悪徳の街(The city of vices)その27
「兄貴、兄貴ッッッ」
「馬鹿野郎、どうして?」
「バカはそっちだ。何でいなくなるんだよ。心配させんなよ」
「…………っ」
薄暗い室内だった。亘はまだ薬のせいだろうか、感覚がおかしい。目はぼやけ、平衡感覚は狂い、言葉は幾度も反響してくる。
だが、それがどうだ。如何に感覚がおかしくても、生まれてきてからずっと一緒に育った家族の声は聞き間違えはしない。間違いないすぐそこに兄の耐里はいる。
「平気か?」
「ああ、これぽっちもな」
返事の声は強がっているが、何処か弱々しい。何かをされた、それも酷い事を。目の前すらも良く見えないのがもどかしかった。動きたくても手足は拘束されているのか殆ど動かせない。嫌な想像が沸き上がってくる。打ち消そうと試みるが、消えない。
そこへおほん、と咳払いが入った。つなぎの男がしたもので、注目を集めたかったらしい。大仰な動作で両手をパンパンと打ち鳴らして、耐里へ視線を向ける。
「さてさて、感動の対面は終わったね。では早速本題に入るとしよう。
新来耐里君、君はこの実験を何処まで知っている? 誰から聞いたとかそういう問いかけは無駄だ。それよりも君が何から何まで知っているのか、そこにこそ意味があると私は思う」
「…………」
「どうかしたのかな? ここで無言という選択はないんじゃないのかね?」
ガタン、と音を立て、ずだ袋を被った男の持つマチェットが亘の喉へと押し当てられる。
「私としても可憐な少女の喉を裂くのは本意ではない」
「兄貴、大丈夫だから」
「……やれないだろ?」
「ほう、何でそう思う?」
「ここで妹に手をかければそれで俺への質問は意味を為さない。あの古在とかいうヤクザならいざ知らずな」
「それはどうも、買い被られてるみたいだ」
「買い被りじゃないさ、駆留羌」
「────ほう」
つなぎの男こと駆留羌は感心したように頷いた。
「何処で知ったのか、…………非常に興味深いね」
さっきまでとは異なり、その目の光は好奇心よりも警戒心が勝っている。
「…………」
亘は兄の語り口に違和感を覚える。耐里は凄い男だ。腕っ節もあって度胸もある。おまけに困ってる人を見たら放っておけない。だから他人よりも人生で苦労してきた。
自分よりも他人、他人よりも妹。そんな優先順位でもあるのか、自分の事は常に後回し。そんな兄が学校を中退して探偵になる、と聞いた時、亘は正直兄貴らしい、と思った。
困ってる人を助ける、警察では踏み込めないような案件であっても耐里は躊躇しなかった。時には強引過ぎて警察と揉めたりもしたが、それでも多くの人を助け続けてきた。
亘にとって耐里はヒーローだった。どんな時もどんな相手にだって決して屈せずに立ち向かう憧れの存在だった。
「そうか。ずっと違和感があった。君は単なる探偵にしては優秀過ぎる。あんな何処かのボンボン一人を追いかけてきたついでにここまで迫った訳ではない、という事か」
「…………だとしたらどうする?」
「いや、納得だ。そもそもこっちの調査こそが本命だったのなら、全て理解出来るというモノだよ」
「なら、分かるはずだ。俺の背後関係も含めて諸々な」
「そうだな、やはり【WG】だろうね」
「お前さんは【WD】だしな」
「何だ。そこまでバレてたのか」
あっけらかんとした様で、駆留は後頭部をボリボリと掻く。
「そうさ。私こと駆留羌はEP製薬の社員にして、WDの一員」
「WD? WG?」
亘には何の事なのかさっぱりだった。だが、二人の様子を見るからに、恐らくは何らかの組織名だとは分かる。
その様子を駆留は見逃さない。
「ああ、君には聞き馴染みのない言葉だったね」
そう言うと、ゆっくりとした足取りで彼女のすぐ傍にまで行くと、耳元で囁く。
「どうする? 知りたいのかな?」
まるで舐めるように舌を動かし、不快感を誘ってみせる。
「よせ、亘。聞くんじゃない」
「────」
あの兄に懇願された。その事自体に驚きがあった。
だが彼女はそれ以上に自分は知るべきだと思っていた。
これまでの自分が知らない世界を見てしまった。このほんの僅かな期間で目にした異様で異常な出来事に、それを行使する人間に。
まるで少年漫画みたいな超能力みたいな異質な力。少し前までなら、そんなモノある訳ない、と一笑に付したであろうモノが実在するのだと。
「まぁ、論より証拠だ。実際に見てみるといい」
駆留はそう言うや否や、「やれ」とずだ袋を被った男に命じる。そして────。
「見るなッッッ」
耐里の叫び声がして。
「え────」
亘が見たのは、兄へ向けてマチェットが振り下ろされて、その肩口から胸部までをバッサリと切り裂く光景だった。