような眩い強烈な光量の光が目に焼き付いた。成る程な、……確かに何も見えやしねェ。不意打ちにゃもってこいってトコか。
でもな。
「死ねッッ」
生憎この程度の小細工じゃ意味はねェよ。
だってよ。
テメェ、ソコにいるのがバレバレだぜ。
「しゃあッッ」
迷わず拳を前へ突き出し、叩き込む。手応えあり。多分、顔面だ。
「グヒャッッ」
カエルみてェな潰れたような声とずざざ、と地面を擦る音。倒れずに踏み留まった、ってトコだろうか。
ざざ、と土を蹴る音が聞こえ、迷わず左足を前へと蹴り出す。
「かっ」
今度も手応えあり。ざざざざ、という音は倒れ込み、転がった音だろう。
さて、これで野郎にも分かったはずだ。バカ正直に真っ正面から向かっても返り討ちに遭うってな。
きっと戸惑っているはずだろうよ。目潰しされて、視界が失われているはずなのに、何故だって。
ンなこたぁ簡単だぜ。オレにゃ分かるのさ。
「ああああああ」
叫び声、或いは雄叫びかは分からねェが耳障りなコトこの上なし、だ。ああ、確かに今ので野郎の位置なら分からなくなった。考えなしってワケじゃなさそうだ。そりゃそうか。ンな辺鄙な場所で狩人の真似事してる位だ。全くのバカなワケはねェわな。
「…………」
で、野郎の動きは止まった。狙ってやがる。
まだ視界は戻らない。あと数秒はかかりそうだ。つまりはその間で仕留めに来るってワケだ。集中しろ、すぐだぞ。
ガサガサ。
ざざ、ざ。
ざっざっざっざ。
「ッシャアアッッ」
その場にて左足を踏み込み、何の迷いもなくオレは右拳を虚空へと突き出す。
次の瞬間、拳には確かな手応え。ピシピシ、と何かが割れたような音も聞こえる。
「ぐはっっ」
呻き声がして、ダン、と何か大きな堅いモノに衝突したような音がした。
「ン、──」
ようやく真っ白に焼き付いた視界が戻っていく。まだまだ朧気ながら状況が明確になっていく。目の前には野郎がうずくまっている。ゴホゴホ、とせき込んでいる様子から、さっきの一発で寄りかかっている大木の幹に背中を強かにぶつけたらしい。
どうした? そンなモノか?
そンなコトを思いつつ、様子を伺っていると、十秒程してようやく立ち上がる。
とは言え、上手く力が入らないのか、足元がふらついている。
目を凝らして見れば、野郎の付けている妙チクリンな仮面に亀裂が生じてる。
「お前、……誰だ?」
野郎は今更なコトを訊ねてきた。
仮面越しのせいだろうか、声が弱冠不明瞭ながらも、トーンから明らかに困惑してるのが分かる。
困惑、ね。そうかよ。そりゃさぞかし困惑してるンだろうさ。きっとこう思ってるコトだろうよ。何だコイツ? 何でここにいて、自分は何でこうなった、ってよ。へっ、ンなこた知るか。
お前もオレと同類ならよ。当然ながら持ち合わせてるよな?
ちぃとばかし考えりゃ分かるハズだぜ?
ああ、待ち合わせちゃいねェのか。それももっともな話だ。
何せ、自分にろくすっぽ刃向かうコトも出来ねェ女を嬲るようなクソ野郎なンだからよ。
じゃあ、教えてやるよ。拳に焔を揺らめかせ──。
「燃えちまいな」
野郎の顔面へ叩き込む。
「ヒャギッッッ」
今度こそ仮面は砕け散り、見えなかった顔が露わとなる。
そして俺の拳と共に送り込んだ焔がクソッタレの体内を駆け巡り、踊り出す。本気じゃねェからホンの一瞬だけしか味わえなかっただろうが、どうだよ、ン?
「逃げられると思ってンのかよ」
「ぎゅば」
明らかに怯んだ野郎の懐へと飛び込み、拳を突き上げアゴを一撃。軽いぜ、お前。
どうせいつも狩人役ばっかしてたンだろ? なら、たまにゃ獲物役もしとかなきゃな。
もっとも、今回でくだらねェお楽しみは終わりなンだけどな。
野郎は「はああっっっ」と呻きながら宙を舞い、そのまま無様に地面を跳ねる。
「う、ぐ、お、あ、あああああああ」
今ので今度は全身から蒸気が噴き出すのが見て取れた。くっだらね。この程度か。
「────」
オレはもがき苦しむ野郎に背を向けるとゆっくりと歩き出す。
見え見えの誘い、ワナだけどコイツが思ってる通りなら。
「ざけるなぁ……俺以外は全部獲物だ」
ああ、きっと。
「許せるものかよぉぉぉぉ」
ま、こうなるワケだ。
すぐさま振り返ると、まるっきりケダモノみてェな顔をした誰かが手を伸ばすのが見えた。
「──へっ」
左手刀で軌道を逸らし、左足を思い切り踏み込ませ──勢いを付けて燃える右拳を放つ。
「激情の初撃」
ンで隙だらけのクソッタレの鼻先へ向け十八番をめり込ませた。
「………ッッッ」
野郎は一度ぐらりとよろめくと、そのまま力無く膝を着く。まさに糸の切れた人形、って表現がピッタリだろう。呆気に取られたような顔をして、焦点の合わない目でオレを見て、「ッッッ」と突如として全身をぶるっ、と震わせた。
「ば、バケモノ」
歯をガタガタと鳴らし、辛うじてそう言うのが分かる。
あ? 何言ってンだ? ンなモン最初から分かってなかったのかよ。
苛立ち混じりに睨むと、野郎はさらに身を震わせ始めた。
コイツは、何の覚悟もなかったワケだ。殺される覚悟だけじゃねェ、自分がもう違うモノになってたっていう事実すら分かっちゃいない。そうかよ、もういい。
「失せな」
その言葉がキッカケにでもなったのか、野郎の全身から焔が噴き出す。一瞬にして火だるまとなり、そのままあっという間に消し炭になっていく。イヤな臭いだぜ全く。いつまで経っても慣れやしねェよ。
ああ、そうだ。後始末しなきゃな。幸いにもさっき駆け抜けた森から火の手は上がっていない。ココの始末さえつきゃ大丈夫だろうさ。
「くだらねェ」
空を、月を見上げてオレはそう呟いた。