悪徳の街(The city of vices)その21
「────う、っ」
頭を何かにぶつけた拍子で亘が目を覚ます。
「つう、っ」
目を閉じたまま、何があったのかを思い出して、状況を整理する。
(アタイは妙な連中に捕まって、それで)
ガタンと床が揺れ、誰かが文句を言っている。床に接する顔にはひんやりとした感触。そこから推測出来るのは、ここが車の中なのだろうという事。
手が上手く動かないのは拘束されているからだろう。足は動かせる事から走るのは可能だ。本当に捕まえるのなら手足両方を拘束すべきなのに、こういう状況になっているのは油断なのか、或いは抵抗など最初から気にもしていないかだ。もしも後者なら最悪だ。
(こういう時は下手に動かない方がいい)
兄である新来耐里からは色々な事を教わった。大半はまず役には立たないような話だったが、少なくともサバイバル関連の話は別。荒事専門の探偵を始めてから毎日のように危険な依頼をこなしていく内に学んだソレは間違いなく有用。何せ自分の身を以て体験しているのだ。実用性は極めて高い話ばかりだった。
そんな中の一つがこうだった。
“ピンチの時こそ冷静になれ“
人間、窮地に陥るとどうしても焦りからミスをしてしまう。命がかかっているとなれば平常心など保つ方が難しい。手先は震え、いつもなら何の問題もなく出来て当然の事を失敗してしまうものだ。
“だからな、まず大事なのは深呼吸って言いたいけど、それも難しい場合はな、目を閉じて感じるんだ“
耳を澄ませば声や物音が聞こえる。雨粒が肌を打てば空模様などが分かる。舐めてみれば苦い甘いなどが分かる。匂いを嗅げば、周囲にあるモノを判別出来るかも知れない。
五感全てを駆使する事に意識を傾ければ、それ以外の余計な事など考える暇などない。
(確かに正しいかも)
普段視覚に頼り切っているだけに、それ以外の感覚となるとどうしても不慣れな部分が出てしまう。だからこそ冷静になる必要があるのだ。
静かに眠っているかのように、黙して把握に務める。
するとすぐに周囲の状況は知れた。
「いや、思ってたよりずっと簡単だったな」
「あ、それな」
「てっきりもっと抵抗されるんじゃねぇかと覚悟してたんだけどよ」
「じじぃ一人で何が出来るんかってな、ハハハ」
「──」男達の言葉に亘は込み上げる怒りを抑えた。軽い言葉だと思う。彼らの言葉には決定的に充足感がない。自分達自身で分かっているのだ、或いは分かりたくないのかも知れない。下村老人の前に手も足も出せなかった事実を。
「けどよ、あの女は誰なんだ?」
「俺は知らね」
「同じく」
「見たこともないな」
話題はどうやらあのチャイナドレスの女に移ったらしい。確かに彼女の事ならば亘も気にはなっていた。完全に主導権を握っていた下村を一瞬の内に倒し、自分は捕まってしまった。一体何をどうすればあんな事になるのか、と。
「いい女だよな、そそる足してやがった」
「お前足フェチかよ」
「でもよ、スリットっていいよな」
「まぁ、機会があれば一晩お願いしたくなるよなぁ」
ギャハハという笑い声には品性の欠片もなく、彼らの程度をこれ以上なく教えてくれる。
「ま、それはさておき、金貰ったらどうする?」
「そりゃお前、まずは飲みに行くぜ」
「おれも付き合うわ」
「おりゃあパス。馬で一発当てる予定だからよ」
本当にくだらない話だと亘は思った。そして彼らにとって、こうした犯罪は特別な事ではなく労働なのだと理解した。
それからも男達の会話はしばらく続いたが、これといって大した情報はないままに、やがて車が止まった。
バタンというのは車のドアを閉めた音だろう。直後にガチャ、と近くのドアが開く音もする。
「ったく、いつまで寝てやがるんだよ。手間かけさせやがる」
と身を乗り出して来るのが分かる。
(動くべき、いいや)
まだ駄目だ、とすぐに結論を出す。逃げようにもまずは向こうが何人いるのかも定かじゃない。ここが何処なのかも分からない状況だ。手を伸ばしているだろう男は油断しているのは確実だし、不意を付けば蹴りを顔に叩き込める自信だってある。だが、逃走経路が全く分からないのではすぐに捕まってしまう。そしてその場合、逃げ出す機会は恐らくない。
結局の所、逃げようにも状況判断する為の材料が足りてないのだ。
幸いな事に男達は目を覚ましている事に気付いていない。ならそれに乗じるべきだ。
(それに──)
何故かは分からないが確信があった。近くに自分の兄がいる、と。
それからさっき車内が揺れた際に気付いた。自分のジャケットの後ろ、腰の辺りに何かバッチのようなモノが付けられている。これは多分、仕掛けだ。万が一こういった事態になっても追跡出来るように。仕掛けたのは多分、下村老人だろう。何にせよ、いずれ助けがくる可能性があるのだ。だからこそ、今は状況を把握する事を優先すべきだ。
そこに別の声がした。
「ようやく御到着、随分のんびり屋さんなのね。ああ、重役出勤なのかしら? だって──」
この声は間違いなくあの白のチャイナドレスの女のもの。彼女はまるで歌うような口調で続けて言う。
「お嬢様をお連れになっているわけだし、ね」
その次の瞬間だった。
「ぐがぐぎゃ」「ひぐうっっ」
男達の悲鳴が轟く。どさどさ、という音は彼らが崩れ落ちたものだろうか。
「うっ」亘は背中と腰に強い衝撃を受けて小さく呻く。担ぎ出そうとしていた男が手放したらしい。
「いけないわね。お嬢様は大事なお客様なのに」
「うるせえっ。ぶっ殺してやる」
「おう、手を貸すぜ」
どうやら残った二人でまチャイナドレスの女と相対する腹積もりらしい。
亘が目を開くと、すぐそばには今し方事切れた男の顔があり、驚きのあまり叫び声を上げそうなのを口を閉じてこらえる。
背中を向けているからだろう、男達は亘の様子に気付かない。
だがチャイナドレスの女とは目が合ってしまう。彼女はくすりと微笑む。狸寝入りなどお見通し、とでも言わんばかりに。
「てめぇ、なめるなよっ」
その微笑みを見た男が激高、手足を見る間に変化させる。信じ難い事にそれまで普通だったはずの四肢がドリル状に変異。
「よし、続くぜ」
もう一人はいつの間にか拳銃を構えている。
これまた信じ難い話だが、亘の目には銃がまるで突然発現したかのように見えた。
拳銃男は自分達の優位を確信しているのだろう、余裕綽々で訊ねる。
「一応聞くが姉さんよ、何でだ?」
対してチャイナドレスの女は笑った。
「何でって、何?」
その声音からは、全く相手に対する恐れがない。いや、それだけではなく。
今度はドリル男が「ふざけんな」と怒鳴った。手足がドリル状になったからだろうか、身長が高くなっている。
「仕事は終わってあとは金をもらうだけだった」
「そうだ。金は人数が変わろうが増えない。そう聞いてただろ」
男達にとって何故こんな凶行に出たのかが理解出来ない。
決まった金額を分割するのであれば頭数が減れば手取りも増える。それならばまだ分かる。だがこの仕事は違う。前金と後金の額は決まっていて、争う理由がないのだ。
なのに、だ。視線を巡らせば、そこにはつい今まで生きていた男達が転がっている。
「てめぇは馬鹿か、何でっっっ」
「もう飽きたわ」
チャイナドレスの女はゆっくりとした足取りで前へ出る。その様はまるで場に似つかわしくない。普通に街中を歩くかのような歩幅で男達へと向かう。
「ば、馬鹿にしやがって──」
拳銃男は屈辱感からだろう、手足を震わせるや銃口を相手へ向ける。そして何の躊躇もなく発砲。距離にして十メートルもない間合いでは躱す術などありようはずもない。少なくとも亘はそう思った。
直後、血飛沫が舞い散り、亘の頬を濡らした。