調査
(現在)
ブシャッッッッ。
何度耳にしても不快で嫌な音だ。
肉が潰れる音。
この音は何度耳にしても、慣れる事が出来ない。
それが自分でやった事の結果であっても慣れない。
「はぁ、あーあ、面倒くさい……もう嫌だ」
桜音次歌音は一人呟く。
この後ろ向きな言葉を、これ迄一体幾度呟いた事だろう。
そして考える。
自分がWDに所属、正確には預けられてからかれこれ何年だろうか、と。
彼女がWDに預けられた理由については正直よく分からない。
実家を出た、追い出されたのか、それともあの防人に引き取られたのかその経緯はよく分からないし興味も無かったが、八歳になったばかりの彼女は気が付くと星城家の養女になった。
そこは極々一般的な家庭、なのだろう。
家族構成は夫妻に子供が一人。男の子で年齢は十一歳。
彼女はそこに家族として入る。
不思議な事に突然、よその子供が……辛辣な表現なら異分子が入り込んだのに、いきなり家族の一員になったというのに、何の問題も起こらなかった。
その理由はこの星城家の人々の心根の優しさに加え、彼女を引き受けた防人の持つイレギュラーの行使による結果である事を最近になって知った。
何はともあれ、彼女にはようやく居場所が出来たのだ。
(その代償として、これか)
ふう、とため息をつく。
彼女のイレギュラーはほぼ無音で相手を倒す事が出来る。
一種の音波兵器を扱う彼女の攻撃は、通常の手段では視認不可だ。
つまりほぼ無音での一方的な破壊及びに暗殺が彼女には可能だ。
その為に彼女に与えられたのは、標的の始末。
もっとも、相手は毎回決まっており、彼女が狩るのは怪物と化した者のみ。
それが九条羽鳥と桜音次歌音、正確には歌音の身元を引き受けた彼との契約条件らしい。
彼と九条羽鳥の関係は正直よく分からない。
本来であれば防人とは敵対しても不思議ではないWDの、それもこの九頭龍に於けるトップである九条と、それなりに発言力はあるそうだが一介の防人の青年との間には、余人の伺い知る事の出来ない事情があるのかも知れない。
(でも、しょうがないか。私に出来るのはこんな事位なんだし)
今日は四月五日。
春休みもいよいよ終わりが見え始めたこの日。
彼女は、桜音次歌音はここ数日密かにある任務を受けていた。
◆◆◆
「貴女にはある【ドラッグ】を追いかけて欲しいのです」
九条羽鳥はそう言いながら、資料を表示した。
そこには九頭龍で先日起きた青年達の死亡記事。
(たしか、日刊で読んだわね)
歌音は星城家に住み始めてから、新聞を読む習慣がいつの間にかついた。父である星城清志が証券会社に勤めている、という事もあってか星城家ではいつも三つの新聞が投函される。
地元紙と全国紙と経済新聞の三つだ。
何でも複数の新聞に目を通す事で、世の中の関心が何処に向かっているのかが顕在化させやすいのだそうだ。
確かに、と彼女も思う。
実際、こうして三つの新聞を読んでみると大まかに今、世間でどういう事に舵が切られつつあるのかが何となく分かる。
九条から渡された記事は数日前に九頭龍の路上で変死した青年の記事だった。
じっくりと目を通した訳ではないのだが、確か数人の大学生が薬物中毒で心拍停止したのが死因だと予測されていた。
数日前にも同様の事故があったそうで地元警察が関連を捜査している、と書かれていた。
「この記事がどうかしたの? バカな学生がつい浮かれて羽目を外し過ぎたんじゃないの?」
歌音はそう辛辣な言葉を返す。そもそもドラッグの調査などという任務に、自分が動く必要性を正直感じない。
九条は特に表情を変えない。恐らくはこういう言葉が返される事も予期していたのだろう。平和の使者というコードネームを持つ彼女はいつでもそうだ。顔色一つ変える事はない。彼女がどういう類いのイレギュラーを扱えるのかは分からない。見た事もない。
だが彼女は常にあらゆる事態に備えている。
この街で起きるあらゆる事態も把握しているのかも知れない。
或いはその全てに関与すらしているのでは?
馬鹿げた妄想だ、でもその全てがあながちデタラメだとも思えない。そういう得体の知れない感覚を目の前にいる上司からは感じる。戦って負ける気はしないが、かと言って勝てるとも到底思えない相手。
それが九条羽鳥という女性であった。
◆◆◆
四月四日。一晩が経過した。
依頼を受けたものの、この件は極秘で、という上司からの要望により情報収集の結果は空振り。収穫は特に無かった。
二日目のこの日、彼女にしては珍しく足を使ってみる事にした。
彼女は意識を集中させる事で、周辺地域のあらゆる音を聞き取る事が出来る。正確には音を聴いているのではなく、振動を聞き分けてる、というべきなのだが。
彼女に対し、電子的な盗聴対策などは無意味だ。
何故なら彼女はただ耳を澄ましていればいいのだから。
相手の口から発せられた言葉の、……その空気の振動を聴いていれば良いのだから。
とは言ってもどんなに素晴らしい能力にでも欠点は存在する。
彼女の場合はその有効範囲。
大まかに言えば一キロ圏内。これが彼女が聴き取れる範囲であり、それ以上距離が離れてしまうと途端に聴こえなくなる。
それに相手が注意深く、例えば防音対策をするなどの対抗手段もある。
ただし、昨晩の情報収集の失敗についてであるなら、原因は場所の選定ミスでまず間違いないだろう。何せ依頼を受けたものの、時間が夜の九時を回っており、歌音がそこから遠くまで移動しようにも時間が遅く、夜中に出歩くのにもまだ一三歳の彼女は目立ってしまう。だから彼女は、基本的に夜中に仕事をしないのだ。
昨晩はとりあえず彼女の家の近辺。
そんな所に都合よく探し物のドラッグに関する話題がピンポイントで見つかる訳もなく、こうして今に繋がっている。
二日目の今日は九頭龍駅まで電車で移動。それから少し歩いて彼女は九頭龍に昔からあったデパートである”だるまや西武”に足を運ぶ。幾度となく改築、増築を繰り返したこのデパートの屋上が彼女のお気に入りの監視場所の一つだ。
一〇年程前からこの屋上にはカフェと空中庭園があり、住人達の憩いの場所として解放されており、今日も庭園スペースに備え付けられたベンチにカフェで買ったらしいフレッシュジュースのカップを手にした人達が座っている。
他にもカフェ席で読書をする者やデートらしきカップルに、それから友達同士の談話まで皆が思い思いの時間を過ごしていた。
歌音も一応は読書の為に来た風を装う為にバッグには常に本を入れている。
カフェでオレンジジュースを購入。それを手にベンチに腰掛けると、飲む。ここのカフェのフレッシュジュースを彼女は気に入っており、特に用事がない時でもこうしてベンチに腰掛けてボーッとする事がある。今じゃすっかりカフェの店員さんに顔を覚えられ、何も言わずとも、今日のオススメについての話が入る位だ。
時間は午前十一時。
誰の援護やサポートも期待出来ない以上、とりあえず気長に取り組むつもりだった。
パラパラと家から持ってきた文庫本を読みつつ、何かの情報に耳を澄ます。今日持ってきたのは、最近人気のとあるラノベだ。
こことは別の、所謂、異世界から現実世界に飛んできたヒロインとその仲間を主人公である発明大好き少年が様々な困難を乗り越えながら異世界への扉を開く為に悪戦苦闘する話だ。
今度アニメ化も決定したらしく、彼女の同級生の間でも話題になっており、彼女も割と好きな作品だった。
(面白いけど、正直言って主人公が子供過ぎるのよね)
という一点を除けば。
あとは良くも悪くもご都合主義な展開が目立つ事位だろうか。
そんな事を思っている内、思いがけずにその言葉は聴き取れた。
距離にしてこの屋上からおおよそ四〇〇メートルといった所だろうか?
──おい、聞けよ。おれぁ手に入れたぜ、……”楽園”をよ。
その声の調子から相手がまだ若い事は分かる。
怖いもの知らずで無鉄砲な声に歌音は心からの感謝を告げてやりたい気分だった。
「さて、さっさと片付けないと……長引かすと面倒くさいし」
それだけで充分だった。まさに探していた言葉を誰かが口にしたのだ。その、思いもよらず早い展開に星城凛こと桜音次歌音は笑顔を浮かべていた。