魂と尊厳(Soul and dignity)その1
周囲に広がるのは暗闇とただただ鬱蒼と生い茂った木々のみ。それらが月明かりすら遮っているのか、彼女は足下も覚束ないままに懸命に走る。
「い、はぁ、は」
そしてその後ろ姿を見つめるモノがいる。
「いいねいいね」
嗤いながら彼女を追うその誰かの声と、草木を踏みしめる足音。
その手に握ったサバイバルナイフはうっすら赤く染まっており、刃先からはポタポタと赤い雫が落ちている。
「…………ち」
舌打ちを一つ入れる。少しばかり調子に乗っていた為か相手を見失ってしまった。女性、即ち今夜の獲物はどうやら息を潜めたらしい。
ここは薄暗いというより、暗闇そのものな森の中だ。文字通り一寸先は闇といった視界の悪さも相まって、動きを止められたのでは探し出すのは困難だ。金があれば暗視装置でも使った方がいいのだろうが、それでは何とも味気ない。それに誰かは慌てない。この程度の事は別に初めてではない。こういった場合の対処など簡単だ。
すう、と息を吸い込み、そして一気に吐き出す。
「逃げろ逃げろ逃げろぉ。それとも逃げる気力もないのかぁ? だったら次は腸をかっさばいてやるぜ」
女性の耳に届くように声を張る。
ザシャ、と向こうの茂みから何かが飛び出すような音がした。
「そこかぁ」
狙い通りに獲物が逃げ出し、誰かは歯を剥く。
そうだ。狩りの獲物は活きが良い方がいい。自分の言葉に、さっき腕を切られた恐怖が蘇ったのだろう。冷静に考えれば、その場に身を潜めていた方が生き残れる可能性は高いのだが、そこは誰かが上手く恐怖を煽ったというべきだろう。
「は、は、はあっっ」
耳を澄まさずとも獲物の息遣いが聞こえる。静まり返った森の中で聞こえるのはただ草木を踏みしめる音と、荒くなっていく息遣いのみ。思った以上に逃げられてはいるが、ここは勝手知ったる庭のような場所。逃げ出して助けを求めようにも民家などは周囲になく、連絡を取ろうにも予め携帯は没収している。
「ふ、はは、くははは」
つまりはここに助けなど来ない。狩猟者たる自分と獲物のみ。仮に朝になったとしても、まずここに人は来ない。だからこそここは最高だ。
「どうしたどうしたぁ、足が重いのかぁ?」
獲物は今頃何を思っているだろう。
恐怖に押し潰されそうになっているだろうか? それともどうしてこんな事に、と自分の身に降りかかった理不尽に飲み込まれそうになっているだろうか? 或いはもう何も考えられなくなってしまっただろうか? 何だって構わない。やがて来るその時になれば分かる事だ。
靴もない素足のまま逃げ回っているから、地面の石やら枝やらで切って、足は傷だらけだろう。痛いだろう、苦しいだろう。それともそれすらも麻痺してしまったのだろうか? ああ、何だっていい。その時になれば分かる事だ。
そして終わりの時は唐突に訪れる。
「あっ──」
ガササ、という音は女性が転んだ事を意味する。誰かはナイフを回しながら歩み寄る。威嚇というよりは煽る為の行為。だが、彼女には効果はあったらしい。
「いや、ッッ」女性は自分へと迫る誰かに向けて叫ぶ。
「くはは、そっかそっか」誰かは嗤う。
どうやら今日の獲物は恐怖に押し潰されたらしい。
「やだ、やめて……」
必死に懇願している。死にたくないのだろう。
「くはは、っっ」
強烈な光が誰かからの返答。腰に下げていた米軍仕様のフラッシュライトで目潰ししたのだ。真っ暗闇からのこの光量。おまけに不意を付いた。確実に視力は損なわれたはずだ。
「あ、ああああああ、っっっ」
獲物は目を抑え、悶え苦しんでいる。逃げ出そうにも何も分からない。手や足を動かして周囲の状態を確認するしかない。
「やだ、やめて」
潰れた目から涙を流し、鼻から鼻水まで流す。口から涎やら唾を出して必死に懇願している。
「ああ、最高だ」
誰かは再度破顔。ゆっくりとした動作で彼女を跨ぐ。腰を落として逃げられないようにすると、ナイフを構えて──突き立てた。
何度も何度も何度もナイフを突き刺す。返り血で自分の視界も良くわからない。ただただ肉を突き刺し、引き抜く事だけを繰り返す。
最初こそ何やら声を張り上げていた獲物だが、もう、何も言わなくなっている。多分何度目には死んだのだろう。だがまだだ。
「くはは、っっははっ」
飛び散る血はまだ温かい。まるでシャワーでも浴びているかのように肌を濡らしていく。
そうだ。獲物は新鮮な方がいい。そしてその肉が硬くなるまで堪能し、血が冷たくなるまで、じっくりと味わう。それが狩りのルール。
これでしばらくは我慢出来るだろう。次の狩りまでに新しい獲物を見繕わないといけない。ああ、考えるだけで楽しみだ。