魂と尊厳(Soul and dignity)その5
明くる日の放課後。時刻は間もなく十七時。空を見上げれば、徐々に秋になっていく事を示すように日がゆっくりと落ち始めていく。大部分の人にとって、今日もまたいつも通りの何の変哲もない一日だろう。
九頭龍駅より六駅程離れた所にあるその駅は、所謂ベッドタウンとしての役割を持っており、今日も通勤通学の為に大勢の人が行き来する。ある人は電車で、またある人はバスに乗り降りする姿はまるで働き蟻のようにも見える。零二は駅構内にてそんな事を思っていた。頬をぷっくりと膨らませているその様は強い不満の表れだろうか。
「ハァ、何でこうなった?」
──何でも何も依頼を選んだのはそちらだったはずだけど。
「うっ」
歌音の音が容赦なく突き刺さる。そう、この仕事を選択したのは他でもない零二自身。それは分かっている。分かってはいるのだが。
「…………ハァ」と思わず洩れた溜め息混じりの言葉の訳、それは零二の今の装いにあった。黒い学生服に黒縁眼鏡、おまけにその髪だが、いつものツンツンとしたそれはへちゃり、と寝ており、何というか情けない。
──にしても、……似合わないわね。
「るせェよ」
合流早々にその髪じゃ駄目だって言って、ベタベタとワックスとか何とか付けたのは誰だ? と零二は強く抗議をしたかったが止める。確かに今回の依頼内容としては普段の自分では問題があるだろうとは思うからだ。
「にしたってよ、ホントにホントかよ?」
改めてスマホを取り出すと、依頼内容を再確認する。その内容はこうだ。
『最近、駅周辺で何度も恐喝された。警察に相談したけどそれでも被害が止まらない。どうか恐喝してくる奴を懲らしめて欲しい』
要するに多少の荒事込みの案件。だからこそ零二は選んだ。他の依頼だと家出した飼い猫を探して欲しいとか学校で最近噂になっている怪談話の確認だとか、まるっきり子供の使いのような内容ばかり。こんなしょうもない依頼ばかり回してくる警察だとか探偵事務所の悪意すら疑うレベルだったのだ。
──さぁどうだか。正直分からない。
歌音としてもこの依頼内容には思う所はあるのだろう。ほんの僅かではあるが、不満のようなモノが零二には聞こえたように思えた。
「まぁ、とりあえず前金は貰っちまったワケだし、働かないといけねェわな」
既に指定の口座には金が振り込まれており、今更断るというのは今後の事を考えれば良くない。なのでお世辞にもやる気があるとは言い難くとも、仕事はこなさなければならない。以前の、勝手気ままだった頃の彼を知る者からすれば、それだけでも大きな成長だっただろう。仕事内容自体は至って単純だ。おイタをする馬鹿を懲らしめればいいだけ。問題があるとすれば、釣り餌となる零二そのものだろう。
──いい? 如何にも弱そうな感じでいて。間違ってもいつもみたく周囲を威圧しないで。
「…………」
──返事は?
「ハイハイ」
生返事を返してはみたものの、正直どうすればいいのかよく分からない。威圧感とか、そんなもの出してたっけ? 首を傾げつつ、とりあえず大人しくしてればいいだろ、と周囲へ視線を巡らせていると、しばらくして突っ込みが入る。
──馬鹿なの? あんた?
「ば、バカだとぉ」
吐き捨てるような冷ややかな言葉を浴びせられ、思わず壁を蹴って周囲を見回す。
「バカとは何だ、ン?」
──あのね、今あんたは何なの? 武藤零二じゃないのよ。
「────ン?」
──いい? 今のあんたは九頭龍学園の武藤零二じゃなくて、進学校の生徒。それも如何にも恐喝されそうな感じの生徒なの。何でそんな奴が周囲を見てるの?
「ハ? ンなモン見なきゃ分からねェからだろ。怪しいヤツを見つけて、とっ捕まえるワケだしよ」
──馬鹿。それが余計なの。見つけるのはあんたじゃなくて向こうでしょ? わざわざ周囲を見回して、警戒してますよーなんて教えてどうするの?
「…………ああ、なーる」
確かに、と思わず頷く。この手のタチの悪い奴からすれば、獲物はチョロい方がいい。強そうな奴よいも弱そうな奴を。付け加えるなら、油断なく周囲を伺っている相手よりも無警戒な相手を。だからこそ、だ。
──あーあ。だから言わんこっちゃない。出たわよ。
「ソイツは悪かったよ、……で?」
──あんたから二十メートル位。
相手が狙ったのは零二ではないのは当然の帰結だったのだろう。
ただもっとも。
「あいよ、了解」
だからと言って別に問題はない。相手さえ見つかればそれでいいのだから。
◆
駅構内にあるトイレ。入り口には清掃中という看板が置かれ、誰も中に入ろうとはしない。だがそこには二人の姿があった。
「や、やめて」
怯えた声を出すのは如何にも気弱そうな小柄な少年。その顔からは幼さが抜け切れておらず、着ている学生服もサイズが大きいのかブカブカしている。そんな彼だが、現在窮地に立たされている。
「ああ?」「ひぃっ」
思わず自分でも情けない、と思ってしまうようなか細い悲鳴をあげる。
だが仕方ない。目の前にいる相手はどう見ても不良だ。髪の毛はきちんと剃り上げているのか丸坊主。おまけに眉毛もない。目元はサングラスで隠れていて、下唇にはピアス。体格だって自分なんかよりずっと大きい。一八〇はあるだろう。まるで巨人にすら思えた。
「ち、しけてやがるな。これっぽっちかよ」
吐き捨てるような言葉と共に少年の財布を投げ捨て「ったく、これじゃゲーセンにも行けねーな」と苛立ちを隠す事なく、ペッと床に唾を吐く。
「や、やめて。何で、」
今更ながらに恐喝事件について、学校でも言っていたのを思い出す。怖いな、とは思ってた。でも少年にとって見れば、まさか自分がこんな目に会うだなんて夢にも思っていない。今日に限って友達と一緒に帰らなかったのが悪かったのか、それともそんなのは関係ないのか。考えても詮無き事だとは分かっていてもつい考えてしまう。
「なぁよぉ、お前」
丸坊主の不良は怯える少年の威圧するようにバン、と大袈裟に音を立てて壁に手を置く。効果は抜群だったらしく、哀れな相手はその音に驚いたのか、ビクッと身を震わせ、その顔は青ざめている。
「金用意してくれないかなー」
こいつは押せば何とでもなる、そう思った不良は内心でほくそ笑みながら、顔を近付けて睨み付けてみせる。
「でも、これ以上は……」
「だからさー、持って来いっつてんだよ、分かるぅ?」
今にも失禁しそうな様子の少年を見て取って、不良はもう一押しすべく言葉を紡ごうとしたその時だった。
バァン、と大きな音を立てて、トイレのドアが開かれ、不良が反射的に「ああん」と入ってくる馬鹿を威嚇すべく睨む。
入って来たのは、このビビりのガキと同じ学校の制服を着た学生。
「あ、」
何とも間の抜けた声だった。マズい場所に来てしまった、という事がバレバレ。つまりはいいカモという事。少なくとも丸坊主の不良はそう判断。壁際に追い込んでいた少年から新たな獲物へとその視線を向ける。
「おい、テメェ」
「…………」
返事はない。だが逃げ出さない。
「テメェだよテメェ」
「…………」
またも返事はない。普通であれば逃げ出そうと試みるはずだがその様子もない。きっとビビった挙げ句に、どうすればいいのか分からない、放心状態なのだろう。
ならば、と丸坊主の不良は新たなカモへとにじり寄ると手を伸ばして袖を掴む。
「おい──」
「ハ?」
一瞬の事だった。丸坊主の不良は瞬時に全身に震えが走るのを実感した。
「おい、テメェ調子に乗るンじゃねェぞ」
まるで地の底から響くような、ドスの利いた声。それ以上にまるで野生の獣を思わせるような強烈な視線が突き刺さる。
「ひ、ぃ」
最早、丸坊主の不良は理解せざるを得ない。自分が手を出した相手が本当にヤバい奴だったのだと。腰が抜けたのかその場にへたり込み、ただ相手を、零二を見上げるのだった。