全速力
「うおあああああああ」
叫びをあげながら縁起祀は速度を解放する。
それは最早、風の様だ。
あまりの速さに残像が残り、瞬時に間合いを詰めていく。
「っしゃあああっ」
一方の零二も自身が内包する熱を解放、突進をかける。その速度は常人の理解を絶する物だったが、目の前の相手のそれはその彼の理解をすら越えていた。
彼が一歩を踏み込む頃には距離がおよそ半分。
もう一歩の時には肉迫。
時間にしてコンマ何秒なのか分からない。
とにかく、零二よりも圧倒的に相手は速かった。
ドオン、という腹部に強い衝撃が走る。
気が付くと、零二の身体は後方に飛ぶ。
何がされたかすらボヤけて見えた。
まだ痛みすら知覚していない。あまりの速さを前にして。
熱の壁は発動していない。あまりの速さの前に対応が間に合わないらしい。
ズザザザザ、という地面を擦る音。
何とか着地はしたが、正直言って驚いた。
こんなのは初めてだ。
零二もまた系統こそ違うが、自分の速度にはそこそこ自信はあった。現にこれ迄様々な相手と戦ってきたが、その全ての相手に通用した。
だが、今回は違う。
完全に別格の速さだった。
彼の目でも正確な動きを追えない。
常識はずれなイレギュラーならこれ迄も散々お目にかかってはきたが、こんな経験は初めてだ。
(ったく、デタラメな速さだな、こりゃあよ……)
だが、息つく暇などはない。
縁起祀は止まらない。一瞬だけ動きを止めた様に見えたが、次の瞬間にはまた姿が消える。
風を切る音が微かに耳に入る。
咄嗟に両腕を前に構える。
バチン、という鋭い音。
相手がこちらに向けて上段蹴りを放っていた。
強烈だ、単なる蹴りだというのにまるでよくしなる鞭の様だ。
「しっ、」
舌打ちのような声を出し、蹴り足を戻すと縁起祀は再度姿を消す。
「ぐ、くっ」
今度は後頭部に鈍器で殴られた様な衝撃。
縁起祀は殆ど一瞬で背後に回り込み、──両手を組んで勢いよく殴り付けていた。
よろめく零二の鳩尾に今度は何かが突き刺さる。
一瞬で相手は前に移動。ボディブローを喰らわせたのだ。
零二は踏みとどまって下がった頭を振り上げる。手応えはない。
ザッ、という音。縁起祀はまた一瞬で間合いを外したらしい。
時間にして今ので恐らくは三秒から四秒だろうか。
今さらになって、身体にさっきの攻撃の痛みが走る。
恐らくは体当たりだろうが、相手の速度もあり強烈だ。
何度も貰い続ければキツい。
(一分か、こりゃあ充分にお釣りが来そうだな。さって、どうすっかなぁ)
とは言っても零二に出来るのは前に出る事のみ。
その一歩を少しでも早く。少しでも鋭くしていく。
(倒れない、今のでダメなのか?)
一方で縁起祀は相手のタフさに驚きを隠せない。
最初の一撃で肩からぶちかまして、蹴りを放ち、交差させた両手をハンマーの様に振り抜き、最後は鳩尾に拳をめり込ませたのに。
今のを喰らってもなお、相手の戦意は衰えない。それどころかさっきよりも目がギラついてさえいる。
向かって来る相手の顔からは焦りの色は伺えない。
さっきよりも確実に鋭く踏み込んで来る。
左拳を握るのが見える。
ストレートを放つつもりの様だ。
(でも遅い!!)
縁起祀にとってはまだまだ遅く感じるレベル。相手の左手を自身の右手を前に添えて制する。そうした上で彼女の左手が動く。
腰を捻りながら左肘を振るう。狙いは顔面。
ガキン、肘が鈍い音を立てる。だが、狙い通りにはいかない。
頬骨を砕くつもりの一撃は相手の額で遮られる。
(な、んだと?)
彼女は驚くしかない。今のタイミングは完璧だったはず。
だと言うのに零二の動きは想像を越えた。殆どゼロ距離だったというのに縁起祀の攻撃は狙いを逸らされたのだから。
(チッッ、……いってェな)
零二は内心舌打ちしたい気分だった。
辛うじて呻き声をあげずに耐えたものの、キツい一撃だった。
どうやら嫌な予感は当たったらしい。
恐らくは肘での一撃だろう。
突き刺さる様な痛烈な痛みが額に走った。咄嗟に額を突き出した訳だが、どうやら割れたらしい。ドロリとした生暖かい血が流れ出すのが分かる。
(相打ち狙いだったけど、失敗だな)
拳だったら今のでおしゃかに出来たが、流石にそこまで上手くはいかないらしい。
互いに一旦飛び退き、間合いを取った。
ヒリヒリ、とした痺れを肘に感じる。
(くそッ、石頭め)
折れてはいないが、酷く痛む。縁起祀はそうして思い出す。
今、目の前にいる相手は以前、自分に”非日常”の世界が存在する事を教えてくれた人物であったのだ、と。
今でも思い浮かぶ。……あの圧倒的な迄の破壊の跡を。
ゾクッとした震えを感じる。間違いなく相手は化け物だ。
(でも勝てない相手じゃない)
そう、今の彼女は相手に勝っているのだ。
額の傷を指でそっと触れてみる。傷は深くはない。この程度であるなら、リカバーを使う必要もないだろう。実際、既に傷は塞がりつつある。
(さて、こいつぁマズイな)
目の前の最速の相手に対し、どう対応をすればいいかについて思考を巡らせる。
「!! っと」
縁起祀の姿が消えた。来る、と構えた瞬間にはもう相手は横にいた。通り過ぎながらの肘での一撃が肋に刺さる。
メキメキ、という感覚は恐らくは相手にも伝わっただろう。
「いってーなッッッッ」
零二は肋が痛むのを無視してそのまま右の裏拳を相手へ放つ。
だが当然とでも云うべきか相手はもうそこにはいない。
膝が崩れる。彼女に膝裏を蹴られたらしい。
耳元で声がする。
「あんたに恨みはない──でも!!」
そこからは何をされたのかは分からない。
知覚すら出来ない無数の攻撃を無防備になった所に喰らった。
左右のフックは相手の顔面を捉える。
鳩尾に左肘を叩き込む。相手の肩を掴み引き寄せると、即座に左膝を肋にめり込ませる。一度、二度、と肋骨が折れたであろう右の脇腹へ。突き飛ばしてそこにトドメの右での前蹴りを顔面へと直撃させる。相手は、武藤零二は成す術もなく無様に後ろへと倒れていき、転がった。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
縁起祀は思わず肩で息をする。
今の攻撃は間違いなく彼女の”全速力”だった。
攻撃自体は極々単純なケンカ技ばかりだ。
だが彼女の場合、その単純な攻撃が必殺の一撃に変わる。
理由は単純明快だ、彼女の速度の前ではどんな相手も無防備も同然なのだから。どんなに強い相手だろうと彼女には遅い。その速度が加味された攻撃は強力無比。小細工など必要ですらない。
だが、欠点もある。全速力は極めて短時間しか使えないのだ。
全身の筋肉がミシミシ、と軋みをあげるのが分かる。
「はあ、……やったか?」
視線を相手へと向ける。零二は微動だにしない。
あれだけの連撃を叩き込んだのだ、死んでいてもおかしくない。
分かってはいた、仲間を殺したのはあの少年ではないのだ、と。
だが、どうしても、……抑え切れなかった。
あのまま我慢していたら気が狂ってしまいそうだった。どうにかなりそうだった。
「行かなきゃ……ここはもう駄目だ」
彼女は悲鳴をあげる身体を引き摺る様に歩き出す。
ここにいればさっきの少女も来るだろう。全速力を使えば勝てるだろうが、余力はあまり残ってはいない。無理は禁物だ。
(今のワタシにはもうこれしかない)
ジーンズのポケットに入れたアンプル。これを回収し、依頼人に届ける。もうこれしか今の縁起祀には残されてはいない。
これすら失ったら、何もかもが、仲間達の死まで無駄になる。それだけは絶対に認められない。
だと言うのに。
「何だよお前?」
彼は立ち上がっていた。
縁起祀の表情が変わる。死んでいない事にも驚いたが、それ以上に何故立てるのかが理解出来ない。知覚すら出来ない無数の攻撃をマトモに喰らったと言うのに。
相手の全神経は何をされたのかも分かっていない、大混乱のはずだ。だから立てるはずがない、……なのにどうしてまだ立ち上がれるのか。
思わず彼女は口を開く。
「あんた一体何なんだ?」
幾分かの怯えを含んだ問いかけに零二は答える。
「武藤零二、……アンタには恨みは無いがオレは──」
野生の獣にも似た獰猛な笑みを浮かべた。
「──アンタの全部をブッ飛ばす」
獰猛に歯を剥き、そして飛び出す。まるで、これ迄のダメージ等無かったかの様に。




