鬼の変化
迫っていく。鬼の手は空手で云う所の貫手のように一直線に心臓へ突き出される。
まさしくその勢いは槍の如し。
権能によって常に先手を打てる鬼の一撃はまさしく一撃必殺。
零二にそれを躱す術などない、そう思えた。
異変が生じた。
鬼は貫手の勢いが阻害された、と気付く。
(────!!)
そしてその光景に目を剥く。
そこにあったのはまさしく一面の火の海であった。
(来る──)
虚空から放たれる一打。
既に満身創痍の零二には迫る貫手を躱すのは不可能。
だから、せめてもの嫌がらせ、悪あがきそのものだった。
見えた瞬間、焔を揺らめかせ──一気に周囲へ延焼。
周囲全てを焔で覆い尽くしてみせる。
別段深い考えなどはなかった。
煉に指摘された事ではあったが細かい事など考えず、悪あがきをしてみただけ。
それも単に虚空から手が出た瞬間、焔を撒き散らせば火傷でもするんではないのか、という程度の事。
だが鬼の攻撃は明らかにその速度を減少させる。
さっきまでの攻撃がまるで弾丸であるなら、今やこの貫手はヒョロヒョロ飛んでくる子供が投げたボールのようなモノ。傷付いているとはいえど零二は簡単に躱す。
『おのれ小僧っっ』
鬼の声からは狼狽しているのが伝わる。
理由は分からない。考えるような暇はないし、余力もない。
ただ理解した。これでいいんだと。ならばやるべき事は至極単純。
「もえろ、────もえろォォッッッッ」
周囲を焔で覆い尽くす事だけだった。
◆
(アイツ──やったわね)
美影もまた目の前で起きた現象を食い入るように観ている。
零二がやった行為はまさしく美影も考えた末に至った結論。
相手の攻撃が予期出来ないのであれば、せめて自分にとって少しでも優位な状況に持っていけばいいんじゃないか。なら、周囲を炎、或いは凍らせればいいのでは、と思ったのだ。
(効果はあったみたい)
焔を受け、鬼の攻撃の勢いは完全に削がれた。
これなら通じるかも知れない。そう見える。
──ああ、アイツもやるもんだ。
誰かも感心したらしい。
──だけど、まだ詰め切れないだろうなぁ。
(どういう意味?)
──簡単さ。今のアイツが万全盤石なのか? って事だ。
そう言われ、美影は即座に理解する。
この先の状況を。
(このままじゃ零二が死ぬ)
──ああ、まず間違いなくな。
その言葉を姿のない誰かは肯定した。
◆
『ぬうううっっ』
鬼はその焔を振り払おうと幾度となく腕を振るう。
だが焔は一向に消えない。振った直後こそ勢いは弱まるのだが、それも僅かな時間。散り散りになるかと思えた焔はまたぞろ勢いを取り戻し、燃え盛る。
『ちょこざいぞおのれッッ』
まさしく生きているのかとも思える程に焔はまとわりつく。
かつて戦った焔遣いとは全く違う性質のモノ。
あの焔は全てを断つ事に特化していたが、それは違う。
(大した火力ではない。現に我の皮膚には何ら傷も付かぬ。まるで児戯。だが──)
問題はその焔によって”存在を消せない”事。
この世界から離れようにも、このままでは叶わない事である。
(これでは結界に閉じ込められたに等しいではないか)
むしろ、五体を自在に使える分、かつての結界の方がまだマシに思える。
(たちの悪い小僧っ子め)
そして苛立ちを覚えた赤鬼に零二から更なる攻撃が放たれる。
「────しゃあっっっ」
気迫を込めた叫びと共に左右両手を大きく掲げ、焔を一気に噴き上げる。さっきまでよりも一層勢いが増したそのほとばしりは火炎放射、と言っても差し支えないモノ。
『く、ぬうううううう』
そしてほの放たれた焔は腕にまとわりついた焔と合流、更に勢いを強めだす。
『く、おお、ぬああああああああ』
皮膚が焼けていく。
僅かながらも確実に皮膚に焔が侵食していくのが分かる。
このままでは腕がなくなる。
それ以外の部分は存在しないモノとして誤魔化せるかも知れないが、今そこに存在している腕は燃え尽きて跡形もなくなる。つまり存在しなくなってしまう。
(何たる事よ。我が、かような焔に縛られるなどとは────)
逡巡しているこの瞬間にも焔は腕へ侵食してゆく。
このまま損なわれてしまえばそれまで。復活すら出来なくなるだろう。
”忌み火”
いみじくも藤原新敷の記憶の中にあった言葉が脳裏をよぎる。
そして鬼は理解する。
今、この身を襲うモノの本質を。
同時に戦慄を覚える。
(そうであった、か。この焔の正体は──)
そう理解した鬼は権能を解く事にした。このまま時間を稼いでも意味はない事を察したから。
「う、おっ」
零二はいきなり目の前にすう、と姿を見せる相手に面食らう。
彼は気付いていない。何故相手が姿を晒したのかを。
あくまでも悪あがきの一環で仕掛けた焔が思った以上に効果があった事に自分自身が一番驚いていた。
実際、零二は何故未だに相手の腕が焔で灼かれているのか分からない。
他の周囲に放った焔は既に鎮火しつつあったのだ。
『小僧。どうやらお主は手加減してはならぬ相手のようだ』
その言葉からはさっきまでのような優越感は聞き取れない。
その表情は引き締まっており、目には驕りの色はない。
言葉にこそしないがその様子で伝わってくる。相手を対等の存在だと認めている、と。
「へっ、どうしたよ? いきなり殊勝なコトじゃねェか」
零二の方は顔でこそ笑っているが、本心は真逆。
どういう変遷を経てこうなったのかがまず分からない。仮に相手がこちらを強者だと認めたのだと言うのが本音であるなら、状況は悪化したとしか思えない。
「こっから本気の本気でも出すってのかよ?」
鼻を指で弾き、わざと挑発するような言葉と態度にも鬼は何のリアクションも返さない。
(へっ、マジか。マジもマジ、大マジかよ。やべェな)
いっそ舐めてかかってくれた方が良かった。油断してくれさえすればまだ付け入る隙もあったかも知れなかった。
だが目の前に姿を表した赤鬼に油断の気配は皆無。
『小僧、名を確か武藤零二、と言ったか?』
「ああ。それがどうかしたかよ」
『まずは我からお主に謝罪をしよう。どうにもこの器の記憶や感情やらに随分と感化されていたようだ』
「オイ」
赤鬼はそう言うと実際に軽く、小さくではあったが頭を下げてみせる。
それはかつて京都を始めとして日本中を荒らしに荒らし回った頃の怪物からはおよそ有り得ない姿、行動であった。
そう、赤鬼は以前とは違うモノになっていた。
復活する為に多くの人間を糧に、贄として利用し、不本意ではあったが利用されもした。
そんな歳月を巡る内、鬼は人の感情をすら知らず知らず取り込んでいたのだ。
『かか。人とはなかなかに愉快なモノだ。そうは思わぬか武藤零二?』
そう言う鬼の口元には確かな笑みが浮かんでいる。
「さぁね。生憎オレの場合、人生経験っつうのが足りてねェもンでね」
つられて零二も、その口を歪ませている。
『四の五の、と語ってもよいがそれではつまらん。そうであろう?
我とお主、鬼たるモノと忌まわしき焔遣いの間には言葉など不要。ただ全てを出し尽くして殺し合うのみよ』
鬼はニタリと一層の笑みを浮かべると、虚空より巨大なモノを取り出した。
それこそは鬼が鬼たる所以とも云える象徴。巨大な金棒だった。




