狂信者(Fanatic)その2
(九月一日 午前十一時)
「ああ、実に、実に」
男は足取りも軽やかにくるりと回る。
まるで躍っているかのようですらあるのだが、真っ暗闇の室内は、一寸先すらまともに見えない。
ただ分かるのは、男の嬉しそうな声に、時折聞こえるポタポタという水滴の音のみ。
「実にィ、素晴らしい」
男は暗闇の中、一人笑い出す。
その耳にはイヤホンが挿入されており、ある音声がただ繰り返されている。
「我が偉大なる指導者。あなたの言の葉程、この私めの心を揺り動かせるモノなどこの世界には存在しません、クハハハハハハッッッ」
「それくらいにしておくのだな」
ギイ、と重々しい音と共に老人が扉を開け放つ。
途端に、外の光が室内に差し込んで、暗闇を照らし出し、切り裂く。
「…………相変わらずだな」
老人の表情には明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。
それも無理なからぬ話だろう。何故なら、
「素晴らしいとは思いませぬか?」
「思わんよ。このような鬼畜の行い、出来るのならば……」
老人は苦虫、いや憎悪の感情を露わにして、目の前で笑う男を睨む。
確かに、彼は指導者の考えに賛同した。だからこそ、これまで様々な面で協力もしてきた。
今回だって、この廃倉庫を提供もしたし、目の前の男が街に入れるように、電車に乗れるように身分証を手配もした。
その全ては指導者の為、そのはずだった。
「出来るのなら、どうするのかね?」
「…………いや、気にしないでくれ」
老人は辛うじて怒りを抑え込む。
考えには同意した。だからこうして協力もしてきた。
確かに世界は変わるべきだと思うし、変化の為にはある程度の犠牲が出るのも理解していた。
(だが、これは必要な犠牲だと言えるのか?)
ギシギシ、とした何かが軋む音がして、老人は微かに視線を上へと向ける。
すると、高さおよそ五メートル程の天井に吊されているモノがある。
まだ光量が足りないのか、ハッキリとは見えないが、老人にはそれが何かは察せられた。
吊されているモノの真下へ視線を送ると、小さな池が出来ている。
(見えなくて良かった、と思えばいいのか)
見えなくとも、室内に入った瞬間、鼻をつく鉄臭さで分かってしまう。
老人はこれでも裏社会に身を置いている。
自身では行った経験はなくとも、そうしたモノの始末なら経験があるから、この臭いには馴染みがある。真実不快な臭いに表情を歪める。
「どうしたのかね。随分と嫌そうな顔をしているようだ?」
男は、そんな猛烈な臭いなどまるで気にならないらしく、平然とした面持ちで、老人がどうしてそんな表情をしているのかが分からず、怪訝ぞうに眉をひそめる。
(この男は狂っている、いや、壊れている)
それなりに色々な人間、犯罪者とは接点もあったし、ましてや世界の裏側を、マイノリティの存在を知って以降は初めて見るモノばかりで、驚きの日々だったのだが。
(死体など見慣れたはずだが、これはあまりに)
それは最早、人ではなかった。原型を留めない程にグチャグチャにされ、ただただ血を滴らせるだけのモノでしなない。
恐らくは殺人、という行為自体に興奮を覚えるのだろう、その表情からは隠す気もないらしく、悦楽を溢れ出させている。
(こんな怪物を仲間だと思わねばならないとは……)
指導者からは、目の前にいる殺人鬼のサポートを頼まれた。自分のような末端のメンバーに直々に依頼された事を名誉に感じ、引き受けた訳だが。
(いや、こいつは指導者から信任を置かれている。そうだ、こんな怪物でも世界を変える為には必要なのだ)
そう考える事にして、目の前の光景から目を背けたのだが。
「ふぅ、次は誰を解放してさしあげましょうか」
ふら、と視線を巡らせ、老人を見据える。
「…………え?」
老人はその視線を感じた瞬間に察した。己の末路を。
この怪物にとってみれば、周囲の全てが獲物でしかないのだと。
彼がその最期に目にしたのは、殺人鬼という言葉すら当てはまらない怪文書の恍惚とした表情。
そして、これ以上ない恐怖と絶望の渦中で、老人は人生を終えた。
ポタポタ、と男の身体を鮮血が染め上げる。
「うんうん、実に清々しい」
身を震わせるのは恐怖ではなく、歓喜から。彼は自身の行いに一切の罪の呵責を感じていない。
「これでまた一人、解放されました」
彼にとってこの行いは、あくまでも救いなのだ。
「何と、何と素晴らしいィィ」
男には名前はない。かつてはあったが、その名は指導者に出会った事で捨て去った。
破壊者、デモリッションというのは男が名乗っているのではなく、他人が付けたものに過ぎず、彼にとってどうでもいい言葉の羅列でしかない。
「ああ、しまった。このご老人は我らの賛同者でした」
その言葉には、深い後悔や反省など微塵もなく、この男が他者の命をどのように思っているのかがよく分かる。
首にかけたロケット型のペンダントを開く。そこには顔が半ば擦り切れた写真が入っていて、「指導者よ、これより私めはあなたの言葉に従い、無知な蛮人達を解放してきます」と、破壊者は身を震わせつつ、写真に口を合わせる。
この男にとって全ては指導者の為。自身を含めあらゆる命は敬愛する彼への捧げ物でしかない。
「さぁ、愚かで哀れな者共に道を示さねば、フフ」
かくて破壊者の異名を持つ狂信者は動き出した。
◆◆◆
(同日、午後六時)
ギギギギ。
美影は錆びてボロボロの倉庫の扉を開ける。
「うっ」
そして開けると同時に鼻を刺激する、凄まじいまでの腐臭に顔を歪める。
「うっわ。こいつは酷いもんだ」
次いで倉庫に足を踏み入れるのは春日歩。
血液操作能力者だからか、美影と違い、室内にこもった血の臭いは気にならないらしい。
「これがその、デモリッションの仕業なんですか?」
「ああ、恐らく間違いない」
美影はあまりの惨状に、顔を背けたくなる。
「ヒドい」
「ああ。俺もあちこち方々を見て回ったから、悲惨な光景ってのにも慣れているつもりなんだけどな。やっぱり、何度見ても嫌な気分だ」
「殺されたのは誰なんですか? その、調べようにも……」
吊された複数のモノはいずれも顔をなどを潰されていて、中には、もう原型をすら留めない塊になっているモノもある。
人を人と思わぬ所行、外道鬼畜、そんな言葉すら当てはまらない、言葉に尽くせない状況に、美影は吐き気を催しそうになるのをこらえていた。
「まぁまぁ、嫌な気分だよな。そいつはしょうがない。
俺だって、血の臭いが平気ってだけで、胸糞悪い」
「はい」
「俺の場合は人死にをたくさん見ていく内に、いつの間にか、そういった場面に接している内に、スイッチのオンオフが勝手に切り替わるようになってた」
「アタシは、そこまでは……」
「ああ、別に割り切れって訳じゃないぜ。俺の場合はそうなってたってだけだし。俺は俺、美影ちゃんは美影ちゃんって事」
「……馴れ馴れしいです」
「あはは、きびしいな。何にせよ、こいつは異常だよ。完全にたがが外れてる。止めないと犠牲者が出続ける」
珍しく真剣な歩の言葉を受け、美影は頷く。
「これは今現在、WG九頭龍支部の最優先事項だ。デモリッションを止めるぞ、美影ちゃん」
「はい。ですので馴れ馴れしいです」
「うん、ブレない子だわ、はは」
歩の苦笑を横目に、美影は改めてこの惨状を再確認する。
(こんなコトを許しちゃいけない。絶対に止めなきゃ)
こみ上げる怒りに任せて拳を握り締め、任務へと意識を切り替えるのだった。




