気分転換(for recreation) その5
同時刻、WG九頭龍支部。
美影との通話を終え、一息付こうとコーヒーを啜っている林田へ、副支部長の家門恵美が話しかけた。
「で、どうだったの?」
勿論、話題は美影への襲撃だ。この件は大した被害もなく、諸々の後始末も簡単に終わった。表向きには試験投入中の無人バスのプログラムに問題が見つかった為、という事になる。
「うん、さっぱりだねーーー」
文字通りお手上げとばかりに両手を大きく掲げ、あーあ、と眠そうにあくびをする。何せこの丸二日間仮眠もしてないのだ。
「そっちはーーー?」
「こちらも駄目だったわ」
家門もまた、丸二日間完徹している林田程ではないにせよ、疲労を感じている。
「美影を斧で襲ってきた相手だけど、彼は単なる一般人の暴漢だった」
パサ、とテーブルに投げ出された紙の資料には、あの男についてのあらゆる情報が乗っている。
「それも特に何の前歴もない善良な市民、……か」
「そ。これまで犯罪に全く無縁のねーーー」
男の経歴には、特に目立つ部分はない。飛び抜けて善人ではないのかも知れない。だが決して悪人ではない。ごくごく普通の人生を送っていたはずの人物。少なくとも昨日までは。
「凶器の斧だけど、家の近所にあるキャンプ用品店で買ったってさーーー」
「怪しまれなかったのね」
「うん。普段からアウトドアに勤しんでいて、週末はキャンプとかしてたみたい。だから斧も新調するのかな、って店の人も思ったってーーー」
考えれば考えるだけ、疑問が膨らんでいく。
間違いなく裏にいるのはマイノリティ、それも精神干渉、洗脳系のイレギュラー持ちだろう。バスの暴走の件も偶然ではなく、意図して起こしたのも間違いないだろうから、単独ではなく複数犯の可能性が高い。つまりは組織化された相手による犯罪なのだが。
「一体、何がしたかったのか、ね?」
一番の疑念は、まさしく家門のその言葉に尽きただろう。
わざわざ無人バスを乗っ取った上での襲撃。ただしその実行犯は一般人。マイノリティ、戦闘訓練を受けた美影には到底及ばない相手。
「何かしらの予行練習? いいえ、違うわね」
家門はこの一件の裏に、得体の知れない悪意を感じ取っていた。
◆
「で、あんなんで良かったのかよ?」
いかにも気だるそうな声が狭い室内に響く。
「遊びにしたってもっといいやり方っつうの? そうじゃねぇの?」
言葉遣いは乱暴極まりないが、その声は甲高い。少年、いや小柄な女性だろうか。
「っつうかよぉ、わざわざおれっちを雇う仕事か?」
ガタンと椅子から立ち上がるその人物だが、まず目を引くのは明らかに染めたであろう派手な赤毛のドレッドヘア。首や手首に無数のシルバーアクセサリーを付けていて、ほんの少しの動作の都度に、それらがジャラジャラと音を立てている。
「これでも仕事にゃ拘りってのがあるんだぜ。わかる?」
と苛立ち混じりに相手へとまくし立てる唇には、これまた無数のピアス。着ている服は上下共に黒であり、シャツには鎌を構えた死神がデザインされている。
それに対し、「あら、今回のはサービスじゃなかったの?」と言葉を返したのは、その紫色の髪は毒の花を思わせ、瞳の色は銀色。まるで人形のように整った、可憐な少女の姿とは、不釣り合いな低い声音をした女。つまりはミラーカである。
纏っている漆黒のドレスは、文字通りの暗闇を連想させる色合いをしており、人の不安を増幅させるかのような印象を与える。
「ワタシとしては試用期間だったかしら、そういう感じだったのだけど」
「いやいや、おれっちの腕なら知ってるはずだぜ。WDの、仮にも上下階層ならよ」
「ええ。有名だものね【幽霊】さん」
「あんまし良い響きじゃねぇよなぁ。誰が言い出したかは知らねーけど」
この赤毛ドレッドヘアの女性こそ、WDのみならず世界でも屈指のクラッカーと噂されるゴースト。本名不詳、年齢不明、どういった経歴なのか、一切の記録を自分自身で消去。まさしくこの世界に存在しない幽霊である。
「ま、存在しない人間だから文句を言おうにもどうにもならねーってか」
足元に転がっていたペットボトルを蹴り飛ばす。まだ中身が入っていたらしく、ゴロゴロと転がりながら床を汚していく。
ミラーカは足元へと転がってきたペットボトルには目もくれずに、およそ人とは思えぬ鋭い視線を相手へ向ける。
「それで、ワタシの保護を受けるの? あの女の後ろ盾がなくなって以来困ってると聞いたけど?」
彼女は知っている。目の前のクラッカーもまた九条羽鳥という庇護の元にあったのを。とびきりの異常者のみが集った上部階層の中でも際立った変人だった自称平和の使者とかいう彼女が、零二にせよそこのクラッカーにせよ、様々な人材を保護していたのを。
「まぁ、羽鳥のヤツがいなくなっちまったんで何かと不便なのは事実だよ」
幽霊とは言え、この世界で実在している以上、痕跡は残る物だ。如何に映像やらデータは改竄出来ようとも、それでも消せないモノもある。それらに対処したのがあの癪に障る女だった事を。
「──ええ、でしょうね」
だからこそミラーカには確信がある。今、そこにいる幽霊は自分の庇護を求めている筈だと。そうでなくては危険な事態に陥るのだから。
詳細は知らない。だが、おおよその見当なら付く。武藤零二が良い例だ。あの少年は様々な連中の思惑によって命を脅かされている。彼自身がどう思うかなど関係ない。白い箱庭とはそういった連中が運営していた場所なのだ。もっとも目の前にいる彼女は白い箱庭そのものには一切関わりないのだが。
「ワタシと手を組むしか道はない」
かく言う自分もまた箱庭の出資者の一人。
だからこそ、あの計画にも強い興味があり、出資した訳だし、二ノ宮博士が行方不明となった今、頓挫した格好の計画を進める為に、要たるパペットの身柄も押さえたのだ。
「あまり待たせないでもらえないかしら。ワタシを味方に付けるか、敵に回すのか? 今すぐに決めなさい」
その銀色の目がまるで刃のように鋭く細められる。回答如何で即座に殺す、という有無を言わせぬ意思表示である。
普通の人間、神経をしていれば或いはこの視線だけで死人すら出ていたかも知れない。
「まぁ、ちょっと考えさせてよ」
だが、幽霊と呼ばれる女はそんな細やかな精神の持ち主ではない。九条羽鳥の庇護を受けるまでずっと厄介な相手に追われ続けて来たのだ。庇護は欲しいが、決して自身を安売りするつもりなどない。
「…………」
幽霊がミラーカへ視線を巡らす。少しでも機嫌を損ねれば間違いなくここで死ぬだろう。興味のなくなった玩具でもそうするかのように、いとも容易くに。命を散らすだろう。
(はは、コイツぁヤバい。思ってた以上にバケモノだ)
九条羽鳥と対面した時、感じたのは底の知れなさだった。何処までも底が見えず、向こうからは全て見透かされているような気味の悪さ。何処までも深く沈み込むような底なし沼のような感覚。
自分が何をしようともお構いなし、先手を打たれて手詰まりになる。そういった感覚を覚えた。仮に敵対したとして、彼女にその気がなかったとしても、傍に仕えるシャドウに殺される。あの男なら眉一つ動かさずにそうするに違いない。だからこそ素直に庇護下に入った。
(ああ。コイツは単純にバケモノだ)
目の前にいる相手は底なし沼ではないだろう。そこにいるのは純粋な怪物。上部階層と云われる最強最悪の怪物の中の怪物に名を連ねるモノ。
強い弱いで例えるならば間違いなく強い。だが幽霊の背筋に走るこの寒気は、相手の強さに怯えたからではない。
その銀色の目に宿る光は好奇心だろう。思えばミラーカは、この場で対面した最初からそうだった。
(コイツにとっちゃおれっちもオモチャでしかねぇってこった)
彼女? にとっての判断基準は面白いかどうか、好奇心を抱けるかどうかだけなのだ。面白いと思えば援助もするが、逆なら。
表情こそ変えないが、背中を冷や汗が流れていく。何とも不快だ。
「さぁ、答えてくれる? アナタはワタシのモノになるの?」
鋭利な刃のように鋭く細められた目はまるでケモノのよう。幽霊は決めた。というよりも決めるしかなかった。
「わーったよ。おれっちはそっちの下に入るぜ。他に選択肢なんざないし」
お手上げだった。高く見積もらせようとかどうとかそんなのが馬鹿馬鹿しくなる。何せ、あの紫色の髪をした少女は純粋な怪物なのだから。九条羽鳥という理性の塊そのものとはまるで真逆。剥き出しの好奇心という感情の権化なのだから。
「そう。良かったわ。だってアナタを壊さずに済んだものね」
少女の皮を被ったモノはニコリと笑顔を浮かべた。