最後の一杯
「あ、ああ…………」
声がそれ以上出ない。
喉から音が出ない。まるでここが真空空間かのように何かが張り付き──それ以上の言葉を遮る。
その光景を彼女は忘れる事はないだろう。
そこは脱落者に転落した彼女と仲間達にとって、はみ出し者なりに手に入れた日常の象徴となる場所だった。
最初は何もなかった単なるだだっ広い倉庫だった。
ボロボロの外装にボロボロなのに、いや、ボロボロだからこそ余計に開けるのが難しい重々しい扉。
勿論、買った訳ではないので最初の頃はやましい気持ちがなかった訳でもないのだが、それでもそこにはいつも仲間達がいた。
そんな場所に皆が少しずつ色々な物を倉庫に運んできた。
冷蔵庫やテーブルをリサイクルショップで買って運び込んだ。
彼女自身もまた、自前のコーヒーミル等を持ち込んだ。
気が付くと週の大半をここで過ごす様になった。
そうだ。
いつしかここは……彼女達にとって帰るべき家になっていたのだった。気が付くとこの倉庫を格安で借り受ける事も出来る様にもなっていた。
気が付けばここで仲間達とくだらない話を聞くのも悪くはない、そう思える様にまでなった。
そんな大切な場所が穢されていた。
微かに灯った照明の色は赤かった。
ポタポタ、と雫が落ちている。
灰色だった壁や窓には鮮やかな赤が……まるでペンキでもブチまけた様に赤く染め上げられている。
一体何をどうしたらその様な事になるのだというのか?
彼女には分からない。ただ、激しく頭が痛い。割れる様にズキズキ、と痛む。
今、自分の目を通して伝わる出来事を、彼女の脳は事実として認識する事を拒否しているかの如く激しく痛む。
まるで現実離れした光景としか言い様がない。
そこにあったのは、ついさっきまで生きていたであろう仲間達の残骸。まともな人の形を留めている者は……いない。
その手足は千切れ、首は胴体から離れ、まるで子供が悪ふざけして人形をバラバラにでもしたかの様ですらある。
「嘘だ……」
分かっている、嘘等では断じてないと。
だって、彼らの顔は見知った仲間のそれなのだから。
胃液が逆流しそうなのを辛うじて抑え、我慢する。
「何でこんな……」
分かっている、自分の受けた仕事のせいだと。
こんな事を出来るのは、人ではない。
こんな悪趣味な赤い芸術を描けるのは自分と同じくマイノリティであるのだと。
縁起祀はヨロヨロとした足取りで、倉庫を歩く。
もしかしたら、というその思いが如何に虚しいのかは、自分自身が重々理解しているつもりだ。
この赤で統一された悪趣味なペイントが、倉庫の有り様をすっかり変貌させた。
仲間達とのささやかな集いの場所は今、赤で塗り潰されてしまったのだ。
そんな中でテーブルにはコーヒーが置いてある。
見覚えのあるマグカップからは湯気と共に豊かな香り。恐らくはまだ淹れて間もないのだろう。
縁起祀はコーヒー好きではあったが、同時に猫舌でもあった。
だからだろう……コーヒーが用意されていたのは。
大方良く気の利く雨戸辺りが前もって用意したのだ。自分がもうすぐにでもこの倉庫に、自分達の家に戻ってくると信じて。帰ってきたらすぐにでもコーヒーを飲める様に予め、冷ましておこうと考えて。
彼女のいつも座る椅子に座っているのは雨戸だったモノだ。
顔は潰されていて誰であるかはもう分からない。
だが彼女には分かる。
そこに鎮座させられているのは間違いなく彼であると。
顔が潰されていようと、その手足が千切られようとも、彼の外見がああして破壊されようとも、その中身、内面までは壊せない。
血管がピく、ピク、と脈動している。
そう、あろう事か彼は死んでいない。
あれだけの暴虐の限りを尽くされたというのに、死に切れていないのだ。
「あ、あ…………」
声が出ない。自分は今、一体どうすればいいのか?
顔を下に向け……頭を抱える。冷静な判断等無理だ。
混乱の極みにあった彼女の思考はそこで停止していた。
「……です……か?」
代わりにぼそり、と声が聞こえた。
縁起祀が思わず顔を上げる。
こひゅー、こひゅー、というか細い呼吸。いや呼吸というよりは空気が抜ける音だろうか。
「か、えってきた……んです、ね」
雨戸の声だった。顔を潰され、彼はもう何も見えないのだろう。その二つの目があった場所にはもう光は灯っていない。
「良かっ……た。コーヒー……よう、いし……ました」
そんな状態であるのに、自分の心配だけしていればいいというのに。彼はまだ自分の事を考えている。
そうだった。この雨戸という青年はドロップアウトになるには心根が優し過ぎるのだ。
いつも自分の事は後回しで、他人にばかり気を回している。
彼の場合、他の連中と違って家族に捨てられたり、不仲だったりした訳ではない。天涯孤独だった彼には、そもそも家族はいないから。彼はカフェで働いていた。のんびりとした店で、微笑みながら店を訪れた客にコーヒーを淹れる毎日。
”色んなお客さんの顔を見るのが好きだったんです”
そう彼は笑いながら応えた。
そう、雨戸は自分の人生に満足していた……つもりだった。
彼女に出会うまでは。
それは、季節が秋から冬に移り変わろうとしていた雨の日の事だった。
カフェにある女性客が足を運んだ。
”綺麗な人だな、って思いましたよ。何というか凛とした強さみたいな物を感じましたし”
彼はその初めて目にする女性客に注文されたコーヒーを出す。
その凛とした女性はカップに手をかけると何度もフーフー、と息をふきかける。
雨戸はどうやらその女性客がかなりの猫舌だったらしい、とその時になり気付き、思わず苦笑した。
十秒程してからようやくカップに口を付け、ゆっくりと口に運ぶ。香りを楽しみながらゆっくりと口に運ぶ。
コト、カップをテーブルに置き、その女性客は一言だけ言った。
いいコーヒーを有難う、美味しかった。
たったこれだけ。その一言だけ。
何て事のない感想にも思える一言で雨戸は心を揺さぶられた。
それからその女性客は頻繁にカフェに足を運んだ。
その度に彼はコーヒーを淹れた。
そしてその度に女性客は美味しい、と言ってくれた。
やがてその女性客と世間話をするようになり、彼は彼女の名を知る。それが始まり。彼は単に縁起祀という女性に心を惹かれた。
ただそれだけの事。ここまで自分の淹れたコーヒーを心から楽しんでくれたのは後にも先にも彼女だけだ。
”だから思ったんです。この人には常に最高の一杯を用意しようって。……すぐ側で”
「ば、ばっか野郎」
目に思わず涙が浮かぶ。声も酷い鼻声だ。縁起祀はつかつかと歩み寄る。
「お前の淹れたコーヒーはいつも美味いよ、また頼む──」
彼女はそう言うとコーヒーを口に運ぶ。
いつもよりも心無しか、少し苦い。何でだろうか?
「う……れしいで…………!」
彼は最期まで言葉を発する事は叶わなかった。
その声は途切れ、そこで鼓動も途絶えた。
「……………………」
この場に残された生者はもはや彼女だけだ。
縁起祀は無言で、カップに残されたコーヒーを口にする。
ゆっくりと、じっくりと味わう様に。
それが今、彼女に出来る仲間達へのささやかな手向けだから。
僅かな時間、その場を沈黙が支配した。
足音が聞こえる。こちらへと向かう音。
誰かがこの場に来たらしい。
もうどうでもいい、自分が守りたかった物は崩れてしまったのだから。
「よぉ、随分とひでェな。血の臭いがよ」
少年はそう声をかける。好戦的な響きが混じった声だ。
だが、縁起祀は相手の言葉が耳に入らない。正確には耳にしたくなど無かった。
だから彼女は声を出す。相手の言葉など、今は聞きたくもないから。
「ここには皆がいたんだ。でも、今、ここに誰がいるって言うんだ……畜生」
縁起祀は血を吐きそうな思いで、そう声を絞り出す。
「同情はしねェよ、ここが【オレら】のいる世界だ」
零二は淡々とした口調で返す。その響きは非情。だがその言葉は真理だろう。
結局の所はそういう事だった。
今のこの惨状を招いたのは、自分の迂闊さなのだ。
裏社会に関わるとはそういう危険を孕んでいるという事である事を分かっているつもりで、実際には何一つ分かってなどいなかった。
何の根拠もなく、自分は大丈夫だと思い込んでいた。
確かに自分は大丈夫だ。でも、その周囲は…………。
これが甘く見たツケだという事か。
「そうかよ……畜生が…………何でッッッ」
縁起祀は呻く。全身を震わせながら……呻く。今にもどうかしてしまいそうな位に感情が溢れてくる。
憎かった、誰に?
傷付いた、何に?
苦しかった、何が?
悲しかった、何故?
心がかき乱される……もう限界だ。
で、と相手が前置きするのが聞こえる。
「──だったらどうすンだよ?」
零二の一言。
あくまでも淡々としたその口調。
「あああああああああ」
縁起祀は吠えた。感情の波に呑み込まれていく。
もう抑えは利かない。
だったら…………どうする?
縁起祀の姿が消え……目の前に姿を見せる。
メリメリ、という感覚。
零二の鳩尾に拳が突き刺さらんばかりに入り込む。
ぐ、と呻きつつ零二は後ろに飛び退く。
「へっ、……コイツが答えっつーこったな」
「…………」
縁起祀は答えない。答える事はなく、応えた。自身の手で。




