悪徳の街(The city of vices)その19
(現在)
「じいさん、オイ。しっかりしやがれ」
零二は倒れ込んでいた下村をパニックルームに置かれていたソファーに寝かせる。
同時に傷口を確認。出血の割に傷そのものは深くない。
「おれはいい、死にゃしない。どういう訳だが、急所は外れてやが、る」
「誰にやられた?」
「チャイナドレスの女に、あっという間にな」
「亘はさらわれちまったのか?」
「ああ、連中に殺すつもりはなかったらしい」
「なら、追えるンだよな?」
零二は知っている。下村がこういう事態にも対応出来るように備えているのを。
抜け目のないこの老人が、地面を這いずってここまで来たのにも意味があるのだと知っている。
「当然だ。年期が、違うんだよ、小僧」
青ざめた顔で下村は笑って、そのまま気絶した。その手を開くと鍵が握られていて、零二は鍵を取るとそのまま無言で部屋の壁に突き刺す。
ガチャンという音がして、壁から引き出しが飛び出した。それは小さなトランシーバーのような大きさで液晶が付いている。左端についている電源を入れると、しばらくして無数の小さな波形が円を描いて広がっていき、その途中で光点が点滅。
「ったく、時代遅れのアナログかよ。サンキューな」
零二は一度だけ苦笑すると、電話を入れた。
◆◆◆
「ヒ、ヒィッッ」
暗闇の中を息を切らして走っていく影があった。
「じ、冗談じゃねぇ。なんだよ、ありゃ」
影の正体はドロップアウトのリーダーだったモヒカン頭の男。その顔は真っ青に青ざめており、目は真っ赤に血走っている。
「信じらんねえ、何なんだよぉ、くそ」
気絶から目を覚ました彼は一部始終を見てしまった。
今の今まで普通だったはずの子分達がおかしくなっていく様を。いきなり狂ったかのように、いや、文字通り狂ったのだろうか、叫び声をあげ、もがき苦しみ出す。そうかと思えばアヒャヒャヒャ、と笑い声を出して頭を壁やら地面に叩き付ける。また痒みがあるのか、唐突にシャツを破るとそのまま胸部をかきむしる。
「クスリでもキメたのか、いいや」
クスリに手を出している奴が何人かいるのは知っていた。だが全員がそうではない。そもそも何で全員が同時におかしくなったのか。
(ワケが分かんねえよ、あいつら、どうなっちまったんだ)
モヒカン頭のリーダーとて仮にも集団の長を務めていたのだ。何とか出来るのであれば殴ってでも解決しようと試みていた。
だがあれはどう見ても異常だった。まるで人間じゃなくて、そうまるで。
(あれじゃ怪物みたいじゃないか、んな事があるわきゃ──)
あのままじゃ死ぬ、殺されてしまうという本能の訴えの前に彼は屈した。
だがそれを誰が責められるというのだろう。目の前で自分の想像を絶する出来事が起きて、どれだけの人間が冷静に対応出来るのか、ましてや、どうにか出来ると云うのか?
(あいつら、もうダメなのか)
悪党であっても、仲間ではあった。子分と親分という関係でこそあったが、そんなのは会社勤めであっても社長と社員という関係と大差ないはずだ。
役立たずはぶん殴りもしたし蹴り飛ばしもしたが、追い出した事だけは一度もない。失敗した事は責めるし、そのケジメは付けさせるが、それでも仲間なのだ。親兄弟よりも深い関係であったはずだ。それを。
(おれは見捨てちまった)
怯えてしまった。目の前で起きている異常事態を前に、死を感じて足がすくみ、逃げ出してしまった。
理屈では分かってる、あんなのどうしようもないと。だけどだからといって──。答えなど出るはずもなく、さりとてあそこにいる訳にも行かず、ただ逃げる。そんな自分自身の嫌気を覚え始めた時だった。
延々と続くかと思われた田んぼから脱して、農道へと飛び出した彼の目に眩い光が襲いかかった。さっきまでの暗闇を切り裂くような輝きを前に、たまらず目を閉じて狼狽えるリーダー。ガサガサと何かが近寄る音がし、直後に首筋にチクリとした痛みが生じる。
「な、んだ──う、ぐ、」
猛烈な睡魔を感じ、身体がふらつき出す。
まるで酷い二日酔いのようにグルングルンと視界がぼやけ、何もかもが揺れて、力が抜けていき、遂に力なく崩れ落ちる。
「おやおや、余程疲れていたみたいだ」
閉じゆく意識の中で誰かの声と、足音がする。
確認しようにも目蓋が重く、顔を動かす事さえ億劫に感じた。そして、そのまま意識は閉ざされた。
「予定にはなかったが、どうして彼は無事なのか。これは調べなくてはいけないかもな」
意識を失ったドロップアウトのリーダーを見下ろしながら、その誰かは嗤った。