狂信者(Fanatic)その24
ビルの中の空気が変わる。より正確に言えば、温度が変わっていく。
一階フロア、カラス張りの窓がピシピシと歪み、溶けて、割れ砕け散っていく。
その原因はフロア内にて拘束された怪物の抵抗から。
「あ、ぐ、が、ああああああああああ」
破壊者の呻き苦しむ声がビル内で木霊する。破壊者を苛む苦痛は炎だけではない。先程の氷は炎の槍が炸裂した瞬間に消え失せるのではなく、無数の氷の針となり、全身を内側から食い破らんとする。さらに、その前、後で撃ち込まれた歩の血もまた蠢動。全身を振動させ、破壊していく。デモリッションが長年の投薬によって如何に痛みに強くなろうとも、その痛みは外部刺激。今、全身を苛む途方もない内部刺激を受けた経験など皆無。
未知の痛みの耐え方など知るはずもない。
「ハァ、ハァ、」
ぎゃあああ、という苦悶の叫びにホッとしたのか、美影は全身から力が抜けて、その場にへたり込む。左右逆に氷炎を使う、それだけの事だが酷く消耗した。そもそもスイッチをオンにしているだけで著しく消耗していたのだ、もう余力など殆ど残ってはいない。
(確かに、効果あったわね)
慣れない能力の行使は、想像以上の効力と同時に自身の体力気力の限界をも招いた。
「大丈夫か、美影ちゃん」
「ええ、何とか」
疲労による倦怠感からだろう、歩の軽口に反発する事すら出来ない。
歩も美影のリアクションを見て少女の状態を理解。
「う、」
小さく呻くと意識を失い、崩れ落ちたその肩を歩が支える。
「やれやれ、だな」
苦笑しつつも、その身を抱え上げ、ゆっくりとした足取りで美影を運ぶと、まだ大した破損も受けていない壁に、壊れ物でも扱うかのように優しく預ける。
「すまなかった。君に無理をさせた」
小さな寝息を立てる黒髪の少女に、普段からは想像も付かないような優しい笑顔を向け、謝罪の言葉を口にする。
歩がすぐに美影を助けなかったのにも理由があった。
まず第一にビルの倒壊を防ぐのが最優先だった。そこで壁や地面に巡らせた自身の血で破損した箇所を塞ぐのに手間をかけた。そうして塞いだ箇所を維持しつつ、ビル内の一般人を支部のメンバーが救出し終わるのを待った。それが終わったとの通信を受けたのがこの十秒前。
「本当に無理をかけた」
最初は即座に介入をしようと思った。デモリッションの能力、相手の動きを視るという力は戦闘に於いて圧倒的なアドバンテージを与える。筋肉、骨格の動きを視える、というのは単に相手の動きのみを捉えるのではない。骨、筋肉の軋みから相手が今、何を考えているのかまでをも見通す。拡大解釈かも知れないが、美影の火球をああも容易くいなせたのは彼女の攻撃が次にどうやって、どの角度から放たれるかまで見通す事が出来たから。
(考えるだにとんでもない話だぜ)
単にフリーク化したから、理性を失ったから、というだけではここまで能力を扱えるものではないだろう。勘がいいとかそういう類の本能ではなく、最低限度の思考力、認識力がなければならない。
「つまりは、あんたは意図的にそうなれるって事だよな」
歩の目は鋭く細められ、後ろで悶え苦しむ相手を射抜かんばかりに見据える。
「か、イホオオオオオ」
破壊者は明確な憎悪を剥き出しにして応じる。
「さ、後はお前さんの後始末だな」
対して、歩は何処吹く風とばかりに不敵に笑った。
「く、う、う゛おごっっ」
破壊者の異名そのものとも云えた肉体が見る間に弱体化していく。
フリーク化、とはマイノリティの潜在能力の全開での暴走状態だ。
本来発揮する事すら叶わぬ限界。肉体、生命の危機を乗り越える為に精神を犠牲にし、肉体を極限にまで変異、変質させる。
イレギュラーもまたそれまで以上に強力となり、これを止めるのは困難。それ故にこれまでフリークに成り果てたマイノリティの制圧には多くの犠牲を出してきた。
フリーク化したマイノリティを制圧する方法は結局二つ。
一つは圧倒的な戦力、兵力投下。一つは圧倒的なイレギュラーを担うマイノリティによる攻撃。いずれにしても犠牲は必ず生じる。
「う、う゛ぉあああああああ」
だが、フリーク化にも弱点は存在する。
それは常に全開状態である事。持てる全ての力を発揮させた上での暴走だという事。
確かにフリーク化は圧倒的な戦闘力を誇る。だがそれは諸刃の刃でもある。通常以上の能力の行使とはそれだけ多くの消耗をも引き起こす。生命力が底上げされたとて、限界はある。
分水嶺を越えた時、フリークもまた限界を迎え、その力を喪失する。
「どうやら、限界を迎えたみたいだな」
されど歩は、あくまで冷静に敵の様子を窺う。
万が一、相手に余力が残されていて、機会を窺っている、そういった可能性をも考え、決して油断する事なく、デモリッションを拘束する血の柱に意識を集中させ続ける。
「ク、グボヴォッッッ」
獣のような呻き声、落ち着きなく全身を震わせる様は、ビクビクとまるで丘に打ち上げられた魚のようにも見える。
「苦しそうだな。いいぜ、ならひとおもいに」
そう言葉をかけ、血を塗ったナイフを構えると、瀕死の相手へ突き立てんとした。
(かいほう、解放、かいほうせねば)
今や風前の灯火となった破壊者の脳裏には、その事だけが渦巻いている。
(偉大なる指導者、あのお方より与えられた神聖な役割。この身には過ぎたる名誉)
フリーク化してもなお、自身の本能ではなく、敬愛するかの人物から与えられた役割を実行する事のみにしか関心を持たなかった彼は、最低限度の理性を保っていた。
なればこそ、分かる。もはや手遅れだという事が。いつもであれば、神の奇跡により多少の傷などいつの間にか治っているはずなのに、回復する兆候が全くない。
身体の内側が燃え、突き刺され、そして血液が逆流し、破壊されていく。
これは致命的だ、と分かる。
(偉大なる指導者。この非才の身をお許しくださいませ)
間もなく死ぬ、魂は肉体から解放されるだろう。これは逃れ得ぬ事実だ。だが、だからこそ。
破壊者の視線は自分へと迫る憎き相手へと向けられる。
(だが、元を正せば、こうなったのも──)
ギョロリ、とその目を、偉大なる指導者より賜った魔眼を黒髪の少女へと向ける。
(ファニーフェイス、お前のせいだ)
あの黒髪の少女が先だって、彼女を打破しなければ。
(先導者は、彼女は)
幾度か言葉を交わした際に、破壊者、解放者はその姿に心を奪われた。
まるで蝋人形のような白い肌。無機質で、何もかもを見下すような目。美しい髪、声音、あらゆるもの立ち振る舞い全てが破壊者の心を掴んだ。
(彼女をいつか……)
そう。気付けばそう思った。
(解放してさしあげねば)
彼にとって全ての存在は偉大なる指導者への、彼の神への供物。強い供物の方が弱いよりも素晴らしく、ましてそれが美しいのであれば文句の付けようなどない。
(それを、それを、ソレヲヲヲ)
ファニーフェイスはその機会を奪った。ベルウェザーは消えてしまい、彼のささやかな夢はなくなった。だからこそ九頭龍へ赴いて、ファニーフェイスを狙え、という指導者からの指示は天啓だった。
「──」
歩のナイフが向かってくる。魔眼で視るまでもない。狙いは心臓。一突きで命を断ち切る意図だろう。認めるのは癪だが、確かに逃げようがない。全身を血の柱で縫い付けられてはどうしようもない。あの刃は届くだろう。
だが。
それは身体がこのまま、であればの話だ。
「クヴガアアアアアアアアア」
絶叫と共にデモリッションは肉体を変異させた。全身を萎ませ、まるでビニール人形の空気を抜くかのように小さくさせる。柱の拘束自体からは逃れ得ぬ。だが心臓にその刃は届かない。萎んだ先にあるのは肩口だ。即死には至らない。
「アアアアアアア」
その上でデモリッションは今度は左腕に全意識を、全余力を集約。腕を一瞬で肥大化。その勢いは凄まじく、拘束していた柱すら砕いてみせた。
「──な」
「アアアアアアアアアア」
左腕一本あれば充分。相手は自分から進み出ている。容易く解放出来る。
ざまぁみろ、お前如き簡単にころしてやる。どうしようもあるまい。目を閉じたのは諦めからだろう。なのに、──何故口元が笑っている。
タアン、という音がして。
次いでガラスが割れたような音が聞こえた。
「な、ッッッ」
破壊者は目を大きく見開く。極太の丸太のような己の腕が吹き飛んでいた。
「──間に合った」
家門恵美は銃口を外し、目的を達した事に安堵する。美影が囮となり引き付け、歩が仕込み、家門は万が一に備えて援護出来るように移動。
向かい側のビルからの道中で、数人の恐らくはNWE関係者らしき相手と交戦した。撃退には成功したが、そのおかげで危うく間に合わなくなる所だった。
「もう問題ない」
ともあれ役割は果たした。
歩は心底から申し訳なさそうに告げる。
「悪いね。あんたは強かったさ」
ナイフを突き立て、刃先を押し込む。肩口であっても問題はない。何故なら、この刺突の目的はだめ押しだから。心底であれば最上だったが、だが別に外れたとて問題ない。
大事なのは、相手の体内へ刃に付着させた血を流し込む事なのだ。このわずか数滴足らずの血液こそがトドメなのだから。念入りに刃をねじ込み、浸透させるように。
「ウ、ヴオッッ」
デモリッションの体内に大きな変化が生じた。
さっきまでの全身を燃やし、貫く痛みが増大していく。倍、三倍、いやそんな次元ではない。
「な、ニヲシタッッッ」
全身が急速に膨らんでいく。しぼませた風船に再度空気を流し込むように一気に。
「でもさ、」歩は耳元で囁いた。
「あんたは一人だけ、こっちは三人。いかに強くたってあんたはあんたしか頼れない」
「キ、グヴウウウウウ」
デモリッションはボコボコボコ、と膨らんでいく自身の身体を呆然と眺める。さっきまでとは違う。このまま膨張し続けていけばどうなるか、考えるまでもない。
「ここがあんたの終着駅だ」
歩はナイフを引き抜き、背を向けゆっくりと歩き出す。
「マ、テ、ゴヴフッッ、────キサマアアアアアアア」
それがデモリッション、破壊者の最期の言葉となる。
限界まで膨らみきった風船がそうなるように彼は爆ぜた。炎を撒き散らし、氷の欠片を吹き出して跡形もなく吹き飛んだ。
ビルを後にした歩へと、家門が駆け寄って訊ねる。
「支部長、彼女は?」
「ああ、問題ないよ」
歩は抱きかかえた美影の顔を一目見て、笑った。
「とりあえずは、俺達の勝利だよ」
その言葉が果たして誰に対してのものだったのか、家門には分からない。
腕時計の針は、午前一時五十分を指し示していた。




