藤原新敷──その4
「む、」
最下層である地下十階へ着地するのと同時に藤原新敷の姿に変化が生じていく。
さっきまでの赤銅色の肌をした異形の姿、赤鬼そのものから元の禿頭の大男へと立ち戻る。
もっともその変化は彼自身が望んだものではなく、
──これ以上はお主にも負担が大きいからな。変化は解除させてもらおう。
だが、契約は契約だ。相応のモノはいただくぞ。
それを為したのは今や藤原新敷の一部と化したかっての怪物。
今更ながらではあるが重々しく慇懃な物言いなのに、少しばかり失笑を覚える。
「く、ぐぐく」
思わず呻き声を漏らす。それは痛みに起因するものではなく、例えようもない程の違和感から生じる。
じゅくり、と左目が疼くのは一種の副作用、違う言い方をするならば代償といった所だろうか。
万が一の凶器になる可能性を考慮してこの実験場には鏡など置いていない。それについさっきまで戦闘をしていた為に、小物の類はまとめてロッカーへ入れているので自分の姿を視認する事は叶わない。だが分かる。何が起きたかは明白だった。
左目の周囲が異常なまでに熱い。
浮き出した血管がびくん、びくんと脈打つ。頬やこめかみなどを含めた顔のおよそ半分がまるで別の生き物にでもなったかのように感じる。実際そういう事なのだろう。
このかつて国を、何よりも京の都を荒らしに荒らし回り恐怖を撒き散らした鬼ははっきりと告げた。代償を貰う、と。
それがつまりはこういう事なのだろう。文字通りに鬼の血となり肉となる。
その途方もない強大な力をより多く行使すればするだけ、である。
さっきの場合でなら、瀕死にまで追い込まれた状態をあの鬼と一体化する事で凌いだのだ。
その上であの憎い小僧を倒した、そう考えればこの程度の代償は致し方ない、と藤原新敷は己を納得させる。
そうした禿頭の大男の心情は今や肉体に癒着、浸食を始めた鬼にも分かるのだろう。
──我はお主を気に入っている。実に良い触媒だぞ。出来れば長い期間実りある関係を続けていきたい、そう思う程にはな。
「ふん、それはまた随分とお優しい事だな」
まさか異形の怪物にそんな言葉をかけられるとは思いもよらず、口元を歪ませる。
だから次の言葉は気に食わなかった。
──だが気になる。
「…………どうした?」
──あの小僧っ子だ。名は武藤零二、といったか。どうにもな。
「あれはついぞさっき殺した。その事実をお前も知っているはずだが。まさか怯えているのか?」
藤原新敷は苛立ちを隠す事なく、異形のモノへ冷淡な言葉をかける。
普通の神経の持ち主であるならば恐れて当然とも云える、ましてや自分自身と一体化、さらには徐々に肉体を奪っていくであろう相手に対し、こうも辛辣な言葉と態度を取れる点は、曲がりなりとは言えど大したモノといえるだろう。
──我に向けてかようにも大きな口を叩くとはな。だが気にはならぬか?
あの小僧っ子からはまだ余力のようなモノを感知した。
「…………」
──にも関わらずそれを扱うでもなく、ああも易々と倒れた。
我からすれば違和感しか感じ取れなかったぞ。
お主とて気付かなかった、とは言うまい。何せ小僧っ子の潜在的な力を誰よりも恐れていたのは他ならぬお主なのだからな。
「……黙れ」
それしか言葉が出ない。それも当然、ずばり図星だったのだから。そもそも今や自分自身をも取り込んでいる異形の鬼、に隠し立てなど不可能。他者にならどうとでも虚偽をつけて誤魔化せる事も、自分の一部、血肉を精神をも共有化した相手には何の効力もない。
「分かっている、…………わざわざ言わずともな」
そう、最初に相対した時から自覚はあった。
No.02、今の武藤零二は間違いなく自分よりも強くなり得る存在なのだと。
(そうだ、だからこそ俺は)
本来受けた役割は目の前にいるまだ幼さを残した少年に戦い方を教える、というモノだったのだがいつしかそこから逸脱。徹底的に虐げ、痛めつけ、劣等感を植え付けた。
訓練を積めば積むだけ少年の脅威は増す。しかも聞けばそのNo.02とは武藤の家の子供だという。つまりは藤原一門。如何に分家とは言え、武藤の家は未だに九頭龍に於いてそれなりの影響力を保持していると聞く。将来的に藤原本家の中で栄達を目論む禿頭の大男からすれば敵に回ってもおかしくない立場なのだ。
(そうだ、そんな奴を迂闊に強くした挙げ句、ここから外に出たらどうするのだ)
No.02が藤原本家にとってどういった存在なのかを当時、まださしたる地位も持たない藤原新敷は知らされていなかった。そしてそれがどうしようもなく不安を掻き立てる。
まだまだ戦い方もろくに知らない無知な子供。
する事と云えば生まれた時から持ち合わせていたというその焔を無作為に振るうだけ。
だがそれだけにも関わらず圧倒的な強さを持ち合わせていた。
それをわざわざ自分が強くしてやらねばならない、という。
無論、今すぐにこれまで積み重ねた強さを越える事はまず有り得ない。
だがもしも、である。
まともに正しく訓練を積み重ねでもすれば一体どこまで強くなってしまうのか?
そうなればゆくゆくは自分もお払い箱なのではないか? そんな考えが頭をもたげていく。
(武藤の家はかつては藤原の武を受け持ったと聞く。この小僧を強くしてしまえば俺の立つ瀬などなくなるのではないのか?)
そうした不安はまるで泥のように日々積み重なっていく。
だからそうした不安を払拭すべく徹底的に痛めつけた。依頼を無視する訳にはいかない。戦い方はある程度は教えつつ、その一方で必要以上の暴力を、虐待を加えた。
(お前は俺には勝てん。俺よりも弱く無力なのだからな)
そう精神に強く深く植え付けた。
お前は俺には及ばない。刃向かうのは無駄だと。そして二年前、あの日に目を抉られた事は例外として、今日の対決に至るまでそれはずっと有効であった。
そう、一度目は九頭龍学園の学舎にて。
武藤零二は明らかに動揺し、実力などろくに発揮する事もなく敗北を喫した。
そして二度目は昨日、足羽山の洞窟にて。
確かに前回より相手は強くはなっていた。だがそれでも負けるとは思えず、実際零二は及ばなかった。
そして今日。
たった一日。より正確に云えば一日も経過していないような時間経過にもかかわらず、焔遣いの少年はまるで別人のように変わっていった。
ついぞ先日までのような自身を燃料とした貧弱でお粗末な焔から二年前のように焔を扱い始め、その上でこの二年で覚えたであろう経験を組み合わせて刃向かって来た。結果としては返り討ちにしたものの、鬼と契約を交わしていなければ恐らくは敗北を喫していたのは自分であった事だろうと確信している。
(もしも、だ。あれ以上戦いが長引いていれば…………)
可能性の問題ではあったが、或いは、と思う。
──お主の懸念は正しいであろう。あの小僧っ子はまだ進化してお主を完全に越えたであろうよ。かつてのお主が恐れたようにな。
鬼は指摘する。
──あの小僧っ子の真に恐るべき点はそこよ。信じ難い勢いで進化していく。まるで風に煽られた炎が勢いを増していくかのようにな。最初こそ上手く手繰っていたものの、やがてその勢いは手に負えないまでに大きくなり、気付けば──。
「黙れ! それ以上言うな!!」
思わず怒鳴る。この鬼は今や自分自身でもある。この鬼の言葉は自身の言葉でもある。分かっている。分かっているのだが、認めたくはない。
己の器の小ささを認めたくはなかった。
「あの小僧は死んだのだ。さっさと小娘を回収し、片を付けるぞ」
それだけ言うのが精一杯だった。
実験場の奥にあるロッカーから服の予備を着替える。服装は常に清潔でなければ藤原の一門としての名折れ、そうした思いからの行動。
呼吸を整え、ゆっくりとした足取りで気絶したままの美影へと迫っていく。
(しかし……あんな小娘に一体何の価値があるというのだ?)
そんな事を思いつつ、藤原新敷が美影へと手を伸ばすのだが────。
「触るなハゲオヤジ──」
「む──!」
気付けば禿頭の大男の腕は燃えている。
そして、さらに巨大な火球が目の前で発生するや否や、全身を包み込まんとする。
その勢いは一瞬で大男を覆い、そのまま灰にしようと────。
「やっぱり甘かった、か」
舌打ちをし、壁にすがりつくようにして美影は立ち上がる。
その視線の先には赤銅色の腕を振るって炎を吹き飛ばす藤原新敷の姿。
「小娘……ただでは済まさんぞ」
異形の左目をぎらつかせながら、くく、と獰猛に笑う様はまさしく鬼であった。




