悪徳の街(The city of vices)その37
「兄貴……」
ブスブスと音を立て、もはや燃え尽きてピクリとも動かなくなった駆留からの最期の言葉、即ち呪詛は、亘に大きな衝撃を与えた。
予感はあった。さっきの、あの頭陀袋を被った男の最期を目にした時から。もう、傍にいるのは自分の知っていた兄、耐里ではないのかも知れないと。今も兄はそこにいる。いつものようにすぐ傍で立っている。
何故だろう、いつもなら誰よりも頼もしく思える背中なのに、どうしてこんなにも不安で一杯なのだろう。
「さって、と」
駆留を文字通りの火葬にした零二は、思い出したかのようにゆっくりと向き直る。
「オイ、大丈夫か?」
発した言葉とは裏腹な、これっぽっちも心配していないようなぶっきらぼうな物言いに、亘も「全然だよ、バカやろう」と喧嘩口調で返事を返す。
「そうかよ、わかった」
零二は本人としては至って真面目に、他者から見ればとてもそうには見えないであろう獰猛な笑顔を浮かべる。
「とりあえずお前が無事ってのは分かった」
「ああ、もう大丈夫だ。だから──何処か行っちまえ」
それは亘にすれば精一杯の言葉。
このままでは何が起きるのかは明々白々。
未だに正気を取り戻さないままの自身の兄と、武藤零二が戦ってしまう。それもケンカなんてものじゃない、正真正銘の殺し合いという形で。
それだけは避けねばならない、耐里が死ぬのも、零二が死ぬのも駄目に決まっているのだから。
だから、どうかここから離れて欲しい。
だが、そんな亘の願いなど零二には関係ない。
「オイオイ、冗談キツいぜ」
何故ならツンツン頭の不良少年からすれば、今、ここにいる理由はただ一つ。そこで今にも泣き出しそうな顔をしている不良少女を救い出す事なのだから。
「いいから、……もう行っちまえよ。頼むから──」
言いながら、泣き出しそうな亘の言葉など関係ない。
「イヤだね。オレはお前をここから連れてく」
「だから──」
「お前のアニキも一緒に生きたまま、な」
「──!」
だって、何故なら。
兄妹どっちも救い出すのだと、零二はとうに決めていたのだから。
だからこそ、戦わねばならない。
正気を失っている? それがどうした?
そんなコトなど知ったコトか。
「オイ」と構わずに亘へと一歩。
微動だにしない耐里を睨み付けながら、更に一歩。そして「そこのウドの大木」と挑発の言葉を浴びせるも、それでも相手は何の反応も返さない。
ふぅ、と足を止めて一息。
「なぁオイ」
唐突に焔を噴き出したかと思えば、先制のドロップキックを見舞う。耐里はそれを喰らって大きく後ろへ仰け反る。ゆっくりと身体を起こすも、それでも尚、攻撃してきた相手に何の興味も示さず、無表情のまま。
「そっか、なら」
零二が亘に駆け寄り、手を伸ばすと、その途端だった。
「ひろ、ヒロォォォォォッッッッ」
さっきまでの沈黙、無関心など嘘の様に耐里は絶叫をあげた。
猛然と、勢い良く零二へと向かっていくその様はまさしく猪突猛進。さっきのぶつかり合いから、近接戦闘で勝っているであろう零二としてはまさしく願ったり叶ったりの状況。本来ならば。
(だけどよ、違うな)
だが零二の脳裏を過ぎるのは、先程自分の腹を貫いた攻撃。
不意を突かれたとは言え、いきなり攻撃を受けた。
既に傷は塞がっており、シャツに空いた穴からは腹筋が覗いている。
(アレが何なのかを見極めねェと、ヤバいかもな。で、今ントコ分かってるのは────)
少なくとも飛び道具の類の可能性。それはさっきの攻撃からも明らか。相手は離れた場所から仕掛けていた。であれば、今相手から突っ込んで来ている理由は? 単なる感情の発露なのか、もしくは必要があっての事なのか?
(ともあれ──やってみなくちゃな)
行き当たりばったりと言われればそれまでだし、相棒役の歌音に言わせれば無鉄砲にしか見えないだろうが、それでいい。その方が自分の性にあっているのだから。
「ひぃろおおおおおおお」
まるで獣のような叫び声と共に耐里は突っ込む。
「来なよ」
零二はそれを迎え撃つ構えを取る。
「…………」
その両者の様子を亘はただ黙って見ている事しか出来なかった。
(アタイは無力だ)
事ここに至り、何も出来ない自分の身が歯がゆかった。
(兄貴も、武藤零二も、何でだよ)
もう、終わったんじゃないのか。
耐里は無事だったし、悪い奴だってもういない。
異常な事ばかりを目にしてしまったけど、もう終わりじゃないのか。
(戦わなくたっていいじゃないか)
優しくて強い兄と、お世辞にも良い奴だとは言えないが、やはり強い零二が今まさしく戦ってしまう。
どうしてこうなった、と考える。
理由は明白だった。
(アタイのせい、だよな)
きっかけは耐里が行方不明になった事だが、それだって自分までこの街に来る必要はなかったのかも知れない。いや、そうじゃない。
(あの駆留って奴は言ってた)
散々痛めつけても、薬を盛っても耐えたと。つまりはお手上げ状態だったのだ。それだけ耐里は肉体的にも精神的にもタフだったのだ。
(それをアタイのせいで──)
目の前で人が死ぬのを見てしまった。如何に普通じゃないとは言えども、頭陀袋を被った男は死んだ。
自分に危害を加えようとした所を、耐里によって殺された。
理屈は分かってる。もしもあのままなら死んでいたのは自分なのだとは。
だけど、割り切れないのだ。兄が人を殺してしまった事を。自分のせいで手を汚してしまった事実を。
このままだとまた誰かが死んでしまう。
耐里は間違いなく零二を殺そうとするだろう。
一方で零二はさっきこう言った。助ける、と。
こんな最悪な状況なのに、このままじゃ自分だって殺されるかも知れないのに。
(アタイは最低だ)
こんなのあまりにも都合が良すぎる。
分かってる。こんなの何の助けにもならない事は。
「兄貴を、助けてくれっっっ」
だけど叫ばずにはいられない。声を出さずにはいられなかった。
「お願いだ零二ッッッッ」
その声に零二は「いいぜ」と笑ってみせた。