クレイジーボーイ
「あはは、おいおい待てよッッ」
彼は声をあげて追う。今夜の獲物を狙う。
「はっ、はっ、はっ」
獲物となったスーツの男は必死で逃げる。
九頭龍の闇は深い。特に夜中の裏路地ともなれば。
彼がスーツの男を追うのに深い理由等は存在しない。
ただ単に面白そうだから。ただそれだけの理由でしかない。
ガガガリガリガリ──!!
金属バットを地面に擦り付け、軽く火花を放ちながら獲物を追いかける。
狙いはスーツの男が持っていた金の入った財布だ。
スーツの男がここいらの住人ではない事は分かっている。
何故なら、この男は夜の九頭龍の繁華街の裏路地で財布を出して歩いていたのだから。
この通り一帯は別名”泥棒通り”。その名の通りにここ近辺ではスリや車上荒らしといった窃盗犯罪が多い。
もしもこの男が近隣住人であるなら、この路地で人前で財布を見せる様な愚かな真似は、決してしたりはしないのだから。
「ま、待ってくれ」
スーツの男は行き止まりで逃げ場はない。
完全に追い詰められた格好となった男は怯えている。
それも当然といえる。
自分の事をここまで追ってきた青年は普通ではない。
何故ならこの青年はここに来るまでに少なくとも三回。そう、三回は死んだはずなのだから。
一度目はスーツの男の財布を同じく狙ってきた。柄の悪い連中と乱闘騒ぎになった際だ。相手は二人組だった。一人が背後から掴みかかり、そこに金属バットを振り降ろした。
ハッキリと目にした。金属バットが頭蓋骨に叩き込まれたのを。
どう見ても重傷だった青年は崩れ落ち、そこから起き上がった。
不意を突かれた二人組は金属バットを奪われ、為す術もなく撃退された。
そこからスーツの男とこの青年との追いかけっこが開始された。
二度目の死んでもおかしくない出来事はそれから数分後。スーツの男は学生時代はマラソン選手で、走るのは得意だった。その為にあの青年を一度は引き離した。
「はぁ、はぁ」
軽く息を切らしてはいたものの、まだ余力はある。
うねうねとした狭い路地を行き来したので、ここが何処なのかは皆目見当も付かない。ただ、周囲を見回す限りでは繁華街から少し外れた場所なのは間違いない。
さっきまでは、無闇に色々な光に照らされていたのが一変。
街灯は半ば消えており、薄暗い道に密集するように幾つもの家屋が所狭しと立ち並んでおり、時代劇で見る様な長屋を彷彿とさせる。その家屋の群れは真っ暗であり、住人がまだ帰ってきていない事は明白だろう。
相手が追ってこない事でようやくひと心地ついたのか、思わずその場でへたり込む。
ギキキキィィィッッッッ。
車のブレーキ音が響いた。
すぐ近くだ、そう思ったスーツの男はその音の方角に足を運ぶ。
そして目にした。
軽トラックが電柱に激突していた。
酷い激突だったのか、運転席まで大破している。運転手がとても無事だとは思えない。スーツの男は迷わずに携帯を取り出すと救急車を呼ぼうとした。同時に周囲を見て、ここが何処なのかを把握しようと試みて、見つけた。
軽トラックが激突していたのとは逆方向に、誰かが転がっていた。その人物に男は見覚えがあった。
それはついさっきまで自分を追いかけてきたあの青年で間違いない。血塗れだった。当然だ、車に撥ね飛ばされたんだから。死んでいるのか、それとも……?
スーツの男が恐る恐る近付く。
「ひゃあああああ」
そして絶叫した。
有り得ない。有り得ない光景だ。
青年が突如起き上がった。有り得ない。
彼は全身から血を吹き出している。手足の骨も折れているのか、動きがおかしい。
だのに、
気が付けば手足の骨は何事もなく元通りになっていた。
「うわあああああああ」
スーツの男は咄嗟に地面に転がっていた金属バットを手にすると迷わずに振り抜く。
ゴギン、という鈍い音に何かを潰した様な嫌な感触。
生まれて初めて金属バットで人を殴打した結果、理解出来たのは、人は実に簡単に、あっさりと死んでしまうのだ、という事実と実感。
青年は頭部を強打された結果、激しく出血していた。
「あ、あわあああ」
目の前の光景に、自分が他者を手にかけた事に対する後悔。思わず金属バットを手放した。カラン、という甲高い音。
手先が痺れている。それに全身が震える。
自分が人を殺した事実に打ちのめされている。
なのに、それなのに。
目の前の光景が信じられなかった。
青年は起き上がった。ドクドク、と頭部から夥しい流血が止まらない。どう見ても、さっきは死んでいた。そうとしか見えなかったのに。
「な、何で生きてるんだ?」
恐ろしかった、とにかく逃げ出したかった。
だから逃げた。精一杯、足が動く限り全力で走り続けた。
そして彼は追い詰められた。
最早逃げ場はない。青年が金属バットを振りかぶり、……一気に振り下ろした。
ガツン、という鈍痛と共に熱い何かが溢れ出す液体。色は真っ赤で、少し嫌な臭いだ。
目の前が霞む。全身から力が抜けていた。
力なく地面に倒れ伏し、そのまま動かなくなっていく。
スーツの男はこれから自分が死ぬ事に不思議な事に、ほんの少し安心した。
「死ね、死ね、死ねッッ」
青年は笑っていた。たまらなかった、他人が死ぬのを目の前で、特等席で見る事が出来るから。ワクワクする、しと
幾度となく金属バットが振り下ろされる。幾度も、幾度も。繰返し淡々と黙々と。
鈍い何かを潰す。それから堪らない、堪らない。
一体どうしたって言うのだろうか?
何かが死ぬ。殺された、殺した、自分が殺した。
スーツの男は絶命した。間違いなく、殺した。この手で、息の根を止めてやった。
実感したのはスカッとした爽快感。
何かを殺す、というのがこんなにも気分のいいモノだと思いもしなかった。
蟻を潰すのとは大違いだ、と思った。
獲物は蟻とは違い、大きく、だからその分殺し甲斐がある。死ぬまでの時間をたっぷりと味わえる。
青年は思う。
(もっと、もっと、もっとおおおおおお)
そう想い焦がれ、その場を後にした。もう、相手の財布の事など失念している。
ただ、感じたい。……あの手応えを。それだけだった。
◆◆◆
ブシャッッ。
何回耳にしても気色悪い音だと思った。
今の音はここから二百メートル先の道路で相手が”潰れた”音だ。
ちなみにその場所で起きた出来事に気付く者はいない。何故なら、今の音は普通の聴覚では聞き取れないのだから。
では何故聴こえたのか?
簡単な理由だった。それを実行したのが彼女、桜音次歌音であったから。
所謂、”音使い”と分類される彼女には音による物体の破壊が可能だったから。
「あー、面倒臭い。もう、嫌」
彼女はいつも通りに愚痴をつく。
桜音次歌音の普段の任務は”首輪”である。
その対象は同じくWD九頭龍支部に所属しており、パートナーでもある深紅の零こと武藤零二。
彼のイレギュラーの暴走による損害が度を過ぎたと判断、もしくは彼がWDを裏切る様な事態に陥った際に確実に彼を始末出来る、そういう理由で彼女はその役割を割り当てられた。
その役割を割り当てられた際に彼女が思ったのは、すぐに終わる任務だろう、だった。
自分が首輪として監視する対象についての資料には目を通していた。彼がどの位に危険な人物かは充分に理解した。
ある極秘研究施設を文字通りの意味で壊滅させた、という事は、獲物のイレギュラーが如何に危険な物か想像も出来ない。
だからすぐにでも排除命令が出るに違いない。そう思っていた。
だからこそ、驚いたものだ。
その監視する対象があんな奴だった事が。
そう、……それは一年前の事だった。