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狂った世界――The crazy world  作者: 足利義光
Episode 16
551/613

悪徳の街(The city of vices)その32

 

 痛みは我慢すればいい。

 何故なら痛みがあるというのは、生きているという証なのだと祖父に言われた。

 気付けば父や母はいなくなった。亘が、妹が生まれてすぐにいなくなった。後になって交通事故が原因だと知った。相手、加害者は飲酒運転だったのだが、判決は情状酌量の余地があるとか何とかとの事で、刑期は短かったらしい。

 理不尽な事ばかりだった。

 祖父は自分が中学生になった直後に、空き巣に入った泥棒に刃物で刺されて亡くなった。

 犯人は未だに捕まっておらず、今ものうのうと生きているのだろう。

 身近な家族がいなくなり、遠い親戚達は家を売りに出した。何でも祖父の借金返済に充てるから、だとか言っていた。だけど知っていた。借金があるのはそう言った親戚の方で、幾度も金を貸して欲しいと顔を出していたのを見ていたから。

 そのくせ自分達の面倒まで見るのは無理なのだそうで、亘と、妹と一緒に半ば強引に施設に押し込められた。

 文句を言っても、まだ子供だから、と流されて歯牙にもかけられなかった。だから思った。早く大人になりたい、と。

 亘はいつもいつも泣いていた。

 あいつは本当に泣き虫で、ちょっと近くの公園に行くのだって俺の近くにくっつくように付いて来た。本当に弱虫で、本当に可愛かった。俺は誓った。こいつだけは絶対に守ろう、って。何があっても、絶対に妹だけは守ってやるって。



 頭陀袋を被った野郎が亘へ襲いかかろうとしている。

 あの血塗れの、俺の血を吸ったマチェットであいつを殺そうとしている。

 許せるものか。絶対に許せるものか。

 ああ、もういい。今、ここで俺はあいつを守るんだ。それで俺がどうなろうが知った事か──。



 ◆



 バスバス、という音がした。

 例えるならパンパンに空気を入れたタイヤに穴が空いたような音。


「────え?」

 何が起きたのか分からずに、亘は思わず周囲を見回す。

 今にもマチェットを振り下ろさんとしていた頭陀袋を被った男だが、何故かその動作を途中で止めている。

 いや、違う。

 止めているのではなく、出来ないのだ。

 何故なら、手首ごとマチェットがなくなっていたのだから。

 それだけではない、その胸部にもゴルフボール程の穴が開いていて、次の瞬間、ぱあっ、と血煙が上がる。

「ア、グアアアアア」

 頭陀袋を被っているからだろう、そのくぐもった声は何を言っているのか不明瞭で分からない。だが彼女にだって分かる。この声は悲鳴なのだと。

 そして誰がこれを為したのかも明確だった。だってここには三人しかいない。

 自分は身動き一つ取れない。なら、後の可能性は一つだけ。


「妹に手を出すな……クソ野郎」

 一体何をどうやったのか、いつの間にか耐里は拘束を外して立ち上がっており、その目は誰の目から見ても明らかな怒りの色に染まっている。

「ア、グアアアアア」

 頭陀袋を被った男が叫び声をあげて耐里へと襲いかかっていく。

 有り得ない事だが、胸部に穴が空いている事などまるで気にしている様子もない。それどころか目を凝らせば、出血は既に止まっており、穴も塞がっているようにも見える。

「当然だけど、同類だな」

 耐里もまた相手の様子に動じる事もない。振り下ろされるマチェットを後ろへと飛び退いて回避。同時にパン、とさっき同様の空気の抜けたような独特の音。

「ガ、ギャア」

 頭陀袋を被った男が呻く。今度は腹部に穴が空いている。

「お前に勝ち目はない……」

 耐里は宣告するのと同時に相手の懐へと飛び込む。左足で相手の膝を踏むとそのまま跳躍。狙い澄ました右膝の一撃が顎を打ち抜く。

「────ッッッ」

 頭陀袋を被った男は脳震盪でも起こしたのか、グラグラと二度三度身体を揺らして崩れ落ちる。まるで大木が切り倒されたかのような倒れ方は、今の一撃が如何に痛烈だったかを如実に物語っている。

 亘は耐里の姿を見て「兄貴、凄いや」と呟いた。


「ハァ、ハァ」

 耐里は自分の息が荒い事を自覚。同時に今更ながらだが全身の痛みを実感する。

「く、はっ」と小さく呻くと同時に幾度となく咳を繰り返し、吐き出す唾には血が混じっている。

「だいじょうぶ? 、かよ」

 心配そうな亘の問いかけにも、言葉を返すのもつらいのか、ゴホゴホと咳を繰り返し、心配するな、と辛うじて手を挙げるのみ。

 亘もまた、自身の兄が無事ではないのを実感する。

 その全身は血塗れで、着ているシャツは切られた跡がハッキリ残っている。傷口こそ塞がっていたし、切られた腕も元通り。信じ難い事だが普通の人間ではない。死んでいても全くおかしくないような負傷が回復、再生していく様を目の当たりとし、ついつい感覚がおかしくなっていた事に気付く。何事もなかったかのような回復など、普通の人間では起こらないのだと。

「ああ、大丈夫だ、ちょっと待ってろ」

 ようやく咳が治まったのか、耐里は青ざめた顔で笑うと、すぐに視線を己の敵へと向ける。


「ア、ガ、ガガガガ」

 頭陀袋を被った男もまた、ゆっくりと起き上がる。

「……ふぅ」

 耐里は呼吸を整えつつ相手の様子を確認。

 胸部に続いて腹部の傷もまた塞がっている事から、彼もまたマイノリティなのは確実。であれば決着するには相手の回復が追い付かない程のダメージを与える他ない。

(だが、殺るにしても──)

 この場には妹がいる。彼女の前で殺しを見せるのはどうなのだと考える。


『待てよ、殺すなって今更何を考えるんだ?』


 声がした。聞き間違えようもない馴染みのある声。


『さっき、その妙ちくりんな男の心臓狙ったよな? 腹に大穴空けたよな? あれは殺すつもりじゃなかったのか?』


 その声の指摘に耐里はハッとする。そうだ、さっきまでの攻撃は普通の人間、一般人なら間違いなく致命傷であったと。

(そもそも、俺は何故殺す、とか考えた?)

 そもそもの話だ。彼はこれまで人殺しをした事などない。

 確かに耐里はマイノリティであり、WGの協力者である。

 ただし彼の雇い主はとなると、その正体を知る者は極めて少ない。

 理由は雇い主がWG日本支部のトップである菅原だから。

 菅原には個人的に雇った幾人かの協力者がおり、彼らの存在は秘匿されているから。そういった人員の一人が耐里である。

(俺は人殺しはしないって、そう言って入ったはずだ)

 菅原と顔を合わせた際にそれだけは確認したのだ。

 人殺しはしない。相手が如何に救いようのない悪党だろうとも、殺しだけは決して行わない。その条件で協力者となった。菅原も了承していた、間違いない。

(それが何でこうなった?)

 理由なら分かる。分かり切っている事だ。

 あの声が告げる。


『何でって、そんなの当然だ』


 そこに妹がいるからだ。あの頭陀袋を被った男があろうことか大事な妹に危害を加えようとしたから。あの血塗れのマチェットで殺そうとしたからだ。


『亘を殺そうとしたあいつを生かしておける訳がない』


 そうだ。当然の事だ。妹を殺そうとした悪党をどうして生かしておけ、る?

 おかしい。おかしい。

 声はここぞとばかりに畳みかけてきた。


『悪党は殺さなければならない、お前は自分が見逃した悪党が復讐の為に彼女に害を加える可能性を考慮しないのか? 悪党にとっちゃあの子はさぞいい獲物だろうよ』


 ───!!

 その言葉こそまさしく耐里がずっと恐れていた事態を示すモノ。

 ずっと思ってはいた。WGに協力してからずっと様々な悪党を捕まえたり、調べ上げたりした。彼らは普通の相手ではない。自分と同じマイノリティだ。そうである以上、刑務所に入れて刑期を務めるなどという事にはまず成り得ない。何かしらの収容施設があるとしても、異常な能力を以てすれば脱出するかも知れない。そうでなくとも強力な力なのだ。もしも、の事態は常に考えておかねばならないのだ。

(だからこそだ、だからこそ俺は)

 下手に恨みを買わぬように表には出なかった。WGにだってあくまでも協力者としての立場を崩さなかったのだ。

 もしもの万が一、の事を考えたからこそ。


『違うな。お前は怖かったのさ。何がって自分が可愛かったんだよ。表立ってWGの一員となれば、その分WDなり何なりといった連中の目の敵とされちまうのがな』


 ──違う、違う。

 そんな訳がない。ある訳がない。


『いいや違わないな。お前は妹を盾に踏みいる事が出来ないんだと言い訳をしてた。

 だがな、見ろ。現実はどうだ?』


 息がまた荒くなっていく。

 いつしか呼吸をするのも億劫になっている。

 ふと、妹へ視線を向ける。

 そしてはっと気付く。彼女のまさしく蒼白と言うべき顔色に。

(何てこった)

 冷静に考えれば明らかだった。このほんの数分ばかりの時間が亘へと与える影響を。これまで知らなかった世界の裏側を何の準備も心構えもないままに突き付けられたのだ。

 ましてやその方法と言えば、目の前で残酷な光景を見せ付けるという物であり、それを目の当たりとした彼女のショックの大きさは計り知れないに違いない。


「すまない」と声にならないような声で詫びる事しか出来なかった。

 いつものように堂々と胸を張れなかった。


「イイイイイイイイイ」

 頭陀袋を被った男が起きあがるや否やで耐里へ襲いかかった。

 起き上がる際に手にしたのであろうマチェットの刃がまたも肩から食い込んでいく。

「──」

 ずぶずぶと自身の身体へと入り込む、血に塗れた無骨な刃が自分を切り裂く様をまるで他人事のように眺める。じわ、と血が滲み出て、地面を濡らしていく様を目にして、耐里は思ったのはただ一つだけ。

(これが亘じゃなくて良かった)

 もしも妹がこんな目に遭っていたら自分は耐えられない。誰よりも大事で守らなければならない彼女がこんな目に遭うのだけは絶対に許せない。我慢出来ない。

 あの声が囁く。


『許せるのか?』


 そんなのは決まってる。

 分かり切ってる事だ。


(許せるものか)


 声はなおも囁く。


『妹に危害を加える奴を、加えるかも知れない奴を見逃せるのか?』


(見逃せるものか、見逃してなるものか)


『ならどうする、どうすればいい?』


(殺す、殺してやる)


『そうだ。殺せ、生かしておくな』


 声は、いや、自分自身の言葉は正しい。ずっと前から分かってたはずだ。


「世の中は理不尽で溢れて返ってる」

 そう呟いた次の瞬間だった。

「ガ、ガギャ」

 小さな叫び声とも言えぬようなか細い声と共に頭陀袋を被った男は力なく崩れ落ちた。

「え?」

 亘があまりにも呆気なく倒れた男へと視線を向けると、相手と目が合った。

 見た瞬間に理解した。既に死んでいると。もう動き出す事は二度とないのだと。

 その目には全く光が宿ってはおらず、まるでガラス玉のよう。

 血で真っ赤に染まっていく頭陀袋により、その表情が分からないのはせめてもの救いだろう。


『やったな。守れたじゃないか』

「ああ、そうだな」

『お前は妹を守る。どんな相手からも、何をしてでも』

「ああ、当然だ」

『ならいい、任せたぜ』


 ブツブツと言葉を呟く耐里に亘は不吉な予感を覚えた。

 何処か遠くを、虚空へと視線を向けていもしない誰かと話しているように見える。

「ね、ねぇ──!」

 目の前で人が死んだ事よりもショックだった。

「……兄貴?」

 耐里の顔はまるで別人のよう。

 まるで、初めて会うような他人のよう。

 いつも明るく、太陽みたいだった笑顔は消え去り、夜の闇を思わせる翳りのある顔。

 鋭くはあったが、優しい目は今や剣呑な光をたたえている。


「大丈夫だ、亘。守ってやるから」

 声は優しい。以前と変わらないが、決定的に違う。

「あに、き──」

 どう言葉をかければいいのか分からず、呆然とする他ない。

「絶対守ってやるから」耐里はただそれだけを言うのみで、それ以上何も言わない。

 すぐそこにいるのに遥か遠くにいる。誰よりも近くにいたはずなのに、今や誰よりも遠くに感じる。



 ◆◆◆



「逃げ、て」

「?」


 亘の弱々しい言葉は零二の耳には届かない。

 届けようにも声が上手く出せない。


 だって、何故なら。

 すぐ近くに兄が、耐里がいるから。


 ドス、という鈍い音。亘が倒れ込み、その身体を零二が支える格好となって、──その腹部が貫かれる。

「な、に?」

 訳が分からないままに、零二の身体からは噴水のように血が飛び散った。


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