悪徳の街(The city of vices)その18
「こいつはまずいな」
周囲で起きている異常事態を目の当たりとして、下村は迷わずに逃げる決心をした。
とは言っても倉庫を離れるつもりなどない。
今頃は零二が連絡を受けて向かっているはずだ。ここにいる連中は見たところ一般人。それがどういった理屈からかマイノリティへと変異変成しつつある。
最悪なのは下手にこの場所から離れた所で襲われる事。
(それに、だ)
ちらりと気付かれないように横目で亘を見る。
ここにいるのが自分一人だというのであればどうとでもなる。
逃げに徹するだけなら、幾らだって手立てもあるし、自信もある。
裏社会の住人とは言え、あくまでも一般人である下村には、いざとなった際にマイノリティに抗う術などない。だがWDに協力する以上、身を守る手段は必須。戦っても勝ち目がないのであれば、戦わなければいい。ましてや彼は調達屋なのだ。荒事など以ての外である。
(お嬢ちゃんを守らにゃならんってんだ。外に出るのは下の下だな)
であれば方針は簡単。地下にあるパニックルームへ籠もる事だ。あそこであれば間違いなく時間稼ぎになる。零二が追い付くまで充分に持ちこたえられるはず。
「お嬢ちゃん、行くぞ」
「え、ああ。はい」
亘としては今ここで何が起きているかなど知りようもない。
(何かおかしい)
明らかに異常事態だった。ついさっきまでいきがっていた連中が唐突に苦しみ出し、誰もが悶え苦しんでいる。
(何なの、あれ)
じっくりと見た訳ではないが、倒れている連中の中に身体が膨張していた者がいたように思えた。目の錯覚だろう。そうに決まってる。
(でも、そうじゃなかったら、)
下村老人の様子も妙だった。
顔にこそ出してはいないものの、手の動きなどを見れば一目瞭然。明らかに焦っている。
亘は子供の頃から人を観る目だけはあった。
いつの頃からか相手を観ていれば、それとなく人となりは分かったし、どういった感情を抱いているのかも分かるようにもなった。当たり前のようにも思えるが彼女の場合、それがあまりにも正確でまるでその人物を長年近くで見てきたかのようだった。
ある日その事を話すと、兄であり今は探偵でもある新来耐里は深刻な表情を浮かべると、何故か「誰にも言うなよ」と固く口止めされた事を覚えている。後にも先にもあんな顔を目にしたのはあの時だけだった。
兄が消息を絶った後、彼女が躊躇なく行方を求める事が出来たのも、この観察眼あっての事。子供の頃から今に至る過程で、より多くの事を知る事が可能になり、だからこそろくすっぽ情報のない状態からでも足跡を辿って九頭龍に来る事も出来たし、初見の零二に対しても信用して依頼もしたのだ。
(そう言えばあの時の兄貴の顔──)
その顔にはこれまで一度とて見た事のなかった動揺の色がはっきりと出ていた。平静を装っていても分かる。耐里は何かに怯えていたように見えた。その時の顔がちらつく。
(──下村さんの今の顔に似ている気がする)
何故だろう、嫌な予感がした。寒気が生じて身が震える。
このままじゃマズイ、何がどうした、とは言えないけど、とても嫌な予感が──。
「あの──」
そう思った亘が下村へ声をかけようとした時だった。
「いたぞ、あそこだ!」
不意に誰かの声が聞こえた。
「捕まえろっっ」
「へっへっへ」
下卑た不快な声音と共に誰かが向かってくる足音。
「くそっ」と下村は舌打ちし、急いで地下へと向かおうと試みるも、急に足が止まる。
「な、何なのこれ?」
階段を降りきろうとしていた下村の目の前に回転する柱状のモノがある。
それはどうやらコンクリートの床をくり抜いて来たらしく、天井からはパラパラ、と粉が舞っている。
「おいおい、何処に行くんだよぉ」
回転していたモノはぱっと見では人間だった。ただしその足はまるでドリルのように鋭く尖っている。
「お前、分かっているのか?」
下村はドスの利いた言葉と視線を相手に向ける。
「っっ」
思わず身がすくむ。亘もそれなりに場数を踏んだつもりだったが、そんなもの何の意味もない事を理解した。
「武藤零二を敵に回すって事の意味は分かってるはずだと思うがな」
単なる強がりではないのが亘にも伝わる。
下村は確信を持って脅している。目の前のドリル男? の目が泳ぐのが分かる。こんなどう見ても普通じゃない相手からして、あのツンツン頭の不良少年は恐ろしいらしい。
「う、うるせえ。あいつはここにゃいないのは分かってんだぞ」
この言葉で、今の事態が偶然引き起こされたのではない事が亘にも分かった。
「ほう、そうかい」
当然ながら下村にもそれは分かっている。だからこそ強気でいく。ここで怯めば負けだ。
「奴さんが今ここにいないとして、だ」
絶妙な間の取り具合による語り口を前に、ドリル男はゴクリと息を呑む。
「それで何で間に合わないって言い切れるんだい?」
完全にハッタリ。だって零二は今ここにはいないのだ。だったら悩んでいる位ならさっさと襲いかかればいい。こうして時間を使えば使った分だけ、戻って来る可能性が増すのだから。
冷静にさえなればすぐにでも分かるはずの事。だが場にいた誰しもがその当たり前の事に考えが及ばない。
「おい、逃げるなら今じゃないのか?」
これは下村の口上が見事なのだ。わざと間を取って、それから脅しつける。相手は考えようとしているのに、その都度老人の言葉にそれを乱される。
(凄い、こんなやり方もあるんだ)
亘は舌を巻きつつ、状況を静かに見守る事に徹していた。
完全に場の空気を支配したかと思えた下村だったが、その内心はまさしく薄氷の上を歩いている気分。
何せほんの少しでも言葉や言うタイミングを逸すれば、たちまちの内に自分のような一般人は蹂躙されてしまうのは必定。
勿論表情などには一切出していないつもりだが、冷や汗ものの口八丁。
武藤零二、クリムゾンゼロという存在が恐ろしいという彼らの共通認識があるからこそ成り立つ脅し文句。
(あいつ、普通じゃないとは思ってたけど、)
零二が一体どういた存在なのか、連中の動揺っぷりを見れば良く分かる。
だからこそ、不安材料も明確だとも分かる。
(あいつの事を全然知らないか、もしくは怖がっていない奴がいたら、詰みだ)
この連中相手じゃ自分には何も抗う術はない。それだけは間違いない。
(頼むぜ、早く来いよ、あいつ)
祈るような気持ちで目を閉じたのだが。
「いつまで無駄な時間を使うのかしらね?」
物事のバランスというのは、常に同じ方向、同じ側に傾く訳ではない。
今までが、下村や亘へと傾いていたのが。かくも簡単にひっくり返る。
「あなた方、そこのお爺様に言いようにあしらわれているってお分かりかしら?」
少しハスキーだが間違いなく女性の声だった。
同時にカツン、カツンという足音が地下階段まで聞こえる事からヒールを履いているのだろう。場にいた誰もが、女性が姿を表すのを固唾を飲んで待っていた。
彼女もまたその視線を感じていたらしい。
「あら、待たせてしまったかしら」
身体に密着するようなピッタリとした詰め襟で深いスリットの入った旗袍=チャイナドレスを着た女だった。色はまるで雪を思わせる白で、背は高めで肉感的な体を見せ付けるように歩いている。
「お爺様、ごめんなさいね。上手くいっていたのを邪魔しちゃう格好になってしまって」
うふふ、と笑いながら歩いてきて、先に階段にいたマイノリティ達が何も言わずに道を譲っていく。
「あら、皆さん紳士的なのね」
まるで世間話でもするかのような口振りに、下村すら毒気が抜かれてしまいそうになる。
だが亘は違った。彼女だけはチャイナドレスの女の姿を目にして怖気が走った。
「下村さ──」
警告しようと言葉を発したが遅かった。
「おやすみなさい」
チャイナドレスの女は音もなく忍び寄り──。
「く、ぐっ?」
下村が血飛沫をまき散らす。
「あ、何しやが──」
怒りの言葉を紡がんとした亘の鳩尾に一撃が入り、意識を刈り取られる。
「お爺様は手遅れ。お嬢さんは確保、急ぎなさいな」