悪徳の街(The city of vices)その38
先に仕掛けたのは突っ込んでくる耐里。
飛び出した勢いのままに肩を突き出して、遮二無二体当たりをかけてくる。
零二は対して腰を落とすと、「シャアッ」というかけ声と共に自ら突っ込む。まさしく正面衝突。ガツンとした互いの身体の重みと衝撃が全身を駆け抜ける。
「アアアアアアアア」
本来ならば、体格と何よりも全速力による勢いに乗った耐里に分があっただろう。だが亘も理解し始めていた。
マイノリティとかいう者同士の戦いに、普通の、自分が知っている常識は必ずしも当てはまらないのだと。
現に、ジリジリと押されているはずの零二に焦りの色は全くない。
「────へっ」
それどころか心なしか余裕すら窺える。
「シャアッッ」
逆に零二の方が耐里をジリジリと押していく。
車で例えるなら、全速力で正面衝突してきたスポーツカーを速度の劣る軽自動車が馬力で押していくような物だろうか。いずれにせよ、にわかには信じ難い状況ではある。
「ちっ」
だがそれも束の間。唐突に零二がその場から飛び退いた。見れば、左の膝下から剥き出しとなった脛から出血している。勿論、今までそんな場所を怪我などしてはいなかったはずだった。
(ったく、まただ)
零二はいつの間にか負傷していた事に顔にこそ出さないものの、少なからず動揺した。
(傷自体は大したコトもねェが)
怪我の程度は浅い。さっきのように貫通している訳でもなく、刃物で切られたような感じ。それも深々とではなく、かすめたような、皮と少し肉を切られたのものだろう。マイノリティ、それも回復能力において優れた自分とすれば問題にもならない。
(問題は、やっぱ)
こうして考えを巡らせるのは自分の得手ではないのを零二は理解している。肉体労働、それもガンガン前面で相手と戦う身としては、こうした役回りは出来れば歌音辺りにでも任せてしまいたい所だろう。
もっとも、この場には自分しかいないのだが。
零二が一旦後退したのを契機と見たのか、耐里はさっきよりも攻撃的になっている。ぐいぐいと前へ前へと出て行き、パンチや蹴りを間断なく繰り出していく。
「へっ」
対して零二はそれらを受け流していく。正直、一手一手としては必ずしも脅威に感じるような攻撃ではない。とは言え、比較対象となる後見人でもあり、師匠でもある秀じいが強過ぎるので、大抵の相手は格落ちしてしまう訳なのだが。
手刀で相手の腕を反らす。蹴りの初動を見抜いて素早く脛を蹴って勢いをとめる。肘で胸を突いて仰け反らせる。問題ない。
だが、そこでまたも零二の腕を何かが貫いた。ぶしゃ、とワンテンポ遅れて血が噴き出した。
「──ッッ」
一瞬痛みで表情が歪むも、決して焦ってはいない。より正確に言えば焦らないように努めている訳なのだが。
零二は自分が感情的なのを知っている。ふとした些細なきっかけで激高してしまう事を理解している。
その点を秀じいにも散々っぱら指摘されてきたものだ。
◆
“感情に任せるだけではいけません“
ある日、彼と手合わせをした結果、いつも通りに地面へと転がされて、空を見上げていると後見人たる老人はやはりいつも通りにそう言った。
一体いつの間に用意していたというのか、庭にはテーブルに椅子が置かれている。
鼻孔を刺激する香しい匂いは、間違いなく紅茶だろう。
ただし、この香りは初めてだ。
「さ、しばし休息と致しましょうか、若」
「ああ。わかったよ」
九頭龍に来た当初こそ、毎日のように行われた手合わせも、零二が武藤の家を出るようになってからは毎週一回、土日に行う程度となった。
おまけにこの夏休み以降、具体的には九条羽鳥が失脚してからというもの、それまでは比較的暇もあった零二も、随分と忙しくなった事により、実施時間そのものも半日から二時間程度と短くなっていた。
「ハァ、」
思わず溜め息をつく。
「如何ですかな?」
「ああ、美味い」
「それは光栄です」
「なぁ、働くのって大変だな」
それは今の零二にとっての本心だ。
九条羽鳥の保護下にあった頃、如何に自身が優遇されていたのだと実感する。
「今更ながらに世間の厳しさってのを知ったよ」
ピースメーカーとの異名を持つかの女性による秘密部隊として、数々の任務を行っていた時は思ってもいなかった。
誰かの下について働くのと、自分の意思で仕事をするのとではまるで違うのだとは。
「自分で決めて、動く。口にしちまえばそンだけのコトだけどさ、実際にそれをするとなると、……スゲェ大変なンだな」
「そうですな」
最近分かったのだが、秀じいはこういう時にはあまり言葉を発しない。だが決して聞いていないのではない。
「人生とは時にままならないものです」
ゆっくりとした所作で向かい側の椅子に腰掛ける。たまに思う。
目が見えていないのに、どうしてこうも動けるのか、と。
「なぁ、何回も聞いたけどよ」
「見えているのではないか、ですか?」
「ああ」
「であれば答えは同じです。この目に光は宿ってはいません」
「ずうっと前に、か」
「はい」
「戦った結果だよな。後悔してるか?」
「一切」
「ハァ、強ェよなマジで。勝てる気がしねェわぁ」
紅茶を一口すると、あーあと大きく身体を伸ばす。
本人曰わく、秀じいの視力は数十年前に失われたらしい。
何でもある武侠との対決がそのきっかけ。
詳しい事は教えてくれないが、その件に九条羽鳥が関わっていたらしく、知己を得たとの事。そしてどういった経緯なのかは不明だが、後々武藤の家に仕える事になったらしい、とは皐月から聞いた。
そんな事を考えている間に唐突に後見人たる老人が訊ねる。
「若、戦いにおいてもっとも大事な事は何かおわかりですか?」
「……またかよ。その質問」
思わず苦虫を潰すような表情を浮かべる。一体何度この問答をしただろう。指で数えられるような数ではなかったはずだ。
「お答えを」
「…………」
零二は過去に同じ問いかけを受けた際の事を思い返す。
この問いかけの厄介な点は答えが毎回違う、という事だ。
そして、下手な回答は手痛い折檻である事も良く知っているので思い付きの回答など以ての外。思わず押し黙ってしまう。
零二が沈黙している間にも、秀じいは紅茶を口にし、用意しておいたクッキーを食べている。
「仕方ありません。一手宜しいでしょうか?」
やれやれと言わんばかりにかぶりを振って、後見人兼師匠たる老人は席を立つ。
「ああ、その方がいい」
零二としても問答などよりは身体を動かした方が気楽でいい。例え勝ち目などないにしても、少なくともあれこれ悩むよりはいくらかましだろう。
「ぐへっっ」
蛙が潰れたような声をあげ、地面に強かに背中を打ちつけて悶絶。
何の事はない。拳を反らされ、手首を掴まれたや否やのタイミングで足を払われ、そのまま投げられた。受け身を取ろうにも掴まれた手首を引かれてタイミングをずらされた結果が今の状況。
「ごっへ、げっほ」
息も絶え絶えで咳が止まらない。
「やれやれですね」
そんな主人であり、弟子である少年の背中を秀じいがさすろうとした時だった。
「うっらあっっっ」
零二が突如として相手の襟首を掴むとぐい、と引き寄せて、頭突きを見舞わんと試みる。
最初からこの流れを考えていた。まともに戦っても技術の差で負ける。下手な奇策も通用しない。万が一の一手があるとすればそれは自分の立場を利用した上での一撃。
完全に不意を突けた。秀じいであってもこれには反撃など出来まい。そう確信した零二であったのだが。
「ヘブッッ」
何故か地面へと叩き付けられ、再度悶絶していた。
「まだまだ甘いですな」
ゆっくりと身体を起こしつつ、秀じいが笑った。何があったのかは大体分かった。何の事はない、零二の不意打ちに対して全身を倒した。それだけの事。引き寄せる力に抗うのではなく、自ら身体を預ける事で押し倒したのだ。
「くっそ、コレもダメかぁ」
ぐうの音も出ないとはこの事だろう。零二は全身を大きく伸ばして、そのまままた空を見上げた。
「狙いは悪くはありませんな」
「…………通じなかったけどもな」
差し出された手を掴んで零二は起き上がる。だが起き上がる瞬間、即座に足を払われて再度転倒。
「ですがまだまだ甘い」
秀じいはそう笑いながら告げると、場を離れてテーブルに置いた紅茶を口にする。すぐさま自力で立ち上がった零二だが、一見隙だらけの相手に付け入る隙を見出せず、かぶりを振ってお手上げだと両手を掲げた。
「さっきの頭突きは何で分かった?」
零二がその疑問をぶつけたのは手合わせも終わり、身支度も整って後は帰るだけになった時の玄関前での事。
あれから色々考えたがどうしてもあの一手は絶妙だと思えた。
少なくとも意表を突けたはずなのに。
単なる技術だけとは思えない。他に何が足りなかったのかをどうしても知りたかった。
自画自賛する訳ではなかったが、これでも外に出てから二年。それなりには場数も踏んだし、強くなったはずだ多分。
なのに、どうしてだろうか。
目の前にいる老人にちっとも追い付いている感じがしない。
元々それだけ大きな開きがあっただけかも知れない。だが、本当にそれだけなの? 何か他に自分が知らない事があるんじゃないのか? そういう諸々から出た問いかけ。
聞き流されたって別に怒るつもりはない。そもそも、何でもかんでも聞けばいいって訳じゃないとは理解しているつもりだから。
だから別に返事を期待していた訳ではなかったのだが。
「そうですな。一言で言えば、感情を表に出し過ぎるから、でしょうか」
この時、秀じいは返答を返した。
「どんなに見事な不意打ちであっても、それを成功させるには相手に察知されないように配慮しなければなりません。
それには単に動きのみならず、視線や手足の位置、表情や何よりも感情を悟られないようにせねばならぬかと」
「マジかよ」
正直そんな事が出来るのか、と零二は思った。
そんな一瞬の内に感情やら手足やらを制御しなければならないなど、人間じゃなくて機械か何かにでもならなければ不可能なんじゃないかと。
「それら全てを完璧に行える者など私の知る限り誰もいません」
「何だよソレ。じゃあさ」
「どんな人間であろうとも完璧な攻撃など行えぬのです。どんなに優れた技量をもっていようとも、必ず何処かに無駄があるものなのです」
「本当かよ。オレにゃ秀じいの動きは完璧に思えるけどよ」
「いいえ。完璧などまだまだ程遠い。そうでなくては、今より先へ、進歩出来ませぬ」
「まだ強くなるつもりかよ、……アンタ」
「当然です。先を、常に上を見据える事こそ人が獣とは明確に異なる部分。思考し、試行してより先へ、上へと進む事こそが生きる、という事でしょう」
「それじゃオレが秀じいに勝てるのはムリってコトじゃンか」
分かり易く不満顔の零二に、秀じいは珍しく珍しく笑顔を返す。
「いいえ、私などより若の方が強い。何度でも言いましょう。若は私などより強いのです。大事なのは心持ち。感情を出すな、とは申しません。感情は時に大きな力を引き出せる起爆剤とも成り得ます。ですが若、駆け引きにおいて感情を出す事はおすすめはしませぬ。感情を露わにすれば考えを読まれる。そう覚えておいてくださいませ。若はそれだけで強くなれる事でしょう」