悪徳の街(The city of vices)その1
ギィ、ギィ。
何かが軋む音が聞こえる。
「…………」
ギィ、ギィ。ギィ、ギィ。
軋む音は止まらない。一定間隔で、規則的に聞こえる。
木か何かの軋む音だろうか、と男は思う。
「う゛っ」
不意に激しい鈍痛がした。
ズキズキと後頭部が酷く痛み、僅かだが吐き気も感じる。
(派手に殴られたみたいだな、しくじった)
決して相手を舐めたつもりはなかったが、こうなった以上はやはり油断していたのだろうか。
傷の有無を確認したいものの目の前は真っ暗。部屋が暗いとかそれ以前に目隠しをされているから何も見えない。
その上に。
(おまけに手足は殆ど動かない、……定番だな)
ガチャガチャという金属の擦れる音から、手錠をかけられているのも分かった。
(こりゃ、相手の出方を待つしかない、か)
男は息を整え、少しでも気力を回復させようと試みる。
口にも猿ぐつわをされているらしいが、なら鼻で呼吸をすればいいだけ。
出来る事にのみ意識を集中させ、出来ない事は出来ないのだと割り切って、大人しくしてからどれだけ時間が経過したのか。
気付けばミシミシ、という足音が近付いてきた。さっきから聞こえていた軋みは痛んだ床の音らしく、これで今いるここはどうやらさっきまでいた場所ではないらしいと分かった。
「やぁ、どうかな?」
近付いてきた男の声の調子から、嘲りの感情を隠すつもりなどないらしく、くっく、と嗤っている。
「少しは自分の馬鹿さ加減が理解出来たか?」
耳元で囁くような声。彼がここまで相手を見下すのは、鉄製の椅子に手首や足首に取り付けた幾重もの手錠による拘束が万全だから。
文字通りに手足を一ミリとて動かせないような、おまけに目隠しと猿ぐつわを、という念には念を入れたこの状況に満足しているからに他ならない。
「──ッッ」
「ああ、そう言えば君は口が聞けなかったんだったな。道理で静かだと思ったよ」
そう言って何者かは猿ぐつわを乱暴に外した。
途端に、拘束されていた男がぷはー、と盛大に大げさに息を吸ってみせる。
「ふう、やっぱり呼吸ってのは口でするのが一番だよなぁ。でも何にも見えないな。ああ、」
そっか、と思わせぶりにかぶりを振る様子に、何者かは不快感を隠せない。
「貴様、状況が分かっているのか?」
何故こうも不敵な態度を取れるのか。手足はおろか、目も見えず、ついぞ今まで口すら聞くことも叶わなかったのだ。男にはここが何処であるかすら曖昧で、口が聞けるから、といってもこの危機的状況を脱する事など不可能。
「私がその気なら、すぐ殺せるんだぞ?」
むしろここは何とかして助かろうと、懸命に命乞いをする場面のはず。
ほんの今、口にした言葉の通り、いつでも簡単に命を奪えるのだ。であれば、もう少し怯えたっていいはずだ。
だのに、何故。
「いや、悪い悪い」
この男は怯えるそぶりなど全く見せる事なく、こうも堂々としているのだろう。
「確かにこの場面、俺は死にたくないよーってビビらなきゃいけないわな」
「く、っ」
これではまるで立場が逆みたいだと、何者かは小さく舌打ち。
本当であれば、どうやってここまで辿り着いたのか、等々聞き出すべき情報はある訳だが、この様子ではそれすらも時間の無駄になりそうだった。
「いいだろう。貴様には、最高の快楽と苦痛をくれてやるさ」
ならば、やるべき事をやるまでだ、と何者かは結論付ける。
遅かれ早かれ、どうせ同じ結末を迎えるのだ、それが少しばかり早まるだけの事だ。
「快楽ねぇ、どうやらアンタが俺の探してた相手で間違いなさそうだな」
男は自身へと迫る危機など全く気付きもしないのか、この期に及んで堂々としている。
「答える義務はない、待たせたな」
「────」
何者かは一本の注射器を取り出すと、それを迷わずに男の首筋へと突き立てる。
「せいぜい私を楽しませるんだな、探偵さん」
そう言うや否や、注射器から緑色の液体を注入。
「は、────」
男はしばらくすると、ガタガタとその身体を揺らし出し、そして──。
「う、お、がああアアアアアアア」
さっきまでとは一転。まるで獣のような絶叫をあげる。
「そうだ、ようやく叫び声をあげたな。さぁ、もっと悶えろ、叫べ」
溜飲が下がったのか、何者かは満足そうに笑った。
男はひたすらに声の続く限り叫び続け、そしてぷっつりと途切れる。
「気絶したようだな。だが、まだお楽しみはこれからだ。せいぜい楽しませろクズめ」
静まり返った室内で、何者かの嘲笑だけが小さく響き渡った。