実験──凍結
どうしてだろう、子供の頃からアタシは冬が大好きだった。
冬、と聞いてイメージするのは白一色の風景。
木々も湖にもそして家々にも降り注ぐ白い雪のちらつく景色。
まるで何もかもを包み込むような一色の世界。
それはまだイレギュラーなんて知る由もなかった子供の頃、ある休日だったと思う。
お父さんとお母さん、それからちっちゃなアタシの三人で雪遊びをした。雪だるまを作ったり、それから小さな小さなかまくらとかを作ってみた。
アタシの中で残った数少ない家族との記憶、アタシが普通の子供だったかけがえのない記憶。
ああ、そっか。
アタシが冬、いいえ雪が大好きだったのはこの白い小さなモノに家族の肖像を投影するからなんだ。
ありがとう、今までゴメンね。
でも、子供だったアタシにも守りたいモノが今はあるんだ。
今からはアタシは自分の好きだったモノに違う意味を、また違う光景を焼き付けてしまうんだ。
イメージするのは白い世界。
全てを覆い尽くして、空気すら凍り付く命すら奪う白銀の世界。
何もかもが止まって、何も聞こえない静寂に満ちた世界。
つまりはこれからアタシは自分の思い出を壊す。
目の前にいる敵の心身全てを凍てつかせる為にこの力を使うのだから。
◆◆◆
コマ送りとなった世界の中。
相手から発したであろう殺意の塊、不可視の壁が向かってくる。
美影に壁は観えない。だが漠然と分かる。椚剛の激情の発露の形が。相手を串刺しにせんとするモノ。このまま真っ直ぐに向かえば貫かれ、かと言って横へ躱さば、壁が即座に横へ伸びて同様の憂き目にあう、であろうと。
だがそれもこの感覚内では無意味である。
この感覚の中に於いては美影こそが世界の主。
どんな高速、であろうとも美影にはその形状も軌道も分かる。その上でそこから動いて躱す事も出来る。相手からすればその有り様は不可思議極まりないであろう。
「な、あたらう゛ぁいいいいい」
椚剛は激高する。彼の感情とは全く別にペルソナがイレギュラーを操作しているが、この戦闘補助プログラムにしても何が起きているのかは判断出来ない。
本来の性能を発揮した状態であれば話もまた別であっただろう。
椚剛がペルソナによる処置を受けたのはほんの数時間前。そして適合実験もろくにしないままのこの実験。
未だペルソナは椚剛の完全なる制御には至っていないのだ。
本来ならばもっと効率的な攻撃手段も取れたであろう。
だが今のペルソナにはこれが最善であった。
「こ、くおおおおおおお」
感情に従って壁を変形させる。槍ではなく剣山のように無数の突起物を壁全体に展開。間合いはおよそ五メートル程度ではあったが美影の動き、最低限の身のこなしを見る限りこれで倒せるとの判断である。
それはまるで千の刃であり、華奢な美影の肢体を容易く切り裂き、引き裂くはずであった。
「あ、たらなあああああい」
だが美影はそれをすら躱してみせる。
千もの刃、一つ一つ長さも太さ、鋭さもまるで違う死を招く不可視の凶器をかする事なく躱す。
(分かる、観えないけどそこに何かがあるのがハッキリと分かる)
コマ送りとなった世界で動く少女が感じたのは空気の流れ。普通であればまず分からない微かな流れ。極限まで集中した今の美影には見えない壁の動きを空気を遮った事で生じた流れを、そしてその本当に微かな温度差をも感じ取れる。
椚剛、ひいてはペルソナにとってその光景は信じ難いもの。
とうに正気を失った椚剛は半狂乱になり、その精神の乱れは制御しようと務めるペルソナの演算処理をも乱していく。
「く、あかあああああころすううううううう」
激高しながら椚剛はその左右の手を振るう。同時に発生した壁は巨大な不可視の腕を形成。美影をなぎ倒さんと襲いかかる。
(来る、巨大なモノが──)
無論美影はその流れを察知。躱そうとするのだが────そこにさっき躱したはずの千の刃が襲いかかる。そう、これがさっきから椚剛を使ってペルソナが仕掛けた攻撃の真の狙い。
原因は分からないが、躱されるのであれば躱せばいい。躱した先で袋小路に追い込めば回避など叶わないという判断である。
今度の刃は上下左右全方位から襲いかかる。左右に避けるのは不可。上も同様。地面から飛び出す壁の存在は隆起したその動きでバレたに違いないがこれで逃げる方向は前方のみ。そしてそこには椚剛左右の手を覆うように発した巨大な腕がある。
如何に躱す事に優れていようとも回避出来る場所がなければ意味はない。
絶殺の罠にかかった美影の運命はこれで潰えたかに思えただろう。
「クワバハハハハッッッ。これはこれは凄いねぇ」
道園獲耐はその光景に目を剥いた。興奮で手足が震え、そして破顔。
「ここまでとは、まさしく想定外だよ」
枯れ木のような老科学者は見た。
「く、あ、しなないいいいだとおおお?」
椚剛の表情に変化が生じた。蒼白に染まるその視線の先に映った光景。
壁が遮られている。
無数の千の刃、四方八方全てのそれが止まっている。
左右の巨大な腕は届かない。
「…………すぅぅ」
美影の口からは白い吐息が出る。
彼女の周囲全てを氷が覆っている。
それはさながら氷の柱。無数の不可視のはずの脅威をさらに外側から凍り漬けにしている。
「あ、あああああああ」
壁を外す、消せば問題ないのだがそれは出来ない相談である。
何故なら壁を消せばそこから凍り付いた空気が入り込む。一瞬で周囲を凍りつかせるこの氷雪から身を守るには壁を維持するしかない。
追い詰めるつもりが完全に追い詰められた格好となり、ペルソナによる演算処理はパンク寸前。
「悪いけど終わりだよ」
美影は悠々と歩き出す。
そして凍り付いた壁に手を添える。
すると壁は氷による圧力の増大に耐えきれず歪に潰れていく。
──素晴らしい、本当に素晴らしいいいい。
老科学者の耳障りな声が聞こえる。
だが美影は意に介さない。今の彼女は目の前にいる敵を倒す、その事にのみ集中している。
「く、るな、あああああああ」
椚剛の表情には明らかな動揺が浮かんでいる。
そこにいるのは理性を失い、ただ本能にしか従えないはずの怪物ではない。
本当に本能にのみ忠実であるのであれば椚剛は何としてでもこの場から逃げ出そうと試みるであろうに、表情とは異なり、壁はなおも動こうと抗う。
「くわばはははは、どうしたね? もっともっと足掻け絶対防御。さもなければこのまま死ぬぞ?
そしてペルソナよ、君が取るべき道に撤退の二文字は存在しないのだよ」
道園獲耐は狂ったような目で一心不乱にキーを打っていく。
その早さは尋常ではなく、とても老人のものではない。
「どうせ出来損ないの実験動物なのだ。せいぜい貴重なデータ収集に役立ちたまえよ椚剛君ッッッ」
くわばはははは、という哄笑は人のモノと言うよりもケモノのようであった。
ピキピキ、ピシピシ。
「…………」
凍てつく寒さの中、少女は素足で平然とした面持ちで歩く。
少しずつ、だが確実に周囲は凍り付いていく。
壁はまるでアルミ缶のように徐々にひしゃげていく。
「く、るな。くうるな」
美影の目にはさっきまで辛うじて見える程度であった椚剛の姿がハッキリと見えている。
そこにいるのはもう絶対防御、と呼ばれた存在などではない。
「アンタが誰かなんて知らないけど同情するわ」
もはや身動きすら取れない椚剛に美影が抱くのは憐憫。
「アンタの壁は自分を守りたい、ただそれだけのモノだっただろうね。
死にたくない、心からそう思ったからこそ発現したイレギュラーだったんだろうね」
「くる、なやめ、ろおおおお」
その叫びからは悲鳴すら聞き取れ、血をはくような切迫さがある。
「だからもう終わりにしてあげる────」
美影の言葉には相手への、ある種の慈愛すら聞き取れる。
そして、壁は破壊される。
「あ、ぐ、いたいいいいいいいいいい」
悲鳴があがる。
ピキピキ、という音と共に椚剛の手足が凍結。美影はす、と相手へ進み出てその胸に手を置く。
「さようなら」
それは彼女なりの葬送の言葉。
瞬時に椚剛の全身は凍り付き、彫像のようになってそのまま意識は絶える。ペルソナもまた制御不能へ陥り、絶対防御と呼ばれた者は完全にその鼓動を止めていく。
そこに、
「…………ドラミか」
声がかけられ、美影は振り向く。
「クリムゾンゼロ──」
そこにいたのは全身から焔を巡らせる零二の姿。その瞬間、美影の中で何かがざわついた。




