幕間(縁起祀)
いつの頃からだろうか。
自分が周囲の者よりも”速い”と思えたのは。
最初はほんの少しだけ皆よりも走るのが速い、それだけの事。
かけっこはいつも一番。運動会でも一番しか取った事がない。
中学からは陸上を始めた。
別に深い理由なんてない。ただ、何となく走る事が好きだった。
部活の練習はキツかったけど、充実していた。
毎日毎日、走ってばかりだったけれど楽しかった。
本当に少しずつだけど、タイムを更新していくのが嬉しかった。
部の皆に、友達に同級生に応援されるのが本当に嬉しかった。
当然、高校に入っても陸上一本。
縁起祀は、期待の星として皆から応援を受け、毎日毎日、走り続けた。他人からは単調に見えただろうが、充実した毎日だった。
そんなワタシが走る事を止めたのは、事故に合ったから。
休日に横断歩道を歩いていて、信号無視で飛び出してきた車にはねられた。
命には別状はなかったが、結果として膝が壊れてしまった。
”日常生活には何の支障もありません。ですが、もう陸上は諦めざるを得ないでしょう”
医師の話はワタシを絶望させるのには充分だった。
それはこれ迄を壊し、これからをすら奪う言葉。
そして後はお決まりの転落一直線だった。
なまじ周囲から期待の目で見られていたが故か、ワタシの状態を知るとそれまで散々もてはやした奴等があっという間に離れていった。
陸上部の部員達も、まるで腫れ物に触るかの様によそよそしい。
気持ちは分かる。
仮に自分だって同じ様な境遇に置かれた仲間がいたら、何と言ってやればいいか困惑した事だろう。
でも、それでも。
何か言葉をかけて欲しかった。
いや、違う。
何を言われてもきっと駄目だった事だろう。
縁起祀は周囲の目に耐えられなくなった。
だから逃げた。
逃げる様に高校を中退、家族とは喧嘩。
家にもいたくなかったワタシは、当てどもなく街をぶらついた。
毎日毎日、街をウロウロと何の目的もなく歩き回る。
そうして気付く、この街はこんなにも人が大勢いたのに、それなのに自分はたった一人。
最初は街の表通りだったが、いつしか足が向くのは裏に裏に、と少しずつ、少しずつ街の裏側に足を踏み入れた。
九頭龍はほんの少し表通りから外れるだけで、別世界になる。
そこは経済特区として注目を浴び、未曾有の発展を遂げる大都市の裏側。
世界中から色んな人々が集い、光輝く。
だからだろう。
強い光の裏側にはより深い闇が広がる。
気が付けば、ワタシも落伍者なんていう集団の同類に成り下がってしまった。
いつしか、周りには仲間が集まっていた。
どいつもこいつも世の中から見捨てられた連中ばかり。
(何だよ、おんなじ様な目をしやがって)
いつの間にかワタシはチームを結成した、……リングアウトというチームを。
しばらくしてワタシは再度入院する事になる。
はねられそうになった子供を庇った為に。
今度は死にかけた。
何せ、ワタシを轢いたのは十トントラックだったのだから。
全身の骨にヒビが入り、臓器を損傷し、集中治療室に何日も意識のないままでいたらしい。
目を覚ますとワタシは個室にいた。
──目を覚ましたかね?
初老の老人が話しかけてきた。
そこは街の外れにある個人病院、……この老人はこの病院の医師だった。
一体何があったのか? と訊ねる。
そしてワタシは知った。
自分が医学的に言うと一度死んだのだと。
そこから生き返り、今、こうしてこの病院にいるのだと。
その時の記録が残されていたので、真実だと知った。
そこに彼が姿を見せた。ワタシの人生を変える人物が。
”初めまして、縁起祀さん”
穏やかな口調と優しい目をした男だった。
彼こそが縁起祀の恩人である神門賢明。
新進の大手医療メーカーであるEP製薬の創立者にして、その最高責任者。
今回の、一度完全に死んだ後に生き返る、という異常な事態が外部に洩れなかったのも、彼の手回しによる所が大きかったらしい。
年齢は三十六歳だそうだが、若く見える。まだ二十代だといっても充分に通じる事だろう。
その服装も白シャツにジーパンにパーカーと何も気取った所もなく、それでいて清潔感に溢れており、育ちの良さを感じさせた。
”世界は変わりつつあるのです。……貴女の様な存在が増える事で、……大きく”
神門のその口から聞いた話をワタシは忘れる事は出来ない。
マイノリティ、イレギュラー、フリーク。
それらの、にわかには信じ難い話と言葉の数々。
だが実際、自分で納得してもいた。感じるからだ、自分の身体に力が漲るのをハッキリと。
そうして、ワタシは自分の持つイレギュラーを調べた。
皮肉だった。
誰よりも速い、という自分の能力に。
もう走る事を諦めろ、と宣告された自分に目覚めたのが、こうして誰よりも走れるなんて代物だなんて、皮肉が利きすぎていて、思わず笑ってしまった。神門が説明してくれた。
”イレギュラーには一定の法則があるそうです。それは……”
イレギュラーはそのマイノリティとなった人物の精神性に左右されるのだ、と。
つまり、この場合は縁起祀という人間が、もっとも心から欲していた根源的な欲求が”走る”という事だったのではないのか? という事らしい。
何にせよ、彼女は喜んだ。自分はもう全力で走る事が出来るのだ、と心の底から。
こうして縁起祀は自分の持ったイレギュラーを知る事になった。
一体、どれくらいの速さを出せるのか?
何処まで走る事が可能なのか?
どれくらいの時間を継続出来るのか?
様々なデータを神門の、EP製薬の持つラボで検証した。
彼女は歓喜した。自分が本当に誰よりも速いのだと分かったのだから。時速に換算して六百キロ。どんな生物よりも早く走れる。
そうして何日かが経過したある日の事。
彼女に与えられた部屋を訪れた神門賢明はこう言った。
”貴女の力を貸しては頂けませんか?”
何でも今、九頭龍ではマイノリティよる犯罪が増加しているのだそう。
確かに、と彼女は思う。こんなにも強い力を得てしまった人間が冷静さを保てるか? と言われたら理性を保てる自信はない。
マイノリティになった、なってしまった人間の半数はその覚醒時に精神がおかしくなってしまう、それがフリークだと話では聞いた。
自我を、理性を保っているマイノリティも、イレギュラーの暴走や、過度の使用で精神が破綻する場合もあるらしい。
そう聞かされると身震いがした。
今、モニターに映っている化け物が、ひょっとしたら自分だったのかも知れないのだから。
EP製薬は新進の医療メーカーであるが故に、柔軟に様々な研究をしているのだそうだ。その研究にはマイノリティ及びにイレギュラーについての物も含まれている。
神門賢明は一般人だ。
だが、彼は言う。
”今は世界中が祀さんの様な存在をひた隠しにしています。
それも無理のない話です。もしも、自分の隣人が超常的なパワーを持っていると知れば、諸手を挙げて歓迎してはくれない事でしょう。残念ながら、周囲の一般人にすれば、その超常的なパワーは脅威にしか見えない事でしょう”
だったら何故、自分を助けたのか? ワタシはそう訊ねてみる。
”私には妹がいたんです。ですが彼女は目覚めてしまった。
マイノリティとして、ね。
今よりもずっとマイノリティについての知識がない時の事です。
誰もが、彼女を人間とは見なしませんでした。誰もが彼女を恐れ、怯え、そして……排斥しようとした”
それ以上は、と言って神門は口をつぐむ。感情が高ぶったのか、目からは涙が浮かぶ。
”だからこそ私はああした悲劇を二度と起こさない様にしないといけないのです。その為にいつかマイノリティを元の人間に戻せる様に研究をしているのです。
ですから、それに力を貸しては頂けませんか?
勿論、綺麗事だけでは済まない話になります。私の研究を嫌う組織は多いのですから。
でも、それでも……お願い出来ますか?”
手を差し出す。穏やかな表情で。
ワタシには断る、という選択肢は存在し得なかった。
だからこそこうして運び屋の仕事も引き受けた。
全ては神門賢明の考える、より多くのマイノリティを救済する為に。
自分の恩人へ少しでも恩を返す為に。
そうしてワタシは世界の、真実の意味で裏側へ踏み込んだ。