トーチャー
「……………………」
最初はただいつもとは違う刺激が欲しかった。ただそれだけの理由だった。
街を彷徨くのは好きではない。ドロップアウトの奴等とは違うのだから。
それを買ったのは、ほんの偶然だった。何の変哲もない普通の店。そこに置いてあったんだ。
確かそこにはこう紹介されていた。
嫌な日常からの解放。
何て事のない普通のメッセージだ。
単なるビタミン剤と一緒に陳列されているし、これもそういったサプリメントの一つなんだろう、……とそう思った。
値段だって特に高い物じゃなかった。
だから何の気なしに買ったんだ。
その日の夜のコト。
で、いつもの様に夜の勉強をした後に、ミネラルウォーターでその錠剤を流し込んだ。
何かが違った。
身体を何かが駆け抜けるような感覚。それから溢れ出す何か。
それは自分が突然に激流に流されているのかと思う程で、思わずパニックに陥りそうだった。
うずくまってただひたすらに、ただ早くこの感覚が抜ける事を祈った。
「う、うん」
気が付くと窓からは朝日が入って来た。
昨晩はどうやら眠ってしまったらしい。
驚いた事に身体の調子はすこぶるいい。
こんなに身体が軽く思えるのなんて一体いつ以来だろうか?
柄じゃないけど、今からジョギングでもしたい気分だ。
時間は朝の五時半だし、外は涼しいだろう。
なら、善は急げ、だ。
……………………。
「じゃ、行ってきまーす」
そう玄関で声を出すと僕は外に走りに出た。
今日は最高の一日になる、何故だかそう僕には確信があった。
だって、僕の手はこんなに血で塗れているのだから。
何故って、家の中はまるで竜巻でも起きたみたいに、何もかもがズタズタになっていたのだから。
ずっと僕の人生の汚点だった父も、その父を庇っていた母もそこで動かなくなっていたノダカラ。
コレデボクノジンセイはバライロナノダカラ。
◆◆◆
「調子はどう?」
歌音は、相手に声をかけると自販機で買ったばかりのホットコーヒーを投げて寄越す。
「まーまーかなぁ。カノンはどうなのさ?」
相手の少年は瞼を半ば閉じている。髪の色は緑色で耳には無数のピアスが付いている。ヒョロリとした少年で、中性的な顔立ちであり、傍目からは女の子にすら見える。
今の様子はふあーあー、と欠伸をしており、如何にも眠たげだ。
ここはWD九頭龍支部の所有する物件。所謂マンスリーマンションの一室だ。
そこにあるのはキッチンにトイレに、あとはバスユニット位の物で、元々備え付けであったであろう様々な物を取り払っている。
無理矢理に広げた場所の床にはびっしりと青いビニールシートが敷き詰められており、その中心には一脚のパイプ椅子。
そして、目を覆われ、口には猿轡を噛まされたリュウが手錠を手足にかけられていた。
ここではおよそ二時間前から”尋問”が行われている。
その担当が歌音が今、話しかけている少年だ。
彼の名は”トーチャー”つまり”拷問”。
勿論、それは本名ではなく、WDエージェントとしてのコードネームである。
トーチャーはその名の如く、主に拷問による情報収集を担当するエージェントであり、今回の場合はまず相手がどういった経歴なのかを調べる事から始めた。
まずは気を失っていたリュウに冷水をぶちまけ、目を覚まさせる。そしてそこで改めてフィールドを展開。その反応を見たらしい。
歌音は正直言って、この同僚の事が嫌いだった。
この一見すると普通の中高生の少年がWDに入ったのは今から五年前、歌音よりも二年早い。
その当時九頭龍で起きていた連続殺人の犯人、それが彼の正体。
WGに確保される前に九条羽鳥が彼に接触。WDに所属し、エージェントになったのだ。
彼の事件の手口は見るも無惨な物だったらしい。
WDには様々な経歴を持ったエージェントや協力者がいる。
そしてその中には犯罪者もいる。
彼らは表社会では最早生きていけない。
例えば、目の前にいるトーチャーの場合、彼は少年院で他の受刑者の少年に殺されたという事になっており、文字通り”存在”しない人間である。
だがこれは別にWDに限った事ではない。
対立するWGについても似たような例はあるし、それは欧州を拠点とするギルドも、他のマイノリティを擁する組織も同様だ。
マイノリティになる、という事は大なり小なりもう普通の社会には戻れないという事なのだ。
組織に所属した段階でそれまでの経歴が抹消され、白紙になる場合もあれば、一部の修正で済む場合もある。要はある意味運ともいえる。
(だから私はまだマシなんだろうな)
決して幸運な身の上ではなかった桜音次歌音という少女だが、今、彼女は星城凛、というもう一つの自分を得て、一般社会にも関わっている。勿論、結果として色々な誓約が存在するし、理不尽に思う事だってある。
だが、自分はまだ恵まれてる。
そう、少なくとも目の前で缶コーヒーを飲む同い年の少年エージェントに比べれば。
「んじゃ、ボチボチ続き続きっと♪ カノンは出ていった方がいいよ」
「そうさせてもらうわ」
トーチャーはひと心地付いたのか、さっきよりもややテンション高めでストレッチをしている。
その間に歌音が部屋から出ていく。
それを待っていた様に、すぐに悲鳴があがる。
今度は猿轡は外した状態で行うつもりらしい。
「ぐぎゃああああああああああ」
聞くに堪えない程の叫びは絶叫となり外にまで轟く。
これはトーチャーが自分の仕事を”楽しんでいる”証左だ。
彼がそのつもりであるのなら、もうとっくにリュウとかいう男から必要な情報を聞き出す事は可能なはずだ。
それをこうしてダラダラと続けているのは、これが私事だからに他ならない。
何故なら、このドラッグに関する調査は基本的に身内にも極秘で、という九条からのお達しだからだ。
トーチャーは基本的に、普段は仕事をしないエージェントだ。
持っている技能は尋問にこそ有効であるから、平時に出番はないのがその常だ。
彼もまた九条羽鳥直属のエージェントであり、彼女からしか任務を受けない。
その辺りは、歌音であり、零二も同様だ。
だが今回は歌音からの依頼だ。別に命令でも何でもない。報酬もない。
それで彼は今、依頼よりも自分の”楽しみ”を優先させているのだろう。
実に不快な”音”だった。
なまじ常人よりも優れた聴覚を持っている事が今、まさに悔やまれる。彼女にはあの壁の向こうで起きているであろう事態が文字通りの意味で目に浮かぶ。
音で何が起きているのかが分かる。
今、トーチャーは相手の指の爪を剥がしている。ペンチでゆっくりと薄皮を剥がす様に慎重に、慎重に。
相手の息遣いからは、恐怖が伺える。
つい数時間前まで、彼は街中で人生の絶頂の気分だっただろう。
それが一転、今や拷問を受ける立場になってしまったのだから。
しかも相手は明らかに自分よりも年少の少年だ。
その少年は、クスクス、と笑いながら嬉々とした笑顔を浮かべている事だろう。
ビイイイイッッ。
トーチャーがいきなり爪を無理矢理に剥がしたらしい。
そうして悲鳴があがった。
間違いない、トーチャーはわざわざ自分に聴かせているのだ。
本当に悪趣味極まりない。
そう歌音は思わず溜め息をついた。
ちなみにこの拷問による絶叫だが、マンションの住人から苦情が来る様子は一切ない。
何故なら、このマンションは端的に言えば、……犯罪者の巣窟だからだ。ここに住まうのは表社会からつま弾きにされた者のみ。
そうして、このマンションのいわば名代なのが、あの壁の向こうにいる少年という訳なのだ。
騒音対策という意味ではここの立地がそうだ。
ここは周囲に民家がない。
その上に隣接するのはセメント工場。
勿論、普通の工場ではない。
ここは表沙汰に出来ない遺体を処理する為に存在しており、そしてこのマンションの住人はその処理を行うのが仕事である。
(全く、無駄のない事ね。……九条さん)
そうして、どの位の時間が経過しただろうか。
ガチャリ、ようやくドアが開かれた。
そこにはいつの間にか真っ赤に染まったエプロンを付けたトーチャーが満足そうな笑顔を浮かべている。
そして、「待たせたね、聞き出したよ♪」と、歌音が心底嫌気を覚える様な、底抜けに明るい声を発した。