二年後、九頭龍にて
「はっ、はっ、はあっ」
息も絶え絶えになりながら、男は路地裏を駆け抜けていく。
年の頃は、三十代前半。上下共に灰色一色の服装で、その手にはつい今さっきまで被っていたらしいバラクラバが握られている。
──え~と、身長は一七〇位で、体重は六〇キロ位だから。いたいた。で、距離はそこから二百メートルってとこ。さっさと片付けてよね……見たいテレビもあるし、もう面倒くさいから。
相棒たる少女の、如何にも気だるげな声を聞きつつ、一人の少年がビルの屋上から眼下を見回す。そして”標的”へと狙いを定める。
片手にはまだ食べかけのホットドッグが握られており、急いで食べたからか、口には僅かにケチャップが付いている。
へっ、と不敵な笑いを口元に浮かべると、何を思ったのか迷わずに飛び降りる。普通の人間であれば明らかに自殺行為にしか思えない無謀な行為。
ガアン、という音に地響きの様な揺れが周囲にあったゴミ箱や、放置され、錆び付いた自転車に伝わったらしい。バタバタ、と倒れ、中のゴミを撒き散らしていく。
しかし、少年は何事も無かったかのホットドッグを口に押し込むと、平然とその場から歩き出して、──何を思ったか躊躇なく飛び降りる。およそ三〇メートルはあったであろう高さから飛び降りたにも関わらず、着地。そのまま何ともない様子で標的の追跡へと入る。
彼が飛び降りた証拠はアスファルトに刻まれた彼の足跡のみ。とは言え、普通の人間がこのひび割れたアスファルトと足跡を見ても手の込んだ質の悪い悪戯としか思わない事だろう。
少年の髪は黒の短髪で、所々つんつんに立っている。パッと見で判断するなら、ヘアワックスでも使っているような髪型だが、これが彼の地毛だ。
着ている服装はブレザー。この九頭龍に住んでいる住人ならすぐに分かるだろう。小中高の一貫教育及びに、大学まで備える現在日本最大規模のマンモス校。私立九頭龍学園の制服である、と。
ただ、彼の場合、何故か右手の袖が肘までしかない。左足も膝までしか裾がない。
ネクタイは辛うじて付けてる程度で、締まりのない印象。
足元は人気メーカーのスニーカー。赤と黒のカラーリングで、プレミア物、最も当人は特に気にもしてはいないが。
身長は一六〇後半、体重はおよそ六〇キロ前後といった所で、同年代から比較して小柄とも言える。その露出している左ふくらはぎは程よく筋肉質で野生の獣の様な印象を漂わせる。
──あ、もう七時、早く片付けて。見たいテレビがあるんだから。これ以上時間かかるのは正直言って面倒くさいから、嫌。
全く緊張感のない相棒の言葉。
だが、少年も思わず「あっ」と声をあげた。
夜の七時は、彼が頻繁に夜食を買いに行くスーパーマーケットのデリカやお弁当の値引きの時間だったからだ。その夜食を買えるかそうでは無いのかは彼にとって死活問題だった。
ホットドッグを食べたばかりではあったが、まだまだ空腹らしく、早くも腹が鳴りそうだ。
しょうがねェな、と一人呟くと少年は走り出す。
早く捕まえて、スーパーマーケットへ直行したいが為に。
◆◆◆
「くは、くはあっっ」
一方で、男はもう限界だった。
こうして全力で走るのはかれこれ何年振りだろうか?
自分ではまだまだ若いつもりであったが、思った以上に身体は重く、息切れも激しい。
(く、くそ。どうしてこうなった? ……全て上手くいっていたってのに)
そう、たった十数分前までは……いや、この一週間程は彼の人生でも数少ない最高の時間だったのだ。
事の始まりは、単なる偶然だった。
彼が仕事帰りに通る道が工事中で通れず、それで一本裏の路地へ足を運んだのがきっかけであった。
かつての県庁、今の九頭龍行政執行ビルで働く男は一言でいえばエリートだった。
学生時代から、スポーツ万能で勉強も出来て、進学校に進み、一流大学に入り、そして九頭龍の行政執行機関、略称”NAO”に入る事になったのだった。
エリートを自負する彼は自分がここでさらに人生を、華々しくしようと期待に胸を膨らませながら入った。
だが、そこは彼の思い浮かべている様な場所ではなかった。
四六時中電話での問い合わせが相次ぎ、職員は慌ただしく各地を走る回る。
そこは行政執行機関と言えば聞こえはいいが、実際には何でも屋に近い存在だったのだ。
考えてみれば、無理もない話ではあった。
この九頭龍という経済特区が、政府の認可で施行されてからにおよそ二〇年、かつて福井県と呼ばれた地域の福井市を中心にするはずだった計画は、幾度とない計画の変更や調整により、結果的に嶺北及びに奥越地域までを含む規模にまで拡大した。
それに伴い、職員の募集は何度も行われたのだ。
しかし、現実は甘くなかった。
九頭龍への人口流入の勢いは凄まじかった。
それまでは、せいぜいが六十万人前後だった地域の人口は、あっという間に百万を越え、二百万を越え、今では三百万人を突破。その急成長、急拡大は行政に多大な負担を与えた。
続々と決まる新たな区画整理に、支援の為の法整備。
そして極めつけが、あの巨大ビル群。
その総建設予算は数百兆円から数千兆円ともされる。前代未聞の一大建設事業は、この特区の存在を世界中に宣伝する事だろう。
そしてその建設に於ける建築業者の選定や予算配分等の調整も行政執行機関の統括だった。
急増する案件の対処で疲れた職員の退職が相次ぎ、今やかつての半分にまでその人数は減っていた。
確かに給与はその分を補って余りある、だが、彼は疲れていた。いつも以上にけだるい気分だった彼は通行人でごった返す道に嫌悪感を感じ、さらに裏へ、裏へと路地を変えていった。
そうして気が付くとそこは、今まで来た事も無い場所だった。
周囲を見回したものの、場所が全く分からない。
そこは薄汚い路地だった。
ここが同じ九頭龍なのか、と思えない程に。
車はせいぜいが一台通れる位だろう。そんな狭い路地には物が溢れかえっている。乱雑に投げ出された無数のゴミ袋。
明らかに分別もされていない袋には穴が開いており、一体何の臭いなのか酷い悪臭が漂う。飛び出した食べ残しを烏と猫が奪い合う様に貪り、野良犬はしきりに余所者を睨み付ける。
更に質が悪いのはそこにいた住民だった。
その誰もが、ボロボロ。またはよれよれの着古した服を着ている。
その視線は何処に向けられているのか、焦点があっていない。
口からだらしなく涎を垂らす者が壁に寄りかかっていたり、今にもこちらへ襲いかかりそうな勢いでにじり寄ってくる。
そうしている内に周囲を囲まれ、逃げ場を無くした時だった。
「──待ちなよ」
一つの声が聞こえた。まだ何処か幼さの残る声だった。
だが、その声に応じるかの様に男を取り囲んでいた人々から敵意が消えていく。
ほっ、と安堵の息を漏らす彼の前に声の主が姿を見せる。
それは不思議な雰囲気を持った人物だった。
まだ見た所は、十代の最初、小学生からせいぜい中学生にしか見えない。声の通りの幼い印象を与える。
だが、周囲の住民とは明らかに一線を画していたのは、服装。
彼は住民達とは違って、綺麗な服を着ている。
その服装は、長袖の白のヘンリーネックカットソーに同じく白のマフラーを首元に。色褪せた感じに加工されたであろうスキニージーンズ、足元はブーツ、と子供が着るにしては随分とませたチョイスだった。彼は愛想のいい笑顔を浮かべると、開口一番、
「やあ、初めまして○××○さん」
少年は男の名前を言い当てた。
男が驚愕したのは言うまでも無い。そこから先、不思議な少年とどういうやり取りをしたのかはもう覚えてはいない。ただただ、彼の話に聞き入っていた。
不思議な事に、男の中ではこの少年に対する警戒心は無くなっていた。あるのは安堵している自分のみ。
そうしてどの位時間が経ったのだろうか。
その少年は切り出した。
「君は、【力】が欲しくはないかな? 理不尽な出来事に毅然と立ち向かえるだけの強い力を、さ」
不思議な雰囲気を持った少年は、そう言うと男にあるドリンク剤を手渡した。そして「帰り道をあんないするよ」と言う彼に付いていくと、いつの間にか大通りへ出た。そして工事は終わっていた。少年は優しく言った。
「そのドリンクは君が好きにするといいよ。いらなければ捨ててしまえばいいし、もし、力に興味があるのなら、飲んでみるといいよ。……きっと世界が変わるからね」
男がハッとした時には少年の姿はもう無かった。
それから、気になった彼はあちこちを歩き回ったものの……結局あの路地裏に行く事は出来なかった。
悪い冗談でも見せられた様な気分だった。
だが、男の手にはあのドリンク剤が握られている。
そう、間違いなくあの小さな少年は現実にいたのだ。
ドリンクを口にしたのは、その帰路の事だった。
いつも利用するコンビニに行こうとした際に目に入ったのは、数人のガラの悪そうな青年達が恐らくは中学生と思われる少女に絡んでいる姿。
あそらくは最近、九頭龍で問題となっている”落伍者”だろうか。
彼らは、嫌がる少女に執拗に絡んでいる。そのすぐ側には同じく中学生の少年が気絶している。
「ンだテメー、見てンじゃねぇよ」
凄む彼らに怯えた男だったが、そこで、あの不思議な雰囲気を持った少年の言葉に、笑顔が浮かんだ。
こういう連中をのさばらせてはいけない。そう考えた男はドリンクを一気に飲み干す。
すると、全身に何かが走り抜ける様な感覚が起きた。
感じるのは酷い熱。身体が熱い、たまらなく熱い。もう三月だとはいえ、まだまだ春とはいえない寒さにも関わらず男はまるで真夏の様な感覚を覚える。何故かは分からない。だが、ハッキリと感じるし確信出来た。
もう自分は何か別の存在になったのだと。
そして、本能の言うがままに力を行使した。
それは、あっという間の事だった。
ドロップアウトの連中はもう、その場にはいない。
決して逃げたのではない。
彼らはこの世から消えた。文字通りに灰になって。
人を殺した、という実感はあった。
だけど、不思議と男は動揺しなかった。
それよりも強く感じたのは、圧倒的な”解放感”だった。
それは、偽りの自分という殻から脱皮した様な気分。
途方もない――快感だった。
もう、彼は我慢出来無かった。
折角手に入れたこの力を上手くコントロールしようと思った。
くだらない連中を全てこの世から消し去ってしまえばいい、そう本気で思っていた。
力は使えば使うだけ強くなっていった。
街に出てはドロップアウトを探し、彼等がたむろしている場所に足を運んでは彼らを灰にした。
たまらない快感だった。
世の中を悪くするゴミ屑の様な連中なんか死んでも誰も困らない。現に、男は何十人もの彼等を灰にしたが、誰一人として行方不明扱いにもならないし、ニュースにもならない。所詮はその程度の連中なのだ。
つまりは、彼等の家族の誰一人として、自分の子供に対する関心を持っていない、もしくは見捨てられていたのだ。
(こんな連中はこの世に必要ないじゃないか)
男はそう思いながら次々とドロップアウト達を襲い、彼等の持っていた金品を頂いた。どうせマトモな手段で稼いだ訳でもない金や品物なのだ、自分が貰っても問題はない。
もう行政執行機関には辞表を出していた。
片手間でやる様な気楽な仕事、いや使命ではないのだから。
そう思いながら今日は九頭龍駅前にいた連中に狙いを定めて、その跡をつける。
そして彼等の集会場代わりに使われてるらしき、老朽化した廃ビルにまで辿り着いた。
そして、バラクラバを被り、顔を隠した男がビルに踏み込もうとした時だった。
「ぎゃああああ」「やめろおおお」「バケモンだぁぁぁ」
ビルの中から無数の悲鳴が轟き、ドオオン、という地響きの様な轟音が繰り返し響き、ビリビリとした振動が伝わった。
一体何事かと訝しむ男がビルに突入し目撃したのは、一人のブレザー姿の少年であった。
◆◆◆
数時間前。
「さて、貴方に依頼があります」
そう話を切り出したのは、WD九頭龍支部の支部長である九条羽鳥。”平和の使者”という通称を持つ彼女からこう話を切り出された瞬間に、少年はやれやれとばかりに嘆息した。
少年が彼女に”拾われて”からもうすぐ二年になる。
少年は、生活指導の先生に日頃の態度の悪さを指摘されており、どのタイミングでふけてやろうか、と考えていた矢先の事だった。
学舎内に、ピンポンパンポーン、というチャイムが鳴り、身内の人間からの連絡が入っているという理由で、彼は生活指導室から出ていく事になった。勿怪の幸いとばかりに、さっさと下駄箱からスニーカーを取り出していると、バッグに入れっ放しだったスマホに一件の着信が入る。
正直言うと、出たくは無かったのだが、わざわざ自分に連絡を入れるのだから、急ぎの用事なのだろう、と諦めて通話ボタンを押し、今に至っているのだった。
「はいよ…………ンでオレに誰をブッ飛ばせってンだ?」
半ば呆れ気味にそう尋ねた。
少年の仕事は基本的に力仕事。それも、ほぼ荒事限定。
最も、自分でも荒事以外に自分の持つ能力の有効活用法等は全く浮かんでは来ないのだが。
ピピッ、メールが届いたのは彼が左手首に着けていた腕時計だった。ボタンを押すと相手の画像が浮かび上がる。
それは、灰色の上下のスウェット姿の男の後ろ姿だった。
「えーと、コイツは?」
困惑しながら少年は尋ねる。顔も分からない相手を探すのは彼には困難だからだ。
それに対して上司は逆に訊ねる。
「ここ一週間で、この街から【消えた】人数は何人か分かりますか?」
「へっ、ンなの知らねェよ。……家出夜逃げも含めて二百人とか?」
「正確な数は不明です」
「うおい、なら聞くなよ。考えて答えたオレがバカみてェじゃないかよッ」
「ですが、その男が【消した】人数は四十人です」
その答えを聞いた少年はピクリと反応する。
「ほンとかよ……コイツ弱そうだぜ」
少年は同年代の同様の能力者と比較しても、格段に戦闘経験が豊富だった。だから画像越しでも何となく分かるのだ、相手がどの程度の脅威なのかが。
正直言って、彼の基準では大した事は無さそうに見える。
最も、彼の基準自体が移譲に高いのだともいえるのだが。
「確かに、WDがわざわざ動く程の相手では無いのは確かです。ですが、彼が如何にして【力】を得たのか。その過程には、深い関心があります」
「つまりは、コイツを死なねェ程度にボコって連れてこいってか……うわ、めンどくさい」
「既に貴方の相棒にも連絡はつけています。九頭龍駅前に向かって下さい。そこで合流して、身柄の確保を。出来れば、で結構です」
それだけ言うと、女上司は通話を打ち切った。
(いつも通りってワケね)
そう思った少年は、苦笑しながら二度、頭を掻いた。
彼女は、必要最低限の情報だけを提示するだけ。それ以上は自分達での自助努力というのが事に当たっての基本スタンスだ。
身柄の確保についても出来れば、なんて物言いをしているのも、零二のイレギュラーで”無傷”で確保というのが、如何に困難であるかを理解しているからに他ならない。
そもそも標的が誰かがさっぱり分からない。少なくとも、零二に彼を探すのは無理に近いだろう。
もっとも情報という点なら彼の相棒は、既に相手に関する情報も持っているかも知れない。
そこに期待しながら、購買で買ったカレーパンをバッグから取り出して、食べ始める。
あっという間に平らげた少年は、一度ゲップをすると、動き出す。
駅前までは学園前駅からだと六分。ただし、次の電車までの時間を考えると、追加で五分。
せっかちな性質の彼には電車を待つ、という選択肢は最初から除外されている。
「…………ンっっ」
周囲に”フィールド”を展開。周囲から自分を見る相手がいなくなったのを確認すると、迷わず走り出す。尋常な速さではない。
ちょっとしたバイク並みの速度で一気に駆け抜けていく。
だが、その異常な速度で駆け抜けて行く少年に気付く者はいない。
理由は、それが彼がさっき展開した”フィールド”の効力だからだ。
フィールドとは、彼の様な能力者が一様に持ち得る共通能力の一つ。一種の人払いの結界の様な効力を持っており、一ヶ所に展開する場合と、今、少年がやった様に自分の周囲に纏わせる様に展開する場合がある。これを使うと、一般人から注意を反らす事が可能になるのだ。
ちなみに、個々人でその細かい影響力は違い、少年の場合は急な暑さで彼から離れていく、という効力だ。
そうして走る事、凡そ二分。彼が辿り着いたのは学園近辺にあるWD九頭龍の所有する倉庫だった。
WDというのは”ワールドディストラクション”の略。
簡単に言えば、世界の敵扱いされる秘密組織。
少年の様な能力者を集め、もう一方の秘密組織であるWGと対立関係にある。……少なくとも他の場所では。
ここ九頭龍では、WDとWGは一種の”休戦状態”が何年も続いていた。その為、この支部の中には今までにWGと戦闘した事が無い者もいる。
もっともあくまでも休戦”状態”であるだけで、キッカケさえあれば、いつでも開戦しかねない不安定な状態ではあったのだが。
「オッチャン、これ借りるぜ!」
少年は倉庫の管理人である下村に声をかけると、かけられていたビニールシートを外し、一台のバイクに跨がった。
「おう、構わねえが、頼むから壊すなよ──零二」
顔に無数の切り傷を刻みつけた凶悪な面構えの老人が、少年の名前を呼ぶ。
下村は能力者ではない。元は裏社会の調達屋だ。
仕事でドジを踏み、命を失いかけたのを九条が救って以来、WDに協力しているのだ。
下村老人の声に少年――零二は軽く手を振ると「出来ればね」と軽く笑い、ヘルメットを被るとアクセルを一度吹かせ、飛び出していく。
その後ろ姿を見た下村老人は「やれやれ、そう言ってマトモな状態で返した事無いだろ?」と、お手上げとばかりに肩を竦めた。
下村老人はバイクや車のメンテナンスもお手の物で、零二が運転するこのバイクもカスタムされた物だ。
詳しい理屈は知らないが、このバイクは能力者限定品だ。
備え付けられた燃料タンクはダミーであり、実際には能力者からエネルギーを吸いとり、走行するのだ。
零二は、人気の無い裏路地を縫うように突っ切っていき、あっという間に駅裏に到着した。
ちなみに、未だにブレーキが上手く使えないので、バイクは電柱に激突して、無残に中破していた。
あいたた、と言いつつバイクから降りた零二に声がかけられる。
──相変わらず下手くそね。また下村さんが嘆くよ。
冷ややかな声が届いた。だが、周囲に人はいない。
何故なら、声の主はここから離れた場所にいるのだから。
この声の主こそ、零二の相棒たるWDの一員、桜音次歌音。通称”静かな囁き”だった。
彼女の姿を零二が見た事は一度も無い。彼女はその姿を決して晒さない。支部長である九条と、その側近であるシャドウ以外に素性を知る者はいないのだ。
彼女の役割は、零二のサポートとされているが、実際には”監視役”である。
二年前、とある実験施設を壊滅させた零二に対し、WDの上層部からは排除命令が下されていた。
しかし、それを九条が撥ね付け、自身の責任に於いて身柄を受け入れたのだ。そうした経緯もあり、零二は九条には頭が上がらない。
だが、それでも研究施設に莫大な投資をしていた一部の幹部は執拗に元凶たる少年の抹殺を主張。
深刻な対立を引き起こさない為の妥協案が、”首輪”を付ける事だった。条件は監視対象をいざとなれば”抹殺出来得る”能力者である。この一点のみ。ともすれば対立関係にあるとも言っていいコンビではあったが、二人共に細かい事を気にしない性格だった為、とりあえずは任務をこなすことも出来ていた。
零二もそうだが、歌音も命令違反や無視多数の問題児である。
この二人がそれでも罰せられないのは、その能力が強力で、且つ任務成功率が九頭龍支部でも断トツであるからだ。
この少年としても、彼女のサポートに不満は無い。
世間的な印象としてテロ組織ともされる、このWDに於いて信頼とは妙な感じもしたが、実際相棒の存在には感謝していた。
──アンタが学校で遊んでる内に調べた。
歌音が話を切り出す。
「……ンで、何が分かった?」
零二も特に突っかかったりはしない。
彼女が短時間で集積した情報はこうだった。
標的の男はここ一週間以内に能力に目覚めた可能性が極めて高い事。彼が消すのは今の所ドロップアウトに限られている。
日を追う毎に一度に消される犠牲者の人数が増えている。
そして、さっきの画像がここの駅前での物である点から、ここいらで犠牲者となる相手を吟味している可能性が高い、という点だった。
「サンキューな、で、溜まり場って何処だ?」
──頑張って。
「うおい、そこで投げるなよ」
──聞き出すのは、得意でしょ。こっちはそういうの苦手だから、面倒くさいし、嫌。
「へいへい、わあったよ。…………こっからはオレの仕事だな」
如何にも悪そうな顔を浮かべた零二は、すぐに動く。
とりあえず、駅の構内でうろついていたドロップアウトの青年を捕まえて、懇切丁寧に質問をする。幸いにも青年はすぐに周辺で一番規模の大きな集団が根城にしている廃ビルの情報を話した。
こうして青年は、幸運にも怪我一つ無く、五体無事で逃がされたのだった。
──やだやだ。壁とか壊して脅すとか止めてよね、公共の場所なんだから。
相棒からの呆れた声が届く。
「オレのやり方でいいンだろ? それに壁とかは直せばいいじゃねェか。……あの親切なお兄さんも怪我もなく万々歳ってヤツだよ。ほンと良かった良かった」
零二は善行をしたような清々しささえ感じさせる調子で話す。
彼にとっては、トイレの壁で済んだのは上々だったらしい。
そういったやり取りの末に、零二は先んじてに廃ビルへと辿り着いたのだ。
そうして、そこにいた面々と口論になり、結局全員を気絶させた所に、男が姿を見せたのだった。
「あ、なンだアンタ?」
零二の目を見た男は思わず、ひい、と悲鳴をあげた。
その目はおよそ人ではなかった。
自分の事をまるで獲物としか思っていない、まるで猛禽類の様な獰猛さを感じさせる目だった。
だから男は迷わなかった。
手から火の玉を作り出すと即座に放つ。
硬球のようなサイズの小さな火の玉ではあるが、その威力は抜群。ドロップアウト達は悲鳴をあげながら消えた。
相手だって所詮は喧嘩に慣れた人間、自分に勝てる筈がない、とそう思いつつ。
だが、相手が悪かった。
零二は平然とした表情を浮かべる。火の玉が直撃したにも関わらず、動揺する事も無く、笑っている。
「ふーン、で……これで終いか?」
信じられなかった。だが、事実だ。
男は勝ち目が無い事を察知し、即座に逃げようと決意。
しかし、零二が瞬時に背中を向けた相手へと肉薄、勢いよく肘を背中に叩き付け──そのまま押し倒した。
「かはっっ」
「おいおい、折角迎えに来たンだ。もうちょい、遊ンでくれよ。
なぁ、田仲縁歩さん」
零二はそう言いつつ、素早く身体を起こすとトントン、とステップを刻み始める。
男──すなわち田仲は改めて恐怖を覚えた。
自分の素性がバレている事に。そして何よりも、自分よりも強い相手に。このままでは負けるのは間違いない。
だから田仲は躊躇わなかった。自分は世の中の屑を掃除しているのだ、だからこんな所で捕まるわけにはいかない。
ポケットから取り出したのは、先日ドロップアウトの一人から頂いた手製の煙幕弾。それの導火線に指先から火を放つと、零二に向け投げつけた。バアン、という激しい音と真っ白な煙が周囲を覆う。その隙に田仲は逃げ出す。
「ゴホ、ゲホッ。やってくれンじゃねェか」
煙が目や喉に入ったらしく、零二がむせる。
単なる爆弾であれば彼には問題は無かった。だが、煙幕となるとそうもいかない。煙には対応出来ないのだ。
標的が逃げに徹した事と煙幕で不意を突かれた零二は、次の追跡の為にビルの屋上に駆け昇り、相棒からの連絡待ちでホットドッグを食べている内に、連絡が入り――ビルから飛び降りたのだった。
◆◆◆
人気のない裏路地にて。
「は、ははっ」
田仲はようやく相手を振り切った事に安堵を覚えた。
相手が何者かは分からなかったが、自分の同類だったのかも知れない。ふと、あの不思議な少年から三日前に手紙が届いていた事を思い出す。そこには、こう書いてあった。
──君の事を敵が知った。気を付けるように。
その敵がさっきの奴だという事だろうか?
逃げるだけで精一杯だった、まともに戦える気がしなかった。
(あんなのと戦える訳がない、殺される)
あの目、まさにあれは獣の様だった。自分とは全く違う世界の存在だと思えた。
ポケットから取り出したのは、もう一本のドリンク剤。
これもあの不思議な少年からの手紙に同封されていた。
本能的に理解出来た。これを飲めばもう後戻りは出来ない、と。
だから今でも飲む事を躊躇っていた。
「見っけ、あンま手間を取らすなよ……田仲さン」
だが、零二が、あの獣の如き少年が目の前に迫った時、田仲はもう迷わなかった。このままじゃ間違いなく敗けるから。
ドリンクを一気に飲み干す。
そうして、全身を駆け抜けていくあの強烈な感覚。
そして、同時に漲っていく力を感じる。力が湧き出す、抑えきれない。全身が火に覆われる。まるで全身が松明の様に。
それをどうやら歌音も確認したらしく声をかける。
──今の見た?
「おいおい、ドーピングかよ」
零二は思わず呆れ気味にボヤく。
「…………」
田仲にさっきまでの様に怯えた様子は伺えない。
それどころか、田仲から自分へと向かって来ている。
「気に喰わねェな」
相手の様子に、零二がそう言ったのがキッカケだった。
田仲が火の玉を練り出す。ただしその大きさはさっきとは違い、バレーボール程の火球。
それが零二めがけて放たれる。
零二はそれに反応せずマトモに身に受けた。
火球は一気に少年の肉体を包み込み、焼き尽くさんと唸り狂う。
「や、やったか」
田仲が嬉々とした声をあげる。正直言って自分でも驚いていた。
力が増した実感はあった。だが、あそこまで威力が増すとは思ってもみなかった。それにまだまだ力が湧き上がる、これならもっと強い火を起こせる事にだろう。
「く、く…………カカカいイゾ」
気のせいか何だか気分がおかしかった。何だか意識が朦朧としている……そう、まるで酷い二日酔いの様に。身体がどうこうではない、意識だけが混濁していく様だった。
ゴオオッッ!!
炎が巻き上がった。そして、
「なーる程。確かにさっきまでとは違うじゃねェか」
田仲の目に零二の姿が映った。あれだけの火、いや炎にマトモに身を包まれていたというのに……ブレザーすら燃えてはいない。悠々としたその所作は、まるでその炎すらも自分の一部であるかの様にさえ見える。
「ドーピングの甲斐があったじゃねェかよ。【イレギュラー】がパワーアップしてンぜ」
心底嬉しそうなその表情に、田仲は恐怖を覚える。
「い、イレギュラー?」
辛うじてそう聞き返すのが精一杯で、全身に怖気が走るのを誤魔かそうとする。
「あ? ……知らねェのかよ。オレらの使う能力だよ、アンタの火やオレのコイツみたいに、なっっっ」
そう言葉を発するや否や全身から”湯気”が巻き上がる。まるで蒸気のような微かな熱風が周囲に吹き抜ける。次の瞬間――田仲の懐に零二は潜り込んでいた。そして無防備なその鳩尾へ左拳をめり込ませる。強烈な痛みが瞬時に全身に走る。まるで、感電でもしたかの様に、ビクン、と大きく身体が九の字に折れ曲がる。
「おいおい、こンなもンかあっっ」
更に顔面、それも鼻柱にめがけて頭突き。痛烈な痛みと、衝撃で意識が途切れそうになる。よろめきながら田仲は、骨が折れたのを実感、恐らくは肋が折れたらしい。ズキズキと激しい痛みが走り、呼吸が苦しい。
零二は、相手が本気で苦しむ様を見て、
「おいおい、【リカバー】も知らねェのか。その位すぐに治るぜ」
思わずそう声をかけると、相手の無知振りに柄にもなく心配そうな表情を浮かべてもいる。
「がはっ、ごほっ」
田仲は呻き苦しみながら、自分の骨折がいつの間にか元通りになっている事に気付く。まるで、何事も無かったかの様に折れた肋がくっついている実感があった。
「な、治ったろ? ソイツがリカバーってンだ、で、そろそろ捕まってくれねェかな? オレもイチイチぶン殴るのは手間だし、アンタも痛め付けられるンは嫌だろ? だからよ……」
諦めろ、そう言った。
「い、嫌だ、私は!!!」
田仲が叫びながら炎を放つ。火炎放射の様に凄まじい勢いで放たれたそれは零二を飲み込む。
「へへへっ、いいねェ。こうこなくちゃあよ」
その炎をも嬉々とした表情と声で、「あああっ」気合いの入った雄叫びと共に炎を消し去った。全身から出る蒸気が一層激しくなるのが見え、田仲はいよいよ恐慌をきたした。
≪そうだよねぇ、嫌だよね。だから……君を強くしてあげるよ♪
さぁ────自分に素直になるといい!!≫
声が聞こえた。それは田仲の脳に直接届く様な声。
その瞬間。ドクン、鼓動がした。
全身を何かが侵食していく。何か得体の知れない何かが身体を、精神までも毒し、汚していく。
──レイジ。
歌音の声に零二は頷く。
「……ああ、アイツ。怪物になりやがった」
フリークとは、能力者の行き着く先とも呼ばれる姿。
マイノリティは、強力な異能を持っている。
それは個人差こそあれ、下手な軍隊をも単体で撃破可能ともされる絶大な力だ。
だが、何事にも”代償”は存在する。
イレギュラーの過度の使用はマイノリティの精神や理性を不安定にしてゆく。そうして、限度を越えた者が例外なく陥る姿こそ、フリーク。只々己の本能の赴くままに殺戮破壊を行う怪物と化するのだ。そうなった者は最早元には戻らない。元の人格は消えて失せるのだ。
姿こそ元のままではあったが、それはもう別の存在だった。
それを如実に語るのは、目。焦点がハッキリせず虚ろなその目には理性の欠片もなく、ただ底知れない悪意だけを称えている。
「あああああああ」
突然、田仲だったものは叫び声をあげるとその場から逃げ出す。
無論追いかけようとした零二だったが、不意に足をすくわれる。
田仲だったものが、放った炎がアスファルトを融解、まるで水飴の様にドロドロにしていた。
「ちっ、おいっ」
──分かってる、ヤバイ。……アイツ街中に出る気だ。
(ワタシハドウシタンダロウカ?)
それは田仲に残された僅かな人間性、理性の声。
何が起きたのかは分かっていた。
自分が、街中の、それも大通りに出ようとしているのも。
一体何をしようとしているのかも。
彼はドロップアウトという連中が嫌いだった。
彼らの多くは十代から二十代の前半だ。
理由は様々だが、一番は自分の居場所がないから、だそうだ。
(クダラナイ)
そう思う。居場所なんていうのは作る物だ。他人任せにていいものじゃない。そう思い、生きてきた。
自分はそういう思いとは無縁だとも考えた。
だからこそ。
ドロップアウトという連中が嫌いだった。
彼らは群れる事で力を得ているつもりかも知れない。
だが、そんな事がいつまで続くのか?
いつまでも子供のままじゃいられないのだ。いつかは大人になるしかない。
現実から目を背け、楽に稼ぐ方法として犯罪に走るその幼児性に吐き気すら覚えた。
(デモソレハワタシモオナジダ)
今の自分がそんな彼らを嘲笑えるはずもない。
自分もまた安易に力を得て、それを行使して他者を殺したのだから。数十人ものドロップアウトをこの世から消した。
理由は、結局の所は自己満足だ。
彼らが消えればその分、街が良くなるとか、そういう耳障りのいい言葉を理屈で誤魔化した。大通りには大勢の人がいるだろう。
そんな人々を焼いてみたいのだ。
何も知らない人々の恐怖と悲鳴の合唱が聞きたい。
最早、その事だけで田仲というフリークは動いていた。
(タノムトメテクレ、れ)
ガガッガガッッッ。
不意にそのフリークの足元が抉られ、転がる。
それは歌音の出した”音”による破壊だった。
「がああああああ」
雄叫びをあげながら起き上がったフリークの顔面に、強烈な蹴りが入る。
「ったく手間取らすなよ」
零二だった。彼の中段蹴りが炸裂していたのだ。
およそ三十メートル。その距離を一気に詰めながらの蹴り。
零二のイレギュラーは”熱操作”。
所謂炎熱操作を行使できるマイノリティが最初に訓練で学ぶ基本能力とされる。
例えば自分の体温を急激に高める事で、身体能力を飛躍的に向上させる事が出来る。更に、自身の周囲を高温にする事も出来、多少の攻撃は無効化、もしくは威力を削ぐ事も出来る攻防一体のイレギュラー 。
だが、これは酷く効率が悪い。
自身の熱量を操作する事は多大なカロリー消費を招く。
消耗や疲労も大きく、殆どの炎熱操作能力者は、基礎だけを学び、熱操作とは別のイレギュラーを身に付ける。
零二の本来のイレギュラーは”焔”。何もかもを焼き尽くし、消し去る破壊と殺戮の権化。
今の熱操作は、本来のイレギュラーが使えないからの代用品に過ぎない。
だが、零二はこの二年間、ひたすらに熱操作だけを鍛えた。
生きる為に、どんな事があっても生き抜くと大事な人との”約束”を守る為に。そして何よりも自分の炎を二度と”使わない”為に。
そうした鍛練の結果、彼は常軌を逸した戦闘力を身に付けた。
WDの資料には、彼のイレギュラーは炎熱操作と書かれている。
間違ってはいない、それは確かに。
今のイレギュラーは、熱操作は仮なのだから。
「立ちな」
零二は一言だけ言うと、右拳を握り締める。強く、強く。この世の理不尽を潰すかの様に。すると……。
右拳が白く輝き出す。正体は単に熱量の大半を拳に集約させただけ。これが、この拳こそがこの野生の獣じみた少年の切り札。
田仲であったフリークは咄嗟に後ろに飛び退いた。
理性は失っても本能で分かった。
あの拳が危険な代物であると。
少年は言葉をかける。
「さ、アンタの本気を見せな。……オレはソイツを叩き潰す。
アンタが生きてきた証を、オレは──」
零二は腰を落とし、構えて言う。
「まとめて──全部ブッ飛ばす」
フリークが仕掛けた。口から巨大な火球を吐き出す。
火球は瞬時に周囲の壁やアスファルトを溶かしながら、迫る。
零二は動かない。微動だにせずただ身構える。
火球がその眼前に迫った時、動いた。
「ぜやああっっっっ」
溜めに溜めた全熱量を解き放ち、ただ拳を放つ事に意識を集中。
火球と拳が正面からぶつかり合う。
激しい業火が周囲を包み込む。まるで地獄のような激しい炎が巻き起こる。
フリークは満足気に表情を歪めた。
もしも、街中でこんな火球を放てば間違いなく数百もの命が軽く消える事だろう。
しかし、これ程の激しい業火が巻き上がったというのに、野次馬一人として姿を見せないのは何故だろうか?
そう疑問を抱いた時だった。
「誰も来やしねェよ──」
零二が飛び込んでいた。
その全身は火に包まれており、着ていたブレザーも所々焦げ付いている。だが、その表情に焦りは見受けられず、
「──ここがアンタの墓場だからなっっ」
寧ろ浮かんでいたのは笑顔。満足そうな笑み。
白く輝く右拳が相手の腹を直撃。そのまま突き通す。
その瞬間。
全身のあらゆる水分が沸騰した。
血液が、尿が、汗が、髄液が、胆汁が、ありとあらゆる水分が沸騰し、蒸発。
爆発的なその熱上昇は、瞬時に田仲という存在を蒸発――文字通りに消し去った。
(ア、シヌンダな。私は……)
その刹那、田仲の中の自我が目覚めた。
自分がやってしまった事は取り返しの付かない事だ。
だから、こうなるのも仕方がない。
不思議と痛みは無い。心地好さすら感じる。
零二はハッキリと見た。消える瞬間ではあったが、フリークだった相手が元の人間、田仲へ戻ったのを。彼の最期の表情は、フリーク等ではなく……紛れもない人間であった。
その場に残されたのは、彼が着ていたスウェットや靴に財布等の小物類。それから、ポケットから落ちたドリンク剤の入っていたビン。
≪あーあ、死んじゃったか。ま、いいか。まだまだ人形は幾らでもいる訳だしさ。
それにしても、武藤零二ね……面白そうだね、彼は≫
その様子を何処からともなく眺めていた少年、通称”パペット”はニコリと愛想のいい笑顔を浮かべると、闇に姿を消した。
数分後。
路地にはWDの関係者が、溶けてしまった路地の補修に追われていた。アスファルトを塗り直し、割れた窓をはめ直す。
半ば折れかけた電柱を元に戻そうと時間との勝負をしている。
明らかに目立つ作業にも関わらず、一本向こうの大通りを行き交う通行人の大半は何も気にする様子もない。
路地の前に工事中、という看板があるのと、無意識に何故か”興味を抱いてはいけない”という思いに動かされるのだ。
だが、その場にこの惨状を招いた当人の姿は無い、何故なら。
「おいおい、七時半じゃンかよ、タイムセールが……夜食が無くなるッッッ」
零二は半泣きだった。
そこにさっきまでの不敵さ等は微塵も無い。
ぐうううう、と豪快に腹の音がする。
零二の最大の弱点は、基礎代謝が異常に高いという事。
その為、食事量は普通の六倍、一日におよそ一万二千キロカロリーはとらなければ、身体が持たないのだ。
桜音次歌音は、遠くからでもハッキリとその動揺が理解出来る、あまりにも必死な形相の相棒に、
──何をそんなに焦ってる訳? そんなに急がなくても少し位残ってるでしょ?
と、呆れた気味な声をかけた。
「お、お前は分かっちゃいねェよ、タイムセールを狙う主婦のおばちゃん達のおっそろしさを。アイツら、ぱねェンだぞ、何も残さないンだぞ、な・に・もだぞっっ」
本気で泣き出しそうな零二に完全に呆れた歌音は、
──じ、じゃまた。あーあ、面倒だったぁ。
と言うと会話を打ち切った。
ちなみに零二が最寄りのスーパーに着いた時、お目当てのタイムセールの商品は、きれいさっぱり無くなっていた。
そして、残ってたのは彼が苦手なたっぷりのチーズが乗ったミートソーススパゲティのみで、半泣きに陥った。
◆◆◆
九条羽鳥。
彼女を一言で表すなら、傾国の美女。彼女から漂うのはこの世の物とは思えぬ、妖しく、艶やかな美しさ。
この一見すると、暗闇に包まれた部屋で彼女は声をかける。
「ご苦労様です、首尾は?」
すると、物陰から人影。それは支部長である彼女の腹心の部下であるシャドウ。一見すると端正な顔立ちの青年だが、彼の素顔を知る者は上司である彼女のみ。
普段は九条の秘書として働いているこの男は、裏で様々な陰謀に荷担し、暗躍している、独断で。
だが、その全てに於いてこの男の行動はWDの、ひいては尊敬し、敬愛する上司の為である。それを知る九条は敢えてこの男を自由にしている。
九条羽鳥にとっては、全ての”ピース”がそれぞれの役割を果たす事こそが一番重要な事であり、その為であれば如何な過ちすらも些末な問題であった。
「ピースメーカー。これを」
シャドウが差し出すのは、田仲の持っていたドリンク剤が入っていた空き瓶。そこには人形が描かれたシールが貼ってある。
「詳しい検査結果はまだですが、恐らくは間違いないでしょう。
あの男が、パペットが街に戻っています」
シャドウの表情が険しくなる。パペットと九条、いや九頭龍支部には因縁があるのだ。何故なら、
「私に命じて頂ければあの者の首を落としみせましょう。
──あなたに命を救われた恩を忘れ、WDを裏切った男に相応しい末路をこの手で!」
かつて彼はWDの一員であったから。
九条羽鳥は腹心のその提案には答えず、僅かに笑みを浮かべた。