ミスフォーチュンギャザリングオブピープル(Misfortune gathering of people)その4
「やだ。やめてよ……」
少女は目の前に迫るモノに話しかける。
「……………………」
だが相手からは何の返事もない。ただジリジリ、とにじり寄るのみ。目は血走っていて、正気だとは到底思えない。
意味が分からかった。何が起きたのか、全く意味が分からない。
無理もない。どうしてこんな事になったのか、訳も分からないままに巻き込まれたのだから。
彼女、添碕木岐はにとって、いつも通りの一日のはずだった。
それがどうしてこうなったのか、彼女に分かろうはずもなかった。
◆
八月三十一日。
「ふっ、すっ」
早朝、まだ日が昇り始めの中。すっと伸びた農道を一人の少女が走る。
程良く引き締まった身体は、彼女が日頃からこうして走っているのだと容易に想起させる。
栗色のショートヘアも相まって活発そうな印象を与えるに違いない。
福井県立女子高等学校。通称福女の二年生である木岐は、日課の早朝ランニングに出た。
福女は九頭龍内にある学校の一つで、唯一の女子高。人数は三学年で五百人程。
他の共学校と違い、俗にお嬢様と云われる子女が通う学校として九頭龍内でも有名。
とは言え、それはあくまでも一般的な話。木岐は中流家庭の出身であり、入ったのはスポーツ推薦。学費の免除、という条件での入学。学業よりも部活動での成果を求められる立場であり、この日課もそうした部活動で結果を出す為である。
木岐が所属するのはバスケ部。一六〇を僅かに超える程度の、体格に恵まれているとは言えない彼女の持ち味は敏捷性を活かした切り込み。支えとなる体力及びに脚力の強化、最初はそう考え、随分と思い詰めた時期もあった。
「…………ふぅ」
しかし今は違う。勿論、体力や脚力の強化は大事なのは分かっている。
でもそれ以上に、もっと大事な事に木岐は気付いていた。
体調管理、気分転換、とにかく疲労回復の為にこそこうした習慣が大事なのだと。
「うん、調子いい」
彼女は上機嫌だった。理由は昨日の練習試合。久し振りに満足のいくプレーが出来たから。
監督やチームメイトも大喜びだったのも当然で、練習相手は昨年及びにインターハイの全国優勝校。去年と大きくメンバーも変わっておらず、ウインターカップでの優勝最有力校。そこを相手取っての勝利だったのだ。相手からすれば本気ではなかったのかも知れない。調整が目的であったのかも知れない。そんな理由など福女バスケ部には関係ない。雲の上かも、と思っていた相手に勝てたという事実が大事なのだ。
(ウチらだってやれば出来る。今度はウインターカップで……)
気の早い話だとは理解していたものの、木岐達はそんな事を思い浮かべた、その翌日。
連日の夏の暑さもまだ日が出始めたばかりの午前五時という時間もあってか、それ程感じない。
「ふ、ふっ……」
テンポよく腕を振り、その勢いで足を動かす。腰のポーチに収めたスポーツドリンクを取り出して水分補給をする。時折すれ違う散歩中の老人や彼女同様のジョガーに会釈や挨拶をする位で、それ以外の時間を一人で走る。
この日課をいつから始めたのかはもう忘れてしまったが、木岐はこの時間が好きだった。
この時間だけは余計な事を考えずに済む。人もまばらで、空気も新鮮。日の光も穏やかで、程良く涼しいこの時だけは日頃の事を考えずに済む。普段後ろ向きな彼女が前向きになれる時間。
「今日は違う場所に行こうかな」
木岐が普段走るのは家の近所、主に農道をグルリと回るコースだ。距離にして五キロ。より大回りすれば十キロ。この二つを気分や時間によって切り替えていた。
それとは別、少し離れた隣町にある多目的スポーツ施設の周回が、今日の木岐が選んだコースだった。
「うーん。やっぱりここは結構人がいるなぁ」
目的地へと辿り着いた彼女の目に入ったのは、サッカー場で練習している青年達。このスポーツ施設は大学や高校、社会人にプロチームまで多くの選手が朝から夜まで練習や合宿に使うので、早朝でも人手は多い。
かくゆう木岐のチームも以前、合宿で体育館を使った事がある。
多くの人が練習する姿を見る事で励まされる。だからこそ、部活動などで上手くいかずに気分が沈んだ際、彼女はよくここに来たものだった。
「よっし、蹴るぞぉ」「こい」「こっちだ」
声を張り上げ、チームメイトにアピールする姿はバスケにも共通する。
そんな光景を見ながら、ゆっくりとしたペースで周回していた時だった。
《ギィィィィィィィィィィィィィィィィ》
それは一言で言えば不快極まる音だった。
まるで爪先でガラスを引っ掻いたようなあの音を数十倍にまで大きくしたかのような不協和音。思わず「うえ、っ」と吐き気を催した木岐は、その場にうずくまった。
「……う、う、っ」
時間にして十秒間。木岐はこみ上げる不快感をこらえる。すると唐突に今までの気分の悪さが引いていく。
(何だったの、今の?)
はぁ、と深呼吸をし、荒い呼吸を整えると木岐は再度走り出す。とは言え、今ので気分を大きく削がれた木岐は、この周回だけ走ったら帰る事を決める。
(あと半周。ちょっとだけ走ろう)
そう思い、さっきよりも重くなった足を動かし始めた時である。
「やめろおっ、ぎゃあああああああ」
耳をつんざくような絶叫に木岐は足を止める。
声がしたのは、さっきのサッカーコート。遠目からではハッキリとは分からない。ただ、様子が変だとは思えた。
「…………」
どうも誰かが倒れているらしい。接触でもしたのか、とも思えたが、奇妙な事に誰も近寄ろうとはしない。それどころか、コート上にいる全員が一斉に散らばるように走り出している。
(なに? 練習メニューを変えたの?)
木岐が注視している内に、様子はさらにおかしくなっていく。走り出した選手に他の選手が後ろから飛びかかる様が見えた。
「なに、何なのよ一体──」
状況が見えない為か、木岐は困惑を深めつつ、それでも危険を感じて走り出すのだが。
「うぐおおおおおおお」
絶叫を上げながら誰かが前に飛び出す。格好から察するに自分と同じく早朝ランナーらしい。
「う、あっ」
木岐は止まろうとして、その場で転倒。
「お、おんなおんな」
ランナーの言葉は片言、というより呂律が上手く回っていない。木岐の目には酔っ払いのような酩酊状態にも見える。
「ひいっ」
だが単なる酔っ払いではない事はその手をみれば明白。何故ならば──。
「ぐちゃぐちゃに、ツブスぅ」
その手は血に塗れていた。ポタポタ、とまるでペンキにでも突っ込んだかのようなその手からは、僅かに鉄の臭いを漂わせる。
ニタニタと不気味に笑いながら、ランナーの男の手は木岐へと向けられる。
「やだ、やだやだっっっ」
向けられる悪意、そして恐怖の前に身体は硬直し、ただ声を出す事しか彼女には出来なかった。
◆
見知らぬ誰か、ランナーの手が木岐へと向かう中、
「オイ、その位にしとけよアンタ」
不意に声が聞こえた。
目の前にいたランナーのものとは明らかに違う誰かの声。
そして風を感じた。ぶわん、と何か大きなモノが近くを過ぎったような感触。そして直後に熱気が肌に届く。暑い、まるで真夏、いやそれよりもずっと熱いモノがすぐそこにいる。
「…………」
恐る恐る目を開いた木岐が見たのは、地面へと転がったランナー、そして自分の目の前に立つ少年の姿。
白いシャツに下は赤いタンクトップが透けて見える、それから短パンにスニーカー、といった装いをしたツンツン頭の少年こと武藤零二は木岐へ振り返ると、
「よ、もう大丈夫だぜ」
どこか野性を思わせる、獰猛さを残した笑みを浮かべながら、手を差し出すのだった。
 




