もう一人の自分(The other me)その6
廊下を歩きながら零二? は思わずため息をついた。
「はぁ、どうにも上手くいかないな」
これまでの自らの言動には何の落ち度もなかった。
他者を貶めるような失言もないはずだし、不必要に挑発的な行為だってとってはいないはず。
「なのに、どうしてこう、ああ」
上手くいかない理由が分からない。
ずっと、という訳ではない。いつの頃からか、武藤零二、というモノの内側から世界を眺めていた。
「どう客観的に見ても彼の普段の言動を鑑みれば、さしたる意味もなく敵を作る一方のはず。その点僕は十二分に配慮しているのに……」
一番近くから、最前列の特等席から、武藤零二が引き起こした問題の数々を観てきた。
中には不可抗力の場合だってあったが、それとて彼があたら好戦的な言動を慎めば、そこまでの事態には至らなかった場合も多々ある。
「僕は、無意味な闘争が嫌いだ」
零二? にとってそれはずっと前から、白い箱庭にいた頃からの偽らざる本音。
多くの仲間を手にかけたが、一度だって気が進まなかった。
「何で戦わなければならない」
戦わなければ、誰も傷付かない。誰も死なずに済む。
「どうして争わねばならない」
戦わなくとも、人はいずれ死ぬ。不死不滅の存在ではない。病気や、事故。自然災害等々、見渡せば、鑑みれば、幾らだって世界には死という事実が溢れ返っている。
「なのに、どうして戦い、争うんだろうな?」
問いかけるべき相手は、ここにはいない。武藤零二は、今、入れ替わる格好で眠りに就いているのだから。
授業時間中、という事もあってか、廊下は静寂に包まれている。
耳を澄まさば教室から、教師の声が聞こえ、生徒の声もちらほら。
零二? は心地よさを感じつつ、ゆっくりと静かに歩いていく。
(彼女はどうしたんだろうか?)
正直言って、授業には興味はなかった。彼にとっての興味はただの一つ。
黒髪をたなびかせ、炎を操る少女。
(あまり時間は残っていない)
分かっていた事だ。本来、ここではない別の場所。空間に辛うじて存在を許されていたようなか細く、儚いモノ。
だからこれは。
(これは、奇跡みたいな偶然)
ほんの微かな可能性、僅かな隙間を縫ってここに何とか割り込んだ。
(僕は、彼女を一目見たい)
たったそれだけが彼の望みだった。世界に、表に出たというのに。
「何にせよ、少し気分を変えよう」
学校の授業というものにも多少の興味はあったが、実際それを目の前の最前列で見た感想は、つまらなかった、という事だけ。
「先生という人は何年も勉強して、試験に合格してなると聞いたが」
小林教諭の授業内容は、彼にとってはずっと前に知っていた程度のもの。
今更、聞いても仕方がないと思える程度のもの。
「それに、何と言えばいいか、説明が回りくどくて──」
彼にとってみれば、勿体付けてばかりで内容の乏しい説明文を聞かされているようなものであり、その結果が今のこの状況だった。
「とりあえずは、外にでも……ん?」
零二? は足を止めると、周囲を見回す。
「何か、聞こえたような」
耳を澄ませ、窓を開いて、そして目撃したのは。
ばん、という派手な音が響く。
「おいおい、何を怖がっちゃってんのよぉ」
下卑た声をあげるのは高等部の生徒。丸坊主に耳や鼻にはピアス。そして一八〇はあろうかという見た目も相まって、大人しい印象など微塵もない、見た目不良そのものな生徒。
「や、やめてください。水戸部先輩」
一方で、水戸部に対して怯えているのは、中等部の男子生徒。大柄な水戸部とは異なり、背丈は低く、身体の線も細い。おどおどした態度からも気が弱いであろう事は明白。
「ちょっとよしてくれないかなぁ。これじゃまるで俺がいじめてるみたいじゃないかよぉ」
ああん、と凄みつつ、水戸部は自分に怯える年少者を見下ろす。
「ああ、傷付いたなぁ。俺は傷付いちまったよぉ」
大仰に、芝居がかった仕草でかぶりを振る水戸部の姿は、傍目より見れば滑稽だったろう。ただし、仮にその姿を目にしたからとて、笑える者はそうはいまい。
水戸部噛。
九頭龍学園高等部三年生。元は空手部部員だったが、暴力事件を起こして退部。退学になりそうだったのを免れたのは、彼の父方が堅気ではない一家の幹部筋だからだという噂がある。
空手部退部後も度々暴力沙汰を起こしており、学園内でも屈指の問題児。
元々空手の腕を見込まれてのスポーツ推薦入学者という事もあり、その腕は確かで、教職員も返り討ちに遭うのが恐ろしくて注意も出来ない、という男だった。
そんな札付きのワルに凄まれては、中等部の少年は縮み上がる他ない。
目から涙を流し、必死に謝る。
「ごめんなさいごめんなさい、許してください」
そんな相手の怯えた様子を見て、水戸部は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「なぁ中坊、俺だって悪魔じゃないんだ。ほんの少しだけ助けてくれればお前のやった非礼は忘れてやるよ。とりあえず、五万寄越せ」
「…………無理です」
「おいおい、お前ふざけてんのか? ああん」
声を荒げて、水戸部は中等部の少年めがけて蹴りを放った。
「ひいっ」
風を感じ、恐怖で思わず目を閉じる。
ばん、と今度は顔すれすれに水戸部の靴が直撃。見ればコンクリートの壁には小さいながらも亀裂が生じており、もしも顔面に受けていればどうなったか、と顔を青くする。
標的の動揺を見て取った水戸部はここで用件を切り出す。
「なぁ、俺さ今ちょいと小遣い足りなくて困ってるんだわぁ」
「え?」
「小遣いが足りねえんだよ、聞こえてるだろ?」
「は、はい」
中等部の少年は学園内でも有数の悪名を持つ水戸部に凄まれ、完全に頭がパニックになっていた。
彼の頭の中にあったのは、ただ一つ。
”何でこんな目に?”
という思いだった。
目の前の不良にとって自分は財布みたいなモノでしかないのだろう。
寝坊して、近道をしたのがいけなかった。
(ああ、くそったれ)
その道には水戸部がいて、目を付けられて、今のこの状況。
「俺は気が長くないんだよ。早く金出せっていってんだけどよぉ」
そして水戸部は拳を握り締め、これ見よがしに突き出してみせる。
「さっさと出さないと、そのきれいなツラがぐっちゃぐちゃになっちまうぜっっ」
ぶん、と突きを放ち、威嚇してみせる。中等部の少年は拳が自分を直撃する想像をしてしまい、そこで心が折れ、財布を取り出す。
「そうだよ。最初っからそうすりゃあ」
水戸部は獰猛に笑い、財布を奪い取ろうと手を伸ばし────。
”パシャ”
というシャッター音で動きを止め、音の方へと振り向く。
「ええ、と、これでいいんだよね」
そこにいたのは。
中等部の少年はその姿に軽く悲鳴をあげる。
「え、ひぃっ」
水戸部は、一瞬びくつき、そして凄む。
「て、めぇ。武藤零二っっ」
「え、ああ、そうか。僕の事だったな」
零二? は戸惑いながらも、水戸部の元へと歩み寄っていく。
「な、くっ」
水戸部は一見無防備にしか見えない相手を前に、動けない。
零二? の歩みにはおよそ無駄がなく、攻撃しようにもその隙が伺えない。
そうこうしている間に零二? は水戸部を横切っていくと、中等部の少年へと手を差し伸べて声をかける。
「立てるかな?」
手を差し出された当人は何が起きたのかよく分からずに、キョトンとした顔で「ああ、はい」とだけ返事を返すと手を握って、立ち上がる。
「じゃ、早く行くんだ」
「あ、はい。その、ありがとうございます」
「うん。どうしたしまして」
そうしてその場から走り去っていく中等部の少年を見送ると、零二? は顔を横へと逸らす。そこを蹴り足が通過。
零二? はまるで気にする様子もなく、「ああ、君の相手をしなくちゃな」と言うとゆっくりと振り向く。
「てめぇ、ざけんなよ」
自分の事を下に見ているのがありありと感じられ、水戸部は怒り心頭。顔を真っ赤に染め上げ、「ぶっ殺す」と怒鳴りつつ、得意技である右の上段蹴りを放った。サンドバッグをも揺らす一撃を叩き込まれれば終わりだ。そう思っての一撃。零二? は避ける素振りもなく立ち尽くしたまま、直撃。勝利を確信したのか「よっしゃ、死にやがれっっ」と口元を歪ませるも。
「何かしたのかな?」
零二は全く動じていない。まともに側頭部に蹴りを受けたにも関わらず、何事もなかったかの如く平然と涼しい顔のまま、立っている。
「ば、バカな」
動揺しながら蹴り足を引き、水戸部はならば、とばかりに今度は左の上段蹴りを放った。
「満足したかな?」
「へ?」
気付かば水戸部の巨体は空を舞っている。何をされたか全く分からないままに地面へと落下し、あ然としたままに目の前には手刀。寸止めで止まっている。
「もうくだらない事はしないようにね」
淡々と告げると、零二? はくるりと背を向け、また歩き出す。
水戸部には理解が出来ない。今のタイミングは完璧だった。あの手刀が振り下ろされていたら、間違いなく気絶していただろう。何故、それをすんでのところで止めたのかが分からない。
「な、何なんだお前?」
「武藤零二、知ってるんだろ?」
じゃあ、と軽く手を振ってツンツン頭の後輩は去っていく。
その背中を見て、しばしの間呆然とした後、「くそ、くそ、くそ」と水戸部は地面に幾度も拳を叩き付ける。
「舐めやがって、ふざけやがってッッッッ」
怒りに身を震わせ、怒号の声をあげた。
そしてその様子を窺う目があった。
「へぇ。なかなか、興味深いな」
その目はまずは水戸部を見て、それから零二? へと向けられる。
「ちょっとした暇潰しのつもりだったけども……」
明らかな悪意を含んだ言葉を口にし、その目は再度水戸部へと向けられた。




