もう一人の自分(The other me)その10
「くだらないね。本当にくだらない」
通称“ルサンチマン“こと疑義信介は、世の中に心底から嫌気がさしていた。
「世の中なんて簡単過ぎてつまらないじゃない? ねぇ、どう思う?」
問いかけたのは、自分が眠っていたベッドに寝そべる女性。どうやら眠っているのか、疑義の問いかけに返事はない。
「ったく、いい気なものだよ」
ブツブツと独り言を呟きつつ、バスローブを放り投げ、ソファーにかけてあったシャツを着込む。さらに同じくかけてあったジーンズを履く。
「あいつはいつだってそうだ」
視線を向ければ、時計の針は午前三時を回った所。カーテンを開いてみれば、当然ながらまだまだ外は真っ暗。
「こっちの都合なんてお構いなし。自分の都合でしか物事を判断していない、ああ」
疑義は苛立ちながらも、洗面所で顔を洗うと、タオルで顔を拭き、鏡に映った顔を見る。何度見ても不健康そうな己の顔に、薄い眉をピクリと動かす。
「金払いが良くなかったなら、すぐにでも縁を切ってしまいたいよ」
そう。文句を言いつつも疑義信介がリーダーからの依頼を請け負うのは、ひとえに金が欲しいからであり、支払われる金額にだけは満足していたから。
「全く、今日の標的は……武藤零二? 確かクリムゾンゼロとかいう」
彼がWDの一員になったのは、二ヶ月前の事。リーダーから直々にスカウトされ、承認したのと同時に九条羽鳥に面会させられた。
「ああ、そうか。九条羽鳥は死んだんだよ。だから、いいのか」
九条羽鳥に面会した際に、何点かの注意事項があった。
その中にクリムゾンゼロへの手出しは厳禁というものがあった。
理由など訊ねるつもりもなかったが、恐らくは九条羽鳥にとってのお気に入り、だったのだろう。少なくとも、それがWDのエージェントや関係者などの一般認識。
髪を整えると、ギシ、と後ろでベッドが軋む音が聞こえる。どうやら眠っていた彼女が目を覚ましたらしい。
「まぁ細かい事はどうでもいい。ぼくとしちゃ、金さえ貰えるなら、ね。
ああ、そうだ。ここの部屋代は君にお任せするよ。だって、僕は無職の学生で、君は大手企業の秘書さんなんだし」
「…………はい、わかりました。信介さん」
その声、言葉にはおよそ感情の起伏などなく、疑義もまた何も言葉を返さずに部屋を後にした。
◆
(数時間後)
登校時間となり、学園には大勢の学生達の姿があった。
それぞれの学舎へ向けて歩き出す。
大半の生徒が楽しそうな顔をしており、今日を如何にして楽しく過ごそうかと考えている。
そんな様子を、疑義は陰気な声で吐き捨てる。
「くだらないね」
時間を見ながら、意識を集中させる。イレギュラーを発動させ、あとは”仕掛け”にかかる何者かを待つのみ。
「────」
待つ。ただ待つ。今回の仕掛けは誰にでも発動するものではない。
標的たる武藤零二に対してのみ、仕掛けの条件に一致する相手のみを釣り上げるもの。
最悪、誰もかからない可能性すらあるが、その可能性は低い。
(確か、高等部にはWGの連中がいたはずだ)
事前に掴んでいる情報通りなら、そいつらが仕掛けにかかるだろう。
「……来たか」
目を瞑っていた疑義は、獲物がかかったと認識。意識を集中させ、植え付けていく。
「武藤零二を憎め、殺したい程に憎め、憎め、憎め、憎め──」
まるで呪術の儀式でもしているかのような、怨念のこもった言葉を繰り返し繰り返し吐き出し続ける。
「憎め、殺したい程に憎め」
そうして同じ言葉を一体何度口にしたのか、疑義の顔色は病的なまでに青白く、汗ばむ。
「仕掛けは終わったな」
あとは事態の推移を見物するのみ。かかったのはWGの二人組。武藤零二への憎悪を植え付けたから、程なくして何らかの動きを見せるだろう。
「馬鹿ばかりだ。世の中は」
何もかもを馬鹿にするような言葉を吐いて、疑義はようやく満足そうな笑みを浮かべた。