もう一人の自分(The other me)その16
その様子を目にした疑義伸介は、何が起きたのか分からずに、手にした双眼鏡を落とす。
「──なっっ、」
彼自身、自分の役割はあくまでも武藤零二の足止めだと割り切っていた。
ルサンチマンの効力は良くも悪くも大きくはない。効力を発揮するには対象を定め、対象に対して何らかの感情を抱く相手に囁かねばならない。
精神への介入ではなく、感情の誘導こそ真骨頂であり、戦闘には向かない能力。
「今のは、一体──?」
疑義は戦闘を得手にはしていない。ファランクスでの己の役割も、後方支援及びに撹乱であり、それ以上の事を成そうとは彼は思わない。
「くそ、使えない奴だ」
苛立ちを隠す事なく、目の前にあった花瓶を払いのけ、水と花を床にぶちまける。
「もう少しはやるだろうと思ったのに、馬鹿が」
水戸部噛が武藤零二に一蹴されたのを目にした疑義は、零二の姿が消えたのを確認し、接触をした。
両者の戦い、というか小競り合いにより、水戸部噛がマイノリティである事を察知。しかも都合のいい事に武藤零二を憎んでいる点から、イレギュラーの使い方(大雑把な説明)をし、その上で最近出回っている“ヘブン“と呼ばれるドラッグを提供。
これでリーダーの目的の邪魔に成り得る武藤零二を妨害出来るはずが、これは何だ。
一瞬だった。気付かば水戸部の身体は宙を舞い、そして──燃えた。
あのままなら、直撃したはずなのに。武藤零二は無傷。しかも全く消耗した様子すらない。
「くだらない、つまらない、そんなはずない」
疑義の中で武藤零二という存在への恐怖が見る間に広がっていく。
水戸部はまだ目覚めて間もないが、戦闘能力はなかなかのものだった。
最終的には敗北は必至だったが、それでも、少なからず手傷を負わせる事は出来たはず。
「くだらない、くだらない」
想定よりも遥かに悪い状況だった。様子を見る限り、先に影響を及ぼしたはずのWGの二人もまた失敗したのは間違いない。
(どうしてこうなった、ただの時間稼ぎ、だろ)
唇を噛み締め、血が滲み出す。最低限度の役割も果たせぬのであれば、ファランクスから追い出される可能性すらある。リーダーはそういう人物だ。
「だけど、このままじゃ」
この時点で疑義には選択肢があった。
一つは息を潜めて、隠れる事。依頼は失敗だが、自分さえ見つからねば武藤零二は無視出来ない。隠れさえすれば時間稼ぎ、足止めは可能だ。
もう一つは今すぐこの場を離れる事。
(逃げる、馬鹿な。何で逃げなきゃいけない)
そう。役に立たない奴だったが、水戸部噛の存在により、武藤零二は他にも敵がいるのでは、と考えているに違いない。
(そうだ。ここにいればいい。ただそれだけで金が入る)
武藤零二には自分は見つけられる訳もない。索敵能力に優れた相棒がいるそうだが、それも今はいないのは分かってる。
確かに疑義の認識は概ね正しかった。
彼が思っている通り、零二には隠れている相手の特定は難しい。
熱探知眼による追跡は可能だが、それも相手が建物内にいる場合は効果は半減。そこまでの精度を零二にせよ02にせよ持っていない。
「ねぇ、巫女。今、時間あるかい?」
──ん、ゼロ、……あ。レイジ、ごめん。
「いいよ。気にしない。時間は?」
──おれは大丈夫。WGの二人組がチンピラを蹴散らしてる。で、何?
「確認したい。さっきの情報だけど、反応は今も一緒かな?」
──うん。変わらないし、多分当たりだよ。さっきから、音が激しくなってる。明らかに動揺してる。
「そうか。ありがとう」
──気にすんな。レイジ、無事でね。
「当然だ。僕が死んだら、零二にどやされるからね」
「くそ、ちくしょう」
疑義は焦っていた。
逃げる事をせずに、この室内に留まる決断は間違っていないはずだ、と自身に何度言い聞かせただろう。
(焦って逃げようとして、遭遇したなんて笑い話にもならない。これでいい)
今更ながらに、リーダーが常日頃から“逃走経路“の確保の重要性を説いていたが、それが正しかったのだと実感する。
「それにしても、何分だ?」
静まり返った室内で目を閉じ、耳を澄ますと、聞こえてくるのは部屋に置かれた柱時計のチクタクという音。寮の一室に置くような代物ではなく、疑義が実家からこの部屋に運んだ品。
「ふぅ、二分か」
もう二分と言うべきかまだ二分、なのか。いずれにせよ背中は汗でシャツが張り付いており、何とも不快だった。
(冷房の温度を下げるか)
カーテンを締め切った室内は薄暗い。室温はいつも通りのはずだが、妙に暑く感じる。
「はぁ、」
温度設定を下げ、涼しい風が火照った身体を冷やしていく。涼しくなっていくにつれて、さっきまでグチャグチャだった頭の中も落ち着いていく。
(もう少しで本命のバラしが始まる。こっちももう少し粘れば、終わりさ)
リーダー達が狙う標的を確実に始末するのが、自身の仕事。しかも今回、場所はこの学園の敷地内、自身が生活する学生寮から見える高等部。こんなに楽勝な仕事などこれまでなかった。
敷地内に設置された監視カメラはハッキング済み。状況はおおよそ把握している。殺害ならともかくも、単に足止め、妨害だけなら何の問題もないはずだった。
(そうだ。落ち着け、武藤零二に見つからなければいい)
これで終わり。事態の変化を待てばいい。
確かにその判断は正しかった。
武藤零二及びに02では、建物内に身を潜める相手を見つけ出すのは困難を極めたに違いない。
疑義にとって誤算だったのは、まずこの場に02以外に巫女がいた事。余人には気付かない微妙な音を聴き取れる彼女の聴力を以てすれば、建物内に隠れようとも逃げ切れるものではない。
「────」
無数のそれこそ数え切れない音がまるで雨あられと降り注ぐ。
意識を集中させなければ、発狂してもおかしくない程の無作為な、音に溢れた海の中。
「──────」
聴くべき音はただただ一つのみ。
「さて、行くか」
一方、02は相手の特定の為に動き出す。
すう、と息を吐き出し、吸い始める。深呼吸を幾度となく繰り返しつつ、一言誰に言うでもなく、告げる。
「ふうう」
息を吐き、身体に入った余分な力みをほぐすと、“フィールド“を展開。
「ウ、ヒイッ」
疑義の全身を悪寒が走り抜ける。ゾワリ、と背筋を凍り付かせるような不快感。そしてまるで心臓を掴まれたような、独特の圧迫感。
「ふぃ、フィールド?」
フィールドはマイノリティによって個人差がある。
それはフィールドというものが自分と他者とを隔てる壁、結界である事に起因する。
例えば零二であれば、結界内にいる一般人は唐突な暑さにより、一刻も早くこの場から逃げ出さねば、と思い始める。
「────」
疑義が感じるのは暑さとはまるで別のモノ。寒さ、とも異なる感覚。
まるで銃口を突き付けられているかのような、或いはナイフの刃先が喉元に迫っているかのような、緊張感。いや、そうではない。
「まずい、まずい」
例えるなら、圧迫感。狭い室内に閉じ込められるような、壁が迫ってくるようなそれ。
ここにいては危険だ。殺されてしまう、そうした考えが脳裏を埋め尽くしていき、冷静な思考を奪っていく。同時に彼の鼓動は激しく変化していき、
「…………見つけた」
その心音を巫女は聴き逃さない。
「レイジ────」
キィン、耳朶を刺激する音が02に相手の位置を知らせる。
「は、は、逃げないと」
一方で疑義は取る物も取り敢えず自室を飛び出して、非常階段へと向かう。
(ここから出て、それで、そうだ。大学院の講堂だ。あそこなら、大勢のアホ共がいる。ルサンチマンでそいつらを誘導して、武藤零二にぶつけちまえば)
次に取るべき行動を定め、非常階段に通じるドアを開いた次の瞬間だった。疑義は悲鳴をあげる。
「う、ヒィッ」
「やぁ」
いかにも親しげな言葉。されどその表情には一切の感情はなく、02がそこにいた。