もう一人の自分(The other me)その31
夜が明ける。いつものように、当然のように日が昇り、朝を迎える。
新しい一日が始まり、それまで眠っていた人々は目を覚まし、それぞれの営みが始まる。
その朝は珍しく残暑も厳しくなく、涼しくて過ごしやすかった。
「う、っく」
美影が重い目蓋を開こうとするが、上手くいかない。
身体中が重かった。ズッシリとまるで鉛にでもなったかのように重かった。
「う、まぶし」
窓から入った日の光で目の前が真っ白になる。
だが白い視界にも横に誰かがいるのは分かった。椅子に腰掛けていた誰か。
(誰だろ?)
可能性としては、副支部長の家門恵美だろうか。普段は取っ付きにくそうな雰囲気をまとった彼女だが、親しくしていく内に面倒見の良さに驚いたものだった。同じ女性同士というのも相まって、訓練だけじゃなく、日頃の生活等でもアドバイスをもらっていた。
彼女なら、或いは心配してここにいてもおかしくはない。
(うん、そうだね。そうに違いない)
美影はそう結論付けると、目をゴシゴシとして真っ白で朧気な世界から脱していく。
「家門さん、おはようございま──」
そして挨拶の途中で言葉を失う。そこにいたのは。
「な、な、」
あろうことか、あの武藤零二だったのだから。
「な、んでアンタが──」
どうしてこいつがこんな場所に、いやそもそもこいつWDじゃないの、何でアタシの横で寝てるのよ、等々様々な考えが脳裏を駆け巡っては消え、また浮かび上がっていく。
困惑に顔を真っ赤に染めた美影が、傍で船をこぐ零二をどうしたらいいのか分からずに、あたふたしていると。
「ン、──」
「──!」
がくりと頭を落とした拍子で不意に零二が目を覚ます。
「あ、あン?」
一体どうしたのか、ふにゅりとした感触が顔を包む。
「な、ンだよぉ」
最初は枕かと思ったが、自分が使ってる枕ならもっと沈み込むような感触があるはず。この枕はもっと張りがあって、それでいて、妙な柔らかさがある。それに、────。
「なんかいい匂いだよな、コレ」
スンスンと鼻を動かして匂いを嗅ぎつつ、ようやくの事で顔を上げてみると。
「…………………………へ?」
零二の目の前には白い病院着に身を包み込んだ黒髪の少女……美影が顔を真っ赤にしている。
「い、え、? は、何で?」
今まで自分が枕だとばかりに考えていたモノの正体を察し、零二もまた美影に負けず劣らずの勢いで顔を真っ赤に染め上げていく。
「い、いや、これ何? 夢、そか、これ夢だ」
炎熱系のイレギュラー持ちで、汗など普段かかないはずなのに、顔中を汗だくにしながら、ツンツン頭の不良少年は精一杯これが現実ではないのだと自らに言い聞かせていく訳なのだが。
「そうね。夢なら良かったわね」
「はう、っし!」
何処までも、そう何処までも冷たい美影の言葉と視線を受け、これが夢などではないのだと悟る。思わず顔を下へと背けた零二が恐る恐るゆっくりと顔を上げてみると。
「で、何か言うべきコトがあるんじゃない?」
「ウヒッ」
そこには当然の事ながら般若のような形相の美影が睨み付けており、不良少年は自分でも初めて聞いたような何とも情けない悲鳴を上げる。
般若は追求する。
「何でここにいるワケ?」
「い、え、分かりません」
「ふざけてんの?」
「い、いえ、ンな、オホン。そんな訳ありませんです、はい」
「へぇ、武藤零二君は意味もなく、女の子のいる病室で寝るのが趣味なの、へぇ」
「い、や、だから。分からないんだって」
零二は肌で感じていた。目の前の般若の怒りが噴火寸前なのを。このままでは非常にまずい事態になってしまうのだと。
(な、何とかしねェと。ええ、と、ええ、と)
今にも沸騰寸前の美影を何とかなだめようと周囲を見回し、必死に頭を巡らせるも、秒単位で状況が悪化していくのを肌で感じ、汗が止まらない。
そんな中で美影がポツリと訊ねる。
「……それでどうだったの?」
「へ?」
「アンタさっき匂いとか嗅いでたでしょ」
「ああ、匂いね。いい匂いだったな」
「…………そ」
美影の顔に青筋が浮かんでいる事に零二は気付かない。
「じゃあ、触った感触はどうだったの?」
「感触? そンなの決まってンじゃねェか。フニフニとしてて、柔らかかった──あ」
そこまで口にして、ようやく零二は我に返った。目の前の美影の怒りがついに噴火寸前なのを見て取り、自分が一体何を口にしてしまったのかに気付いた。
どうしてこんなにも焦りを覚えるのか、上手く考えがまとまらずに失言を重ねる。
「い、いや。待て悪気はねェ。柔らかかったけどだぜ、そういう意味じゃ皐月の方がもっとこう、ボリューミーっつうか、沈み込ンじまうっつうかさ──あ、」
零二は今ので美影の導火線に着火した事を理解した。
「へぇ、武藤零二君は色々と経験しているんですねぇ」
「う、ヒッ」
じゅ、と頬をかすめたのは炎の槍。
「ア、ッううううう」
零二は今の攻撃に身体が全く対応出来なかった事に困惑した。
本来であれば、今のは熱の壁、或いは炎の壁が発動して然るべき状況のはず。
壁は、零二が本能的に危険を察知する事で発動する、云わば反射的な行動選択であり、本能的なイレギュラー使用なのだが、それが全く出なかったのだ。
「熱い、? 何で?」
そもそも炎熱系能力者である零二には熱さや寒さに対する耐性がある。個々で耐性には差があるが、それでも零二は自分の耐性がそこそこ高いのは知っている。
さっきの炎の槍は、勢いこそあったが本来のソレに比すれば威力は落ちたものであり、その程度であれば耐えられるはずだった。
「何で熱いンだ?」
「へぇ、よく分かんないけど、今のアンタが弱ってるのは理解したわ」
美影がベッドから飛び出した。まさしく鬼、般若の様な表情と共に。
あっという間に零二を引き倒すと、マウントを取り、ニヤリと嗤う。
状況が圧倒的に不利なのを実感したツンツン頭の不良少年は必死の弁解を試みた。
「ま、待て。話せば分かる、きっと分かる。それに、だぜ。仕方ないじゃねェか」
「……何がよ?」
「オトコってのはあれだ、そのおっ○いってのが大好きな生き物なンだろ! ロマンとか、そういう類のモノなンだろが」
「────」
「知ってるンだぞ。男の子の夢ってヤツらしいじゃねェか。そう田島のヤローは言ってたぞ」
ここで一つ言っておくべき事実がある。
武藤零二は、二年前に外の世界に出た。
一般常識など習ってこなかった少年は様々な部分が欠けていた。
勉学という点は当然ながら、感情などもろくに知らず、当然ながら異性への接し方もそう。
秀じいは何とか努力したものの、十数年もの遅れはそうそう埋められるモノではなく、彼の異性への接し方は一言で言えば小学生高学年程度。異性への興味はあるが、それがどういったモノなのか具体的にはまだ知らない状態で止まっている。
そのくせ周囲を見回せば、最近話をする機会が増えた軟派野郎(田島)や武藤の家には色気が完全に過剰殺生な皐月等々。おかげで変な知識だったり、経験をしてしまい彼は一般的な高校生とは完全に基準が狂っていた。
色気とかには苦手意識を持っていながら、中途半端に偏った性知識。それらが奇跡的、悪魔的なレベルで合致しており、それが今の状況を、絶体絶命の危機を招いたのだ。
故に彼はまだ分かっていない。自分の失言がどの位まずいのかを。
美影が沈黙したのを見て、恐る恐る零二は訊ねた。
「あ、あのー、どうした?」
「────」
美影は沈黙を続け、ただふるふると身を震わせるのみ。
「どうやら落ち着いたみてェだな。そうだオトコってのはお○ぱいが好きな生き物なのだぜ」
勝ち誇ったように、ドヤ顔で自分を見下ろす黒髪の少女を一瞥。
「納得したなら、いい加減尻をどけろっての。重いぜ」
彼は今のが地雷を踏み抜いた事に全く気付かない。
「ハハ、ハハハハハ」
「ン? どした?」
零二は突如として笑い声をあげる美影を訝しそうな視線を向ける。
「武藤零二君」
「は、はい」
思わず返事を返す零二は、見てしまった。
その壮絶なまでの憤怒の表情を。
そして大分手遅れだが理解する。怒羅美影、いや、女性を怒らせてはいけないのだと。
「あ、あのー、」
「喋るな」
「う、ヒイッッ」
ようやく支部に到着した歩が呆れた表情で頬をかく。
「あーあ。何やってんだろなあいつら」
外にいても聞こえるけたたましく鳴り響く火災報知器の音。
「フィールドはどっちが張ったんだかなぁ」
これだけ大騒ぎなれば、一般病棟からも注目を惹きそうなものだが、フィールドの展開によって野次馬などは見受けられないのは、配慮と言えばいいのか。
「いやいや。配慮する位なら病室で暴れるなっての」
さて、これはどっちに弁償とかしてもらうのか、と思いつつ、歩は笑う。
「ま、まって下さい」
「うっさい変態ヤローッッッッ」
窓ガラスが吹き飛びながら溶け、そこから炎が吹き出す。
必死の形相で飛び出す零二と、それを追いかける美影。
何とも物騒で、野蛮で、いつも通りの光景だった。