悪徳の街(The city of vices)その31
「アニキ、しっかり」
亘はガタガタと全身を震わせる耐里へ言葉をかける。
「…………あ、ああっっ」
答える余裕もないのだろう、耐里は呻き声を発するのみ。全身汗をかき、まるで死人のように土気色の顔で何処か遠くを眺めている。
「くそ、くそっ」
どう見ても普通ではない兄の様子を、ただ黙って見ているしかない自分に亘は不甲斐なさを禁じ得ない。
手足を拘束されているとは言え、兄と違って別に怪我もなく、五体満足な自分の無力さが心底悔しい。
「アニキ、アニキ──」
椅子ごと倒れ込んででも動こうともがくも、鋼鉄製のその足自体が床に固定されていて、ビクともしない。すぐそこでたった一人の家族があんなにも苦しんでいるのに、何も出来ない。
「────」
そして頭陀袋を被った男は何を思ったか。マチェットを投げ捨てると、おもむろに拳で耐里を殴り始めた。幾度も幾度も繰り返し繰り返し。ただただ無言で淡々とメトロノームのように同じテンポで殴り続ける。
最初こそ「く、ぐ」といった呻き声をあげた耐里も、繰り返される殴打の中、遂に黙り込む。
見れば彼の落ちていた手首はいつの間にか元に戻っている。ただひたすらに殴られているものの、さっきまでのような流血もない。
(ダメだ)
これなら、大丈夫なんじゃ、と思いかけた自分を殴ってやりたかった。大丈夫なはずがない。血が出なくとも、あんな鈍器のような拳で殴られているのだ。骨は折れ、内臓には深刻なダメージが加わり、脳にも重大な傷害があってもおかしくない。
(ダメ、──ヤメロ)
これ以上は駄目だ。このままじゃ兄が、家族が殺されてしまう。そんなのは駄目だ。でも今の自分に一体何が出来る? 声を出すしかない。ただ状況を見るしか出来ない。
「だいじょう、ぶだ、から、な、ひろ」
兄の声。消え入りそうな、だけど聞き逃すはずなどない。
こんな状況なのに。どうして自分の事を第一に考えないんだろう。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、───だめだ。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
亘の絶叫が室内に轟く。
されど頭陀袋を被った男にとってそんなのはどうだっていい。
彼はただやるべき事をこなすだけ。目の前の男を痛めつけるのみ。殺さない程度に。
「────」
もう何度目か分からない殴打を行うべく振り上げた血塗れの拳。相手ののみならず、自分自身の出血もある。数え切れない殴打の中で皮が剥けていたのだ。だが関係ない。
顔、顔、腹部、腹部、顔、顔。順番通りに行うだけ。次は顔。
だが、振り上げた拳は空を切った。何が起きたのか分からずに、頭陀袋を被った男は足下へ視線を落とす。
「────」
するとどうだ。足下の床が僅かに割れている。どうやら何度も何度も殴る為に体重をかけ続けた影響だろう。関係ない。また殴れば、いいだけ。拳を握り締め、繰り出す。
「──!」
今度もまた拳は相手へ到達しない。
空を切ったのではなく、床に倒れていたからだ。最早亀裂ではなく、完全に砕けて、まるで穴のように足がめり込んでいる。
「────」
数秒間もがいてようやく足を引き抜くと、頭陀袋を被った男の中に渦巻いたのは激しい怒りだった。
さっきまでは何の問題もなかった。先生(駆留)の言う通りに目の前のモノを切って、殴るだけ。
それが一体どうしたというのか?
気付けば自分は床に転がり、殴れなかった。
有り得ない、あり得ない、あってはいけない。
先生の言う通りにしなければいけない。先生の言う通りにさえすれば何も心配ない。
いつの頃からか感じなかった不安が脳裏を走り抜け、いつの頃からか感じなかった怒りが沸々と沸き立つ。
「…………アアア」
せっかく、せっかく楽になったのに。先生の薬で良くなったはずなのに。これでは元通り。前の自分に逆戻りだ。
「……………………ア、アアアアアアアアア」
五月蝿い。何か五月蝿い犬か何かが吠えている。聞くだに不快だ。きんきん五月蝿く叫ぶな。どうしようもなく──殺したくなってしまう。
「アアアアアアアアアアアア」
頭陀袋を被った男が突如として絶叫。落ちていたマチェットを拾うと、さっきまでとは一変し、激しく頭を揺らしながら耐里ではなく亘へと向かって襲いかかる。表情が伺えなくとも分かる。理由は分からないが、この不気味な男が激情に支配されているのだと。
「────!」
亘は自分がどうなるのかを理解した。このままあの男に殺されるのだと。あの血塗れのマチェットによって身体を裂かれるのだと。
本来なら怖くて怖くて仕方がない状況。なのに、彼女は驚く程に落ち着いていた。
こんな状況にも関わらず、その目は真っ直ぐに見開かれて、これから自分の身に起こり得るであろう出来事を淡々と写している。
(あ────)
マチェットを振り下ろさんと身構えているのが見て取れた。
間違いなく殺される。死んでしまう。あと少し、ほんの少しの、一秒に満たないような時間で命を失ってしまう。終わってしまう。なのに──どうしてだか。彼女は全く怖くなかった。




